加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

守貞謾稿の中の凧を再現(2)

2015年02月02日 | 金澤郷土の凧資料
守貞謾稿の中に出てくる凧の記述が次の本に記載されていますので紹介しましょう。

近世風俗志(四) (守貞謾稿)
喜田川守貞著、宇佐美英機校訂
2004年1月15日 第3刷発行  岩波書店

卷之二十八(遊戯)
紙鳶(たこ)
文字によれば、鳶(とび)形を本(もと)とするか。あるひは形によらず、高く飛ぶを、鳶に比するの意か。
正字は凧なり。京坂ひては、いかのぼりと訓じ、下略して、いかと云ふ。
江戸俗は、たこと云ふ。尾縄を垂る形ち、烏賊および蛸に似たる故の名か。

『続博物志』に曰く、幼児は内に陽熱さかんなる故に、春陽の時節、その気いよいよ大過すれば、紙鳶を作り、高く飛ばし、童子に見せて口を開かしめ、内熱を上に洩らして、病を生ぜざるのためなり。

『事物記(紀原)』に曰く、韓信が作る所なり。春風は下より升(のぼ)り、その風は空中に横行す。
紙鳶に即してこれを見れば、春は能(よ)く起こり、夏は起ること能はず、云々。

大阪は、これを飛ばすを升(のぼ)すと云ひ、江戸にては、これを揚(あげる)と云ふ。
大阪は、正月末より二月を専らとし、特に二月初午の日を盛んとし、城の馬場(ばんば)と云ふ城辺の郊野に群集して、小宴を設け、児輩および壮士とともに専ら凧を升す。
此所(ここ)、ただ今日のみ群集し、他日は寂莫たり。

江戸は、早春を専らとし、正月十五日、十六日、市中丁稚(でっち)、宿おりと称へ、父母の家に帰る。
この丁児ら専らこれを弄ぶことなり。故に、この二日を盛んとす。

三都とも、凧形あらあら同じ。しかれどもその画は異同あり。
京坂にこの画あり。本町いかと云ふ。
江戸にはこの画の凧なきなり。本の字の意なるべけれども、末の篆(てん)なり。本末の違ひ笑ふべし。
文字白なり。地に藍をぬる。
 後考。本町と云ふは、本末凧なること必せり。しからば、末の篆なり。


骨、糸目、尾の制、三都相同じ。

 三都ともに、凧の絵、種々これを描くといへども、武者および英雄の図を専らとす。
これ男児の弄物なればなり。婦女・美人等はなはだ稀なり。必ず種々彩色を加ふ。


 江戸童、かくのごときを画だこ、左のごときを字だこと云ふ。絵凧より字凧は、およそ価半減。


三都ともに、画数繁き文字を描き、間は藍を彩る。
蘭、壽、鳶、龍、嵐、錦、虎などの文字を描く。
纏(まとい)の字 、江戸防火夫の纏と云へる記号器を持つ者は、必ず半天の背にこの字を大書するを、凧にうつすなり。

江戸にてこの図有り、小田原町および新馬魚賈専らこれを用ふ。また火消組合の記号を画もあり、形これに似る。石畳、藍、白、中央の字、朱あるいは生臙脂なり。
京阪にこの類の形これなし。



(やっこ凧)

(扇いか)


江戸凧店看板
赤紙にて、かくのごとく作れり。


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