加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

阪神淡路大震災から22年

2017年01月17日 | 阪神淡路大震災のプレゼント凧作り
平成29年1月17日 阪神淡路大震災大震災が発生したあの日から22年、あの日の午前5時46分に金沢でも建物を揺るがす大きな揺れが起きました。
前日から夜間作業で仕事をしていたので当時のことは鮮明に覚えています。

22年経った新聞紙面では地震の記事も前面から紙面の後ろの方になりました。それだけ人々の記憶から薄れていったのでしょか?

震災の翌年、「神戸ふれあい全国凧あげ大会」が須磨海岸で行われました。
その時に通った阪神高速の高架が座屈し横倒しになっていた光景に大変驚き今でも忘れられない光景です。

内灘町がこの時の為に製作したダイヤ凧の尻尾にメッセージを書いたあの子たちは小学校5、6年生だったのですが現在は30歳前半でしょうか? メッセージを書いたことを覚えているのでしょうか?

子供心に力になりたいと一生懸命にメッセージを考えたことでしょう。
そして、私たちと一緒に凧を作り、発送までの作業をしたボランティアの方々も同じ思いだったのです。

関係者を通じて渡した凧は子供たちに力を与えることが出来、今日の力になっていると思っています。

1・17この日は私にとって忘れられない慰霊の日でもあります。
亡くなった方に関しては心より哀悼し、残された方々には心の復興が訪れますようお祈りいたします。
 合掌
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阪神淡路大震災から20年

2015年01月16日 | 阪神淡路大震災のプレゼント凧作り
平成7年(1995年)1月17日午前5時46分、夜間作業が終わりに近づいたころ大きな揺れに襲われた。
今まで体験したしたことのない大きな地震に不安が現実のものになるのにそう時間はかからなかったと思うのです。
甚大な被害が出た「阪神淡路大震災」の出来事は20年経過したのに昨日のことのように思い起こされる出来事です。
当時、震災の援助をしたかったのですが前年より体調を崩していましたので手伝いもできず忸怩たる思いでいた記憶があります。

年末に「被災地の子供たちにプレゼント凧の提供して欲しい」との呼び掛けに呼応して活動したことを記録してあるのがこちらです。「阪神淡路大震災のプレゼント凧作り

(内灘からのプレゼント凧)

今日16日、天気も良く風も良かったので内灘町からのプレゼント凧として製作した「ダイヤ凧」を明日は雪模様のため今日揚げることにしました。

内灘町で制作したダイヤ凧の尻尾には「がんばろう神戸!」と当時のメッセージが書かれていました。

(凧の尻尾にメッセージ)
近くの田んぼで凧揚げをし、写真に撮ったのですが画像がブレていたので家の前で再度写真を撮りました。家の周りは電線が多く高く揚げることができませんでしたが、ブログにアップする写真としては良かったのかも・・・・・。
震災当時の鎮魂の思いを凧に込めて揚げてきました。

(メッセージ凧(1))
(メッセージ凧(2))
明日で20年、被災者の方の鎮魂の思いを込めて「尻尾にメッセージを書いた子供たち」やプレゼントされた当地の子供たちは今もあの時の気持ちを持っていてくれることを信じています。
被災された皆様方のご健勝を祈念いたします。
     合掌
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10.神戸っ子が内灘へ

2014年03月19日 | 阪神淡路大震災のプレゼント凧作り

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平成867日付け 北国新聞より神戸っ子8月に内灘へ

 阪神淡路大震災で被災し、今も仮設住宅に暮らす児童50人が今年8月上旬に内灘町を訪れ、同町の児童らと交流する。「神戸っ子親善大使in石川県内灘町」と銘打った児童の訪問は同町が児童を励ますメッセージを書き込んだ凧約820枚を被災地に贈ったことがきっかけで実現し、迎え入れる内灘町教委は兵庫と内灘の児童館交流が広がるものと期待している。

内灘町は今年2月、阪神淡路大震災の被災地神戸の児童を励まそうと、町ぐるみで制作した凧を大量に贈った。このうち、町が準備した533枚の凧の足には、町内4小学校の児童が励ましのメッセージを書き込んだ。
 凧のメッセージに感動した兵庫県学童保育連絡協議会は、これを受けて8月の89日に神戸の児童を親善大使として内灘へ派遣することを決め、仮設住宅に住む児童を中心に選抜し、内灘町訪問の計画を進めている。

  一行は内灘町役場を表敬訪問するほか、同町子ども会連絡協議会の児童50人と一緒に地引網を体験し、とれたての魚のバーベキュー大会を開いて交流する。

  受け入れ準備を担当する内灘町の西尾雄次生涯学習課長は「凧のメッセージで内灘町の児童と被災地児童の心が共鳴したことがきっかけで児童間交流が進むのは素晴らしい。兵庫県の児童を心から歓迎したい」と話している。

 

 

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9.神戸ふれあい全国凧あげ大会

2014年03月19日 | 阪神淡路大震災のプレゼント凧作り

 


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平成
839日(土)「神戸ふれあい全国たこ上げ大会」の当日、プレゼント凧製作に協力した頂いた有志の方々と一緒に内灘町のマイクロバスに乗り神戸の須磨海岸へと向かった。

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その当時の体験を日本の凧の会会報に投稿したので転記する。

 『阪神・淡路大震災復興チャリティ凧』

 「揚がっとる!」 目ざとく、自分達の作ったエイ凧を見つけ、まだ 動いている車から、おりた そうな、内灘ボランティアの「父ちゃん」、「母ちゃん」達。 3月9日早朝、内灘町教育長、職員とボランティア一行15名は、教育委員会提供のマイクロバスで一路、神戸へと車を走らせました。
 
名神高速を南下し、西宮ICを降り43号線を走り始めたとき、饒舌であった車内は、悲痛とも思われる溜め息が多くなり、ほとんど絶句状態になりました。
 
六千余百名もの尊い人命を瞬時に奪い、多くの建物を倒壊させ、今も尚、仮設住宅での不自由な生活を強いられている人達のことが、テレビで観た画面上の事と車中から見える風景がオーバーラップし、自分の心が段々暗くなるのを禁じえませんでした。
 

「子供たちにプレゼントする凧を提供して欲しい」大阪支部の橋本会長から依
頼を受けたのは、相良町での秋季本部大会のことでした。
 
暦も、残り少なくなった師走のある日、産経新聞から、一通の封書が届き、私達の凧のボランティアが始まりました。
 
去年からの二年越しの宿題を抱えての正月は、被災された人達の事が、急に親密度を以て感じられ、お屠蘇気分もそこそこに、凧の形、枚数の事だけで頭の中が一杯の日が過ぎていきました。
 今まで、大凧の製作に指導協力したことのある人達や、凧をしている私に理解を示してくれる人達に相談すると、全面的に協力してくれると言い、資金援助の申し出まであり、胸が熱くなる思いでしたが、自分たちの出来る範囲ですることにしました。
そして、大凧しか作った事のない人達に、四ヶ所で講習会を開き、プレゼント凧を作ってもらいました。
 
最初は、「わしらに、つくれるかいね?」で始まったのですが、段々時間がたつと「まだまだ少ないがいや」と盛り上がり、枚数が多くなることを期待して、最初から市販の竹ヒゴ、平竹を使ったので、追加、追加の大繁盛でした。
 
大凧作りは慣れているものの、小さな凧は、初めてとあって、神戸より、出来上がった凧を揚げたい一心のお父さん。家へ帰って孫に作ってやりたいと、材料を注文するお婆ちゃん、ミッキーの絵に彩色している顔が子供よりイキイキのお母さん。
 
糊が完全に乾いていないのに外へ出て揚げたいとウキウキ……全員でした。「あれ、見まっし!。簡単に揚がるがいねー。はよう、うち行って、作ってみんなんわいね、忘れんうちに」(あれを見てごらん、簡単に揚がりますね、早く家に帰って作りましょう、忘れないうちに)
 
 今回は、内灘町長のデザインした町をイメージしたダイヤ凧を600枚印刷して頂き、そのうちの535枚を有志のボランティアで組立し、各町内会の製作したエイ凧を170枚、その他町内の凧愛好者から97枚、その他18枚で合計820枚の凧を阪神の被災された子供たちへ贈ることができました。
 これは、ボランティアと各町内会の方々の協力もありましたが、心暖まる行政の計らいで、当初200枚予定のダイヤ凧が533枚とふくれ上がりました。
 
ダイヤ凧の尻尾には、内灘町の小学校の児童から被災地の子供たちへと、メッセージが書かれています。これは、被災した子供たちにプレゼント凧をとの取り組みが、マスコミに何度となく取材され、神戸と内灘町の絆が凧の糸でしっかり結ばれた様に思えました。

 内灘町で凧あげが始まって8年目、当初は大凧作りが盛んで、私も、大会近くには毎日のように公民館で大凧製作に励んでいました。
 
しかし、内灘町の凧の団体とは求めるものが自分とは合わず、以後は、自分自身のために凧を作り、凧を揚げたいと思うようになり、妻と、二人の凧行脚を始めました。とはいえ、大凧の醍醐味を知っている私は、依頼された所へは、百パーセント協力してきました。仕事より優先させたきらいもあるくらいです。
 
他県の凧揚げに参加するときは、弁慶の法被を着て、目立ちたがり屋になり、内灘では、極端に活動を狭めていたために、小さい凧に興味を示す人が多いことに気がつきませんでした。
凧を作るのが嫌とか、揚げるのが嫌というのではなく、作りたい時に自分で作り、一人ででも揚げたい人が沢山いることは、発見でした。
 毎年、大会のための大凧一枚は、町会の役に当たったからと、義務的に作っている所が多いことは、何年たっても変わっていません。大凧を作ることは、私も凧を始めたときから大凧を作ってきたので否定するものではありませんが、地域に根ざした凧の活動がなかった中で、内灘町の中での幾つかの公民館に、エイ凧作りを指導し、揚がったときの楽しさを分かってもらえたことが、私自身の小さなボランティアだったとも思っています。
 皆で作ったエイ凧、一枚一枚は、小さな凧ですが、互いの糸目をしっかり合せ、ボランティアとしての手ごたえを十分感じました。

 

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8.内灘町から820枚の凧を届ける

2014年03月19日 | 阪神淡路大震災のプレゼント凧作り

 

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平成
8214日付け北国新聞より町挙げて820枚贈る

 内灘町は13日、阪神淡路大震災の被災地、神戸の子供たちにプレゼントする凧533枚と同町内の公民館や凧の会から寄せられた凧合わせて約820枚を神戸に向けて発送した。
 
 出発式では、凧を作った内灘町世界の凧の祭典実行委員会の会長である岩本秀雄町長から、製作を依頼した日本の凧の会の会員に神戸に向けてのメッセージが手渡された。この後、凧がいっぱいに詰め込まれたワゴン車で神戸へ向かった。

  岩本町長のメッセージには「凧作りの盛んな内灘町から凧を通して神戸の子供たちに励ましと勇気づけのエールを送れることを大変喜ばしく思います」と書かれている。内灘町が新たにデザインし、凧愛好者の手を借りて製作した凧の足には、同町内の4小学校の児童による励ましのメッセージがつづられている。 

 凧は13日中に神戸ふれあい全国凧あげ大会の主催者に届けられ、3月に神戸で開かれる同大会で子供たちに配られる。


 

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