平成26年4月26日 猿払から凧友の来訪
北海道の猿払凧の会の3名の方が来宅した。
午前5時に猿払を車で出発し、新千歳空港からは飛行機で富山空港に到着したとのこと。
一昨年は小松着であったので小生がお世話をしていたのであるが、今回は富山からレンタカーを借りての凧の祭典への参加となった。
猿払凧の会との出会いは平成11年(1999年)11月、愛媛県の五十崎での凧揚げ大会での出会いであった。当時猿払凧の会のO会長の父親が内灘村出身で、姉が当時の宇ノ気町に嫁いでいるとのことで、話は深夜にまで及んだ思い出があります。
翌平成12年(2000年)には当時の役場職員で「猿払凧の会」の会員のH氏運転の車でO会長ご夫婦の3人が「第12回世界の凧の祭典」に参加された。当時の岩本秀雄町長に父親が内灘出身と紹介すると岩本町長は大変喜ばれていた記憶があります。
その年の7月22日(土)に小生は猿払の凧揚げ大会の前夜祭に参加し北海の海の幸を満喫しました。翌23日の大会はあいにくの霧雨であったが、この日の為に製作した100枚の連凧を北の大空に飛翔させた。(7月16日、17日であったかも?当時の記憶があいまいですが、どちらかの日です)
北海道と内灘漁民との歴史は明治以降に多くの漁民が北海道の羽幌でニシン漁に就労し、春のニシン漁が終わると猿払のホタテ漁へと出稼ぎにいきました。その中で多くの漁民が羽幌に定住し、内灘町と羽幌町は姉妹都市として交流しています。
内灘町と猿払村との交流が始まったのは何時からかは定かではありませんが、小生と猿払凧の会との交流がその一助になっていたのではないかと思っています。
近年内灘町と猿払村の交流が盛んとなり、近々姉妹都市となるようです。凧の取り持つ縁で今日まで交流が続けられたことを有り難く思っています。
猿払凧の会
のバッチとホタテのミニ凧
歓迎レセプション
「世界の凧の祭典」は例年5月の連休に開催されていましたが、今年から4月27日の開催となったのです。
4月開催となった理由は分かりませんが、5月の連休に旅行を兼ねての凧揚げを予定していた方にとっては、連休前半の休日開催でも凧友の方は今まで通り参加して頂けるのか、主催者でもないのに気になっていました。
参加者名簿を見て宿泊者の少ないのに驚いた。海外参加者は6名であったが、
日本の凧の会本部、北海道、静岡県、兵庫県、岐阜県、愛知県、岡山県、埼玉県、長野県からの参加で国内参加の宿泊者数は23名、「うそだろう?」と思わず口から出た。
県外から15団体で61名、県内は10団体、町外からは189名、町内参加者は1335名
参加総人数は約1,600名とパンフレットには記載されている。
マイナーな凧揚げ大会の前夜祭でもこれ以上の宿泊参加者はいるところは沢山ある。宿泊の参加者が少ないので「世界の・・」、「国際大会」の看板がなぜか霞んで見えてきた。以前凧友から「内灘町民だけの凧揚げ大会で良いのではないか」といわれたことが現実味を帯びてきたようでした。
歓迎レセプションの会場を見てまたまた驚き一昨年の平成24年に猿払凧の会の方と参加したした時よりも、国内の参加者数も少ないせいもあるのかもしれませんが宴会テーブルが少ないのである。
昔の「世界の凧の祭典」の運営を知る者として、また当時の参加者が今年の様子を見た場合、隔世の感があると感ぜずにはいられないと思ったものです。
歓迎レセプションで内灘砂丘凧の会の方に猿払から来ていただいたので、7月の第3日曜日に凧揚げ大会があるので、今度は皆さん方で参加してはどうですかと参加を促すと「遠くて…」と返事が返ってきた。
小生が内灘に住んでいたころ、香川県の丸亀から「世界の凧の祭典」に参加されたIさんから「今度は丸亀の凧揚げに来て下さい」と誘われた、小生は「遠くて」と返答すると、Iさんは「丸亀から内灘まで地図で計った距離と、内灘から丸亀まで計った距離は1ミリも違わないよ!」と言われ以降は丸亀に参加したことを思い出しました。
猿払までは確かに時間もかかり大変ではあるが、交流とは相互が行き来することから始まると思っています。小生もまた北海道へ行きたいと思ったものです。
前夜祭風景(凧友N様撮影)
前夜祭風景(凧友N様撮影)
平成26年4月27日 「第26回世界の凧の祭典」
朝から晴天で風も微風ながら吹いている、凧揚げには最高の日である。
午前9時30分から開会式が始まり、「のと里山海道」が会場に隣接して付けられているので、凧落下による事故の防止のため、10時から凧揚げしてくださいと協力の要請があった。
良い風が吹き、凧を誘っているので参加者の中には10時以前に凧を揚げ始めると「凧を降ろすよう」放送で盛んに呼び掛けている。道路にはまだ車が通行している。
10時になり道路が通行止めになり、参加者は凧揚げを始めた。
小生は以前からお世話をしていた金沢市の学童保育げんきクラブが、今回初めて凧揚げ大会に参加したので、震災復興の願いを書いた100枚の連凧と1畳凧の凧揚げに11時までの1時間付き添い指導した。連凧揚げでは「ベンジャミンフランク賞」という賞を受賞し参加者は喜んでいた。
11時から1時間婦くら雀の凧を揚げようと場所を探したが凧揚げの参加者は少ないのであるが、空には海外組の大きな凧が一杯漂っている。観衆からは珍しい凧なので見た目も面白いと思うのであるが、小生のように1枚凧を揚げる者からすると大きな浮揚した物体としか思えない。
何とか場所を探し、傘によるビラ巻を開始したが、風が弱くなり途中で弱風用の凧と交換し手持ちの紙を使い切り終了した。観客の反応はいまいちのようだった。
傘が登って行く(凧友N様撮影)
傘が閉じ紙片が飛散する(N様撮影)
昼食後、東日本大震災の垂れ幕凧を本部に近いところで揚げていた。石川テレビの撮影クルーがそばを通り、振り返って見たがそのまま何事なかったように通り過ぎて行った。
震災の話題性もあると思っていたのであるが、震災当日以外は話題性もないのか徐々に風化していっている感を強く感じた。
東日本大震災の復興支援の垂れ幕凧
雀の学校
垂れ幕凧を降ろし雀の連凧を揚げることにした。
100枚の連凧の長さは100mとなる。揚がっている凧に絡むと悲惨な結果になる。
過去に1枚凧と絡み50枚ほどが切れて飛ばされ回収するのに苦労したことがある。
他の凧の影響のない場所は海側で凧揚げエリアの境界外の場所であったが、この場所が最適であった。連凧の先頭凧を妻が持ち風下の方に連凧を伸ばしていき、100枚を延ばしきったところで、先頭凧を離すと凧はゆっくりと上昇していく。この瞬間だけは観衆のどよめきを感じることが出来、最高の気分の良い時でもあります。
背中にカメラの視線を沢山感じ、沢山の親子連れが集まってくる。子供たちに綱の感触を味わってもらい、凧揚げを共有できる時でもあります。
風も弱くなり連凧の引きも弱くなったので連凧は降納し凧揚げは終了した。
内灘のスポーツカイトの方が撮影
閉会式そして表彰
小生が閉会式に出るのは何年ぶりだろう、正直最後までいたことは記憶にはないくらいである。
今回は猿払凧の会が表彰対象になっているので、一緒にお祝いしたかったのです。
猿払凧の会がグランプリを受賞できた。北の果てから参加し、ホタテの凧も内灘の風に合いよく飛翔していたので、小生も身内のように嬉しく思った。
問題点が一杯
小生が内灘の凧揚げに関して門外漢で運営方法には口出しすべきではないと思いますが、凧作りの講習から裏方として携わった者として当時描いていた「おもてなしの心」が無くなった凧揚げ大会に心痛む思いが致します。
私たちが凧揚げ大会に参加される皆さんをお迎えするのに一番心を砕いたのは
「お金をかけ、時間をかけ、身体を使って参加された方に、十分な凧揚げ場所と凧揚げをする時間を提供すること」それが参加して頂いた方がへの「おもてなしの心」でした。
「のと里山海道」が開通したから凧揚げの場所、時間の制約が出来たのではなく、その随分前からそのような心掛けはなくなっていったのではないでしょうか。
一部の方は参加したした人に飲み食いさせて「おもてなし」をしたと豪語していたグループもありました。凧のおもてなしとは飲食を提供するだけのものではないと小生は思っています。
現在は「のと里山海道」が開通しています。現在の場所での開催をどのようにしたら全国から沢山の方が参加して頂けるか、もう一度原点に立ち返り考え直す良い機会ではないでしょうか。
そのような思いにさせられたのは小生だけだったのでしょうか。
閲覧いただきありがとうございます。
宝珠花の大凧が飛翔したそうでよかったですね。
来年は参加したいと思います。
どこかの空の下でお会いできることを楽しみにしています。
すずめです。
今年は下若組が”景気” 上若組が”上昇”の100畳の凧が二枚 勇壮に飛翔したそうでおめでとうございます。
沢山の観客の歓声が聞こえるような気がします。
来年は参加したいと思っておりますのでよろしくお願いいたします。