加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

守貞謾稿の中の凧を再現(3)

2015年02月04日 | 金澤郷土の凧資料
守貞謾稿の凧を再現してみよう。
まず凧の大きさをどうするか?今回はウィンドラブで扱っている既製品の寸法で47㎝×62㎝とすることとしました。
西の内(33×48)二枚相当の大きさとなります。竹骨は平竹として使用するため割竹を整形しすることとしました。竹の節はヤスリで削り厚みが均一になるようにする計画です。
まずは下絵を書くことから始めます。
カレンダーの裏に下書きしそれを写します。
(未の篆字凧)

(蘭の字凧)

(魚河岸の凧)
この凧の直線と円の曲線部分はフェルトペンで線描きすると、線の書き始めとか途中で止めた時にインクがですぎて線が膨らんでしまいます。
今回は、以前使っていた製図道具の中のコンパスと烏口(からすぐち)を使用することにしました。

(製図道具)(烏口)

製図道具は学生時代に購入し、烏口の使い方を少し学習した程度で仕事ても使用することはありませんでしたが、「婦くら雀凧」の下絵を描くときに使ったことは何回かありましたがフェルトペンが何かと便利なので変わってきていました。
市松模様の線描きは加賀の凧の「がめ凧」でフェルトペンを使い線描きをしましたが、出来栄えは良くなかった記憶があり、今回は烏口で墨入れをする手法で行いました。
円の線描きは二重に線引きし線の間を墨で塗るのですが、墨がはみ出した個所が出ましたが愛嬌で良しとしました。また、市松模様の線描きは良くできたと思っています。

竹を削って凧の骨組みを作る作業に入ります。
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守貞謾稿の中の凧を再現(2)

2015年02月02日 | 金澤郷土の凧資料
守貞謾稿の中に出てくる凧の記述が次の本に記載されていますので紹介しましょう。

近世風俗志(四) (守貞謾稿)
喜田川守貞著、宇佐美英機校訂
2004年1月15日 第3刷発行  岩波書店

卷之二十八(遊戯)
紙鳶(たこ)
文字によれば、鳶(とび)形を本(もと)とするか。あるひは形によらず、高く飛ぶを、鳶に比するの意か。
正字は凧なり。京坂ひては、いかのぼりと訓じ、下略して、いかと云ふ。
江戸俗は、たこと云ふ。尾縄を垂る形ち、烏賊および蛸に似たる故の名か。

『続博物志』に曰く、幼児は内に陽熱さかんなる故に、春陽の時節、その気いよいよ大過すれば、紙鳶を作り、高く飛ばし、童子に見せて口を開かしめ、内熱を上に洩らして、病を生ぜざるのためなり。

『事物記(紀原)』に曰く、韓信が作る所なり。春風は下より升(のぼ)り、その風は空中に横行す。
紙鳶に即してこれを見れば、春は能(よ)く起こり、夏は起ること能はず、云々。

大阪は、これを飛ばすを升(のぼ)すと云ひ、江戸にては、これを揚(あげる)と云ふ。
大阪は、正月末より二月を専らとし、特に二月初午の日を盛んとし、城の馬場(ばんば)と云ふ城辺の郊野に群集して、小宴を設け、児輩および壮士とともに専ら凧を升す。
此所(ここ)、ただ今日のみ群集し、他日は寂莫たり。

江戸は、早春を専らとし、正月十五日、十六日、市中丁稚(でっち)、宿おりと称へ、父母の家に帰る。
この丁児ら専らこれを弄ぶことなり。故に、この二日を盛んとす。

三都とも、凧形あらあら同じ。しかれどもその画は異同あり。
京坂にこの画あり。本町いかと云ふ。
江戸にはこの画の凧なきなり。本の字の意なるべけれども、末の篆(てん)なり。本末の違ひ笑ふべし。
文字白なり。地に藍をぬる。
 後考。本町と云ふは、本末凧なること必せり。しからば、末の篆なり。


骨、糸目、尾の制、三都相同じ。

 三都ともに、凧の絵、種々これを描くといへども、武者および英雄の図を専らとす。
これ男児の弄物なればなり。婦女・美人等はなはだ稀なり。必ず種々彩色を加ふ。


 江戸童、かくのごときを画だこ、左のごときを字だこと云ふ。絵凧より字凧は、およそ価半減。


三都ともに、画数繁き文字を描き、間は藍を彩る。
蘭、壽、鳶、龍、嵐、錦、虎などの文字を描く。
纏(まとい)の字 、江戸防火夫の纏と云へる記号器を持つ者は、必ず半天の背にこの字を大書するを、凧にうつすなり。

江戸にてこの図有り、小田原町および新馬魚賈専らこれを用ふ。また火消組合の記号を画もあり、形これに似る。石畳、藍、白、中央の字、朱あるいは生臙脂なり。
京阪にこの類の形これなし。



(やっこ凧)

(扇いか)


江戸凧店看板
赤紙にて、かくのごとく作れり。

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守貞謾稿の中の凧を再現(1)

2015年02月01日 | 金澤郷土の凧資料
守貞謾稿の中の凧
江戸時代の風俗について作者の喜田川守貞が見聞きした事柄ごとに書きとめたものを多数の図を付して説明したもので、凡そ700項目におよぶ事物の名前や事情を分類し一種の百科事典的な文献です。
国立国会図書館所蔵の「守貞謾稿」原本は前集30巻、後集5巻からなるものですが、原本を翻刻したものが「近世風俗誌」として岩波書店からて全5巻で刊行されています。


喜田川守貞は本文の概略で自分のことを次のように書いています。
『余、文化7年(1810年)庚午6月、浪華(なにわ)に生る。本族石原なり。天保11年(1828年)庚午9月、東武に来る。
時に歳31歳。遂に北川の嗣となり、同8年深川に間居し、黙して居諸を費さんことを患へ、一書を著さんと思ひ、筆を採りて几に対すれども、無学短才、云ふべき所なし。ここにおいて、専ら民間の雑事を録して子孫に遺す。ただ古今の風俗を伝へて、質朴を失せざれんことを欲す。』

また、これらは天保8年(1837年)以来の事象を散紙に書きとめて、後から書き足すことが出来るように畾紙を挟んで整理したと書かれています。
今回、「近世風俗誌」の中から江戸時代の風俗としての「凧」に特化して調べることで、金澤の凧の歴史との結びつきが見つかればと思っています。
そして、絵図としての凧がありますが幾つかを再現したいと考えています。
凧を作り商いとしていることが記述された個所がありましたので、次に記述しました。

近世風俗誌(一)(守貞謾稿)
喜田川守貞著、宇佐美英機校訂
1996年6月20日 第2刷発行  岩波書店

巻之五(生業上)
際物師(きはものし)
一時限りの物を売る生業を云へども、ただ江戸のみこれを唱ふ。京阪もまたその賈あれども、この名目これなきなり。春時の凧、正月二日初夢宝船図、七日薺(なずな)、十五日削掛(けずりかけ)、三月ひな祭りに係る諸物、五月節句物、七月乞巧奠(きこうでん)、同魂祭物(たままつり)、蝋月注連縄(ろうげつしめなわ)、飾松、その他正月祝物を始め一時限りの物枚挙に暇あらず。皆総じて「きはもの」といふ。
守貞は江戸、上方の職業を細かく分類し、その他の商売についてもこの項で書かれています。
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