加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

北海道移民 子孫が「帰郷」の記事より

2014年07月04日 | 石川県から北海道への開拓移住者たち

平成26年6月24日北海道開拓で移住した旧白峰村民の子孫にあたる男性が白山市を訪問し、元村民や白山市の職員の方の協力で住居があった場所を確認出来た。
同日加賀市から北海道へ移住した子孫の方が先祖の墓の墓参もすることが出来たと北海道移住に関した記事が2件(北国新聞に)掲載されました。

前段の白峰地区に関しては小生が旧白山麓の5村から北海道へ開拓移住した人達を調べた「白山麓から北海道へ(Ⅰ)」は白山市の旧白山麓の公民館と白山市立図書館、白山市立博物館、白山市の教育委員会文化課へ何かの参考にしていただければと渡してきた経緯があります。
今回訪問された方の「奈井江町の歴史」の部分でも大変参考になりましたと後日文化課から謝意がありました。
このように小生の調べたことが何かの参考になったことで、調べていたことが報われたようでうれしく感じました。

平成26年6月25日付け北国新聞記事を掲載します。
20140625

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白山麓から北海道への開拓移住者Ⅰ

2014年05月07日 | 石川県から北海道への開拓移住者たち

白山麓5村から北海道への開拓移住者たち

 私が北海道への開拓移住者の調査を始めて記録として残すことになったきっかけは、平成243月に旧加賀藩士が士族授産事業として北海道開拓移住し、前田村を作ったたことを調査し「北の農士たち」を記録としてまとめたことからでした。その後、北国新聞で取上げられ読者の方から「自分の地元からも北海道へ移住して行った」と何人かの方から連絡をいただきました。

平成11年(2005年)2月1日松任市、鶴来町、美川町、河内村、吉野谷村、鳥越村、尾口村、白峰村の1市2町5村が合併し、現在の白山市となりました。これが平成の大合併といわれるものです。

 合併後、各村の役所は統廃合され、北海道への開拓移住の聞取り調査は難しいことでした。白山市立
図書館で各村の立地条件と北海道への移住の関係を出来る限り村史から調査するしかありませんでしたが、いくつかの地区の郷土史に詳しい方から北海道移住に関して貴重な情報もいただきました。そして、移住後100年を経過してもなお現在も交流している地区もあることがわかりました。

 住み慣れた住環境を捨ててまで北海道へ移住した開拓移住のきっかけとなったのは、白山を源にしている手取川の洪水でした。洪水で田畑、家屋敷を無くした多くの村人が離村していったのでした。

 今回は白山麓の5村の開拓移住者を調べ「白山麓からの開拓移住者Ⅰ」としてまとめたもので、PDFに変換しましたので、下記の「hakusannroku1.pdf」よりダウンロードして閲覧ください。

 今後も各市町村史から北海道への移住者調査を行って行きたいと思っています。

       「hakusannroku1.pdf」をダウンロード

 

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猿払村と内灘町のつながり

2014年04月24日 | 石川県から北海道への開拓移住者たち

猿払村開村90周年によせて

 猿払村と聞いて思い出すのは「ホタテ」です。
 内灘漁民が猿払沖でホタテ漁を行ったのは明治21年からでした。以降北海道の羽幌を拠点として、春はニシン漁でその漁期が終わればホタテ漁となっていました。

 猿払沖のホタテ漁も昭和に入るとホタテの乱獲で漁獲量も激減し、ついには不漁続きで休漁となりホタテ漁の加工で生計を立てていた猿払村民は貧困で苦労しました。
 昭和45年から始めたホタテの稚貝の放流事業で村の年間予算の半分をつぎ込み事業を継続し、昭和49年には待望の水揚げが出来ました。
 それ以降はホタテの育成事業が軌道に乗りホタテ長者の村として全国に紹介されるようにまで発展し現在に至っています。

 猿払村は大正13年に宗谷村から分村し、猿払村として開村しましたが、平成25年で開村90周年を迎えました。
 猿払村には内灘出身者が多く移住しており、現在では内灘町と猿払村との交流も持たれています。

 内灘町史、内灘郷土誌、猿払村史を参考にそのつながりの歴史を執筆したもので、PDFに変換しましたので、下記の「sarufutumura」よりダウンロードして閲覧ください。

          「sarufutumura.pdf」をダウンロード

          Dscf7004

                 猿払村開村90周年を記念して作成した30枚度の凧を寄贈しました。

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旧加賀藩士の作った前田村

2014年04月23日 | 石川県から北海道への開拓移住者たち

  北の農士たち
 明治政府は版籍奉還後に廃藩置県を行い、武士たちは家禄を失うこととなりました。武士という身分も士族となり、徴兵制の施行により常職を失うことになったのです。 士族には家禄に応じて金禄公債証書が渡されたものの、すぐには換金できず多くは生活の基盤を失い没落する士族が多発しました。

 士族の生活基盤を安定させることが社会不安を防ぐために必要であったので、明治政府は士族授産事業として北海道屯田兵制度で士族募集を行ったのです。
 屯田兵制度は北海道開拓となっていますが、実際は当時のロシアが江戸末期より日本をたびたび脅かしていたことで国防を兼ねるための処置でもありました。そのため当初は海岸寄りに屯田兵村を配置しましたが、徐々に内陸部にも作られるようになりました。石川県は全国でも最多の492人が入植したと記録に残っています。

  金沢では明治12年に士族による士族授産事業を企て、旧金沢藩主前田家からその事業資金を拠出してもらうべき事業計画を立案し提案したのです。
 明治16年には起業社が前田本家から供与される10万円に士族などから株式募集する15万円を合わせて資金として、北海道後志国岩内郡犂野舞納村(りゃむないむら)に移住開墾すると共に、択捉島などにサケ、マスの漁場を開拓する計画でした。

 犂野舞納村とは現在の岩内郡共和町前田です。
明治16年犂野舞納に開墾地を決め、宿舎を建設し、翌17年から士族が入植しました。
 
 士族が北海道へ開拓移住し、刀剣類を鍬に持ち替えて開墾する姿は農士そのものだと思います。

共和町前田地区の方とは当地で懇談したご縁で交流しています。平成27年が前田神社創立130年の節目となるので、記念誌の編纂に励んでいます。

金沢市史、共和町史をもとに「北の農士たち」を執筆し、金沢市の図書館や共和町の関係者の方々に送りました。
この資料をPDFに変換しましたので下記の「kitanonousitati」をダウンロードをクリックして閲覧ください。

                           「kitanonousitati.pdf」をダウンロード
 
 

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