加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

鳳巾(いかのぼり)

2014年04月22日 | 金澤郷土の凧

加賀の千代女と鳳巾(いかのぼり)

石川県松任(現白山市)には俳人として名をはせた加賀の千代女がいました。
平成15年(2003年)に旧市立松任博物館で千代女生誕300年祭として、千代女の扇子や掛け軸が多数展示されました。その様子がテレビのニュースで流され、鳳巾の懸物で凧と思しき映像が映し出されました。それから博物館を訪ね問題の懸物を探しました。掛け軸には広井先生の名付けた「古代イカ」が描かれていました。
 学芸員の方に「鳳巾」の懸物について説明を受けました。宝暦13年(1763年)千代女61歳の時、朝鮮通信使の招待役として幕府より任命された加賀藩が、使節団の土産に千代女の俳句を選び献上した中の一句です。(懸物6幅、扇子15本に21の句を書きました)この懸物は晩年、素園と俳号を改めてから書かれたものです。

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 懸物の中で「吹け吹けと 花によくなし 鳳巾」となっていますが、一般的に直訳すれば「凧揚げには風が吹けば良いが、花には風が良くない」となります。凧糸を持っているのが幼少のころの千代女で、男の人は本吉(現材の白山市美川町)の潟淵屋半睡、千代女の俳句の師匠であるという。千代女とは19才年長です。半垂師匠は凧揚げに夢中で、花である千代女には見向きもしてくれない、風さえ吹かなければこちらを向いてくれるのにという千代女の女心が隠されている句であり、糸巻から半垂師匠の手元の糸までが二人の心の距離であろうと学芸員の方は語ってくれた。
 小生が白山市(旧松任市)に転居してから松任の歴史についてはあまり知りませんでした。小学校で女性の俳人で加賀の千代女が松任にいたという程度しか知らなかったのですが、この掛軸を観てから千代女に関する書物を何度も読み返し、千代女のことを勉強する良い機会にもなりました。

千代女の生い立ちについて
 元禄16年(1703年)加賀国 松任(現石川県白山市)の表具師福増屋六兵衛と、母つるの長女として生まれ、享保4年(1719)美濃の各務支考(かがみ しこう)が旅の途中で松任を訪れた時、17歳の千代女に会い「ほととぎす」を題材に一句詠めと言われ、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句を詠んだことから各務支考に才能を認められたといわれています。
 結婚したという説と、独身を通したという説がありますが、資料が少ないため今でも調査している方々の意見が分かれているところです。
 52才の時に剃髪し尼となり「素園」と号した。73才で亡くなるまで詠んだ句は1,700余といわれています。加賀の千代女として名をはせたのです。
 代表作に 「朝顔に つるべとられて もらい水」や千代女が永平寺に参詣してときに詠んだ「百生や  蔓一すじの 心より」の句があります。
「吹け吹けと 花によくなし 鳳巾(いかのぼり) 」       尼 素園

鳳巾(いかのぼり)について調べてみました。
JKA通信130625-03(紙鳶の定義)を引用させていただくと
『古事類苑』のなかの遊戯部の項に、凧(紙鳶)のことを、下記のように定義してあります。
古事類苑(こじるいえん)は明治政府により編纂が始められ明治29~大正3年(1896~1914)に刊行された類書(一種の百科事典) である。
「紙鳶ハ奮ク紙老鴟ト云フ、後世ノ俗、イカノボリ、又ハトビダコト云ヒ、又略シテイカ若シクハタコトモ云ヘリ、竹ヲ骨トシ、紙ヲ張リテ、鳥、魚、又ハ雑物ノ形象ヲ作リ、此ニ糸ヲ付シテ空中ニ飛翔セシムルモノナリ。」とあります。

『近世風俗志の卷之二十八(遊戯)』では
紙鳶(たこ)
「文字によれば、鳶(とび)形を本(もと)とするか。あるひは形によらず、高く飛ぶを、鳶に比するの意か。
正字は凧なり。京坂ひては、いかのぼりと訓じ、下略して、いかと云ふ。
江戸俗は、たこと云ふ。尾縄を垂る形ち、烏賊および蛸に似たる故の名か」

『嬉遊笑覧』では
その一つは喜多村信節(きたむらのぶよ)著の「嬉遊笑覧」で、江戸後期の随筆集。
(12巻からなり、付録1巻。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会万般の記事を集め、28項目に類別して叙述したもの。) この随筆集のなかで、凧のことが書かれています。
いかのぼり:「和名抄」に弁色立成云、古くは音にて紙老鴟と呼びしにて、もと子ゝの物に
あらぬにや、いかのぼりは畿内にての名なり、
たこ:関東にてたこと云ふ「物類呼称」云、西国にてたつ又ふうりう、唐津にてたこと云、長崎にてはたと云、上野及信州にてたかといふ、奥州にててんぐばたといふ、何れも雅名にはあらず、・・・・各地の凧の呼称について書かれています。

『守貞漫稿』では
また、『守貞漫稿』の紙鳶(いか)記述では、『文字によれば、鳶形を本(もと)とするか。あるいは形によらず、高く飛ぶを、鳶に比するの意か。正字は「凧」なり。』と凧のことを定義付けしています。
 『京阪では「いかのぼり」と訓じ、下略して「いか」と云ふ。江戸俗は、「たこ」と云ふ。尾縄を垂る形ち、烏賊および蛸に似たる故の名か。』と凧の呼び名も地方で違っているようである。

       1_3     古代イカ挿絵

いかのぼりについて
 凧というのは平安時代に中国から日本に伝わったと言われています。
中国では紙で作った鳶を「紙鳶」と書いてシエンと呼んでいた。
日本には平安時代に入ってきたが、「紙鳶」、「紙老鴟」であった。
その後、烏賊を開いた形が似ているという事から「イカ」と名付けられたと言う説もあります。
凧研究の第一人者である日本の凧の会の大阪支部会員 K氏は会報80号(2010年12月発行)では“イカノボリはダルマだった”の項で「アカイカ開いて伸ばして軽くあぶった加工品をダルマである」と述べられています。
一方、88号(2013年12月発行)では「いかのぼり」は、日本で形が判別できる一番古い凧で、最初は『京童跡追』(寛文7年・1667)に登場し、元禄期からは様々な本に出てくる」と述べられています。

いかのぼりの構造
いかのぼりの構造を調べてみると、凧の骨組みは外側と内側の骨2本の構造である。外側の弓形の骨をさらに半月状に曲げ骨の両側を糸で縛っておく。内側にはしずく型に曲げた骨を配置し、半月状に縛った下部の糸の中央で縛ると骨組みは完成する。
 骨組みに紙を貼り、尻尾は掛け軸の図では3本となっていることから中央が長く、両側は短い尻尾を付けた。
 前述のK氏の説明では『絵本大和童』から「日の出と波」の図柄を採用されていたが、展示された掛軸には凧面の絵柄はなかったので、無地とした。また尻尾は足先に赤く帯を入れました。
 糸目はしずく形の骨と半月型の骨の交点2か所としずく形骨の下部での1か所で3本の糸目とした。

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金澤がめ凧

2014年04月13日 | 金澤郷土の凧

子どもの凧
金澤市史の「玩具」の項目の中に「玩具の種々」の絵がありました。
金澤の玩具が沢山書いてありその中に、「ふくら雀」の玩具がありました。

現在は金沢の老舗玩具の「中島めんや」から「張子のふくら雀」を購入しました。

    中島めんや製 ふくら雀

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金澤扇子凧

2014年03月19日 | 金澤郷土の凧

 

 

「卯辰山開拓図絵」

      Photo

石川県立歴史博物館を見学した時、館内の壁一面に浅ノ川の「卯辰山開拓図絵」が描かれていました。大きな図絵だったので、図の中央には木瓜が書かれた角凧ともう一つ形が今一つ判別できない凧が
2つ飛翔しています。橋の袂の男の人の背中に背負ったものがありました。手には糸巻のようなものが握られています。一般の人は多分わからないと思うのですが、私には扇子の凧だと確信出来ましたので、新しい発見に心が浮き立ちました。歴史博物館から図絵の所属先が石川県立図書館であることを聞き、早速、石川県立図書館に出向き、担当の方に「卯辰山開拓図絵」の借用を申し込むと、ポジフイルムを借用することが出来、紙焼き写真としました。石川県立図書館ではインターネットを活用した「デジタル図書館、貴重品ライブラリー」

 http://www.library.pref.ishikawa.jp/toshokan/dglib/nisikie/002.htmで閲覧可能です。写真掲載に関しても了解を頂きました。

 

金澤扇子凧の再現

写真の凧の部分を拡大してみると凧には風袋が付けられています。全国の扇子凧を調べてみると、新潟県小千谷市の盃凧、富士見市 扇凧絵凧、静岡県の井川扇凧、名古屋市の扇凧、京都市の扇いか、(大橋栄二氏の凧大図鑑より)と意外と少ないのであるが風袋は開いている物も閉じている物もあるが、形が崩れて柔らかい風袋の凧はありません。

                Photo  卯辰山開拓図絵拡大図


「卯辰山開拓図絵」をもう一度見ると男の人の背中で凧の風袋は垂れ下がって見えるのである。これは風袋の部分が柔らかい和紙で作られていることを意味しているのではないだろうか?ではどうして柔らかくするか、まず手始めに和紙を揉みしごいてみると和紙はクシャクシャになるが不思議と破れないのである。なおかつ、和紙の持つ特徴で破れないで柔らかさもでてきたのである。

扇子凧の骨組みを竹で組み立てて置き、和紙を扇子凧の平面形状に切り、手で揉みしごいた。それを竹で組んだ骨組みに貼付け風袋部分を糊で塞いだ。

       P1120004   金澤扇子凧(表面)

       P1120005 金澤扇子凧骨組み

出来上がった扇子凧の風袋は絵図のように垂れ下がり、見た目では満足できるものに仕上がったのであったが、扇子の面は皺があり絵を書くこともできずに日の丸の赤を書くことにした。

P5160020 揚がった金澤扇子凧


成巽閣の「凧あげ」図で婦くら雀と一緒に揚げられている扇子凧は凧上部にウナリが付けられ、長い尻尾を付けて飛翔している。扇子の上部にウナリをつける場合は今作った扇子凧の骨組みでは構造上無理なので、新たに骨組みから考えなければならない。

 

 

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婦くら雀凧

2014年03月16日 | 金澤郷土の凧

  ここに1冊の本がある。この絵で私の凧人生が大きく変ることになった。

 河出書房新社発行の「石川県の歴史」の中の金澤城下町の年中行事について書かれた絵図で「金沢のにぎわい」という中にあった。2ページ見開きとなっており、「北陸大学の小林輝冶教授が成巽閣の資料を調査されたものの中で、加賀藩の前田家所蔵の「凧揚げの図」である。

       Dscf6685

絵の説明文では、元禄のころは金沢においても凧揚げが盛んであったが追々に衰退していった。と書かれている。

       Dscf66881

その中で「扇子凧」、「婦くら雀凧」は金沢独特の凧で他所には無いようですとも記されている。

  また、揚げ糸に傘を通し、「出し物」として魚や達磨の書かれた紙を仕込み、傘が凧の糸端の位置に達すると傘が閉じて仕込んだ出し物が風に翻って飛散する仕掛けも描かれています。

  絵の中では侍の子供と大人の侍が凧揚げに興じています。ひょっとしたら、犬千代君で後の加賀藩の第13代(最後)の藩主前田慶寧(まえだ よしやす)なのかもと推測されます。

 凧を揚げている場所は、江戸屋敷?又は金沢城内なのかはわかりません。

  絵の中で「扇子凧」、「婦くら雀凧」共に凧の上部にウナリが付けられています。

  金沢市史の中では竹を弓のようにし、鯨の髭を薄く剥いでウナリとする事が記載されていましたので、この時代も鯨の髭でウナリを使ったのだと推測しています。

  ここで成巽閣(せいそんかく)とは如何なるものかを説明しておきましょう。

  文久3年(1863年)12代藩主斉広(なりなが)夫人の真竜院の隠居所として竹沢御殿の本殿を移築・再建したのが巽(たつみ)御殿である。

  この工事には、細工所細工人、藩内の工芸職人を動員している点で、幕末の技術の粋を集めているといって過言ではない。

  明治期に入って成巽閣と改められた。〔河出書房新社より〕

 成巽閣のHPhttp://www.seisonkaku.com/を参照ください。

  現在は財団法人 成巽閣により運営され、昭和13年に旧国宝、昭和25年に重要文化財に指定されています。

   私が「凧揚げの図」を成巽閣より入手する時、また「日本の凧の会 会報」に投稿する時も成巽閣に「凧揚げの図」使用の許可願いを提出しました。

  成巽閣側より資料が一人歩きをしないよう、写真の返却も言われましたが

成巽閣の資料を大切にしている証拠でしょうか。先日、成巽閣を訪問する機

会があり館長さんに「凧揚げの図」の写真について聞いたのですが、東京の

「前田育徳会」で管理しているとのことで、以前のようには簡単には許可が

出ないので、「河出書房新社」の図鑑での掲載としてあります。

 「図説 石川県の歴史」より「金沢のにぎわい」の中でページ末巻に「金沢
繁盛記」の説明があります

 

 「金沢繁盛記」:全体は折帖(屏風のように折りたたみ、裏打ち、表装)となり、題箋(だいせん)(表紙の上部に貼られた短冊形の紙)に

(

)

「時代の面影金沢繁盛記」とある。

 金沢城下町を中心とした年中行事、民俗17をとりあげているが、北陸大学

名誉教授の小林輝冶氏が発見、金沢市教育委員会編『金沢の口頭伝承、補遺

編』に、凧あげ、田舎の盆踊り、秋祭りの
3図を紹介している。



「凧あげ」の絵の説明

 参勤交代により藩士の江戸での生活が定着し、江戸の文化、風習が金沢に取り入れられるようになってきました。

凧はお正月の遊びとして羽根付き、こま回しと同じく年中行事だったのでしょう。したがって、玩具屋にはその季節には店先を賑わしたものでした。

・絵では、武士と子供が凧を揚げている様子が描かれています。

・凧は一般的に揚げられていたのでしょう。文久年間では盛大であったが、年々衰退していったと書かれています。

・この絵の中では扇子凧、婦くら雀を揚げています。これらの凧は、金澤名物で他所には無いものであると書いてあります。

・凧の揚げに傘のような物が通してあり、達磨、鯛、筆の様な紙片が傘の中から飛散したように書かれています。この紙片が「出し物」と表現したものでしょう。


婦くら雀凧再現のきっかけ

金沢の昔の凧を探すきっかけは、平成2年内灘で凧揚げ大会がありその大会へ参加したのがきっかけで、凧の世界へのめり込む事になりました。

 凧はマニアックな世界であり、当時は趣味が凧であると話すと奇異な眼で見られ、平成2年当時、石川県での日本の凧の会会員は黒田氏(金沢)、森氏(松任)、辻氏(加賀市)の3名でした。その後平成5年の会報では14名と増加しています。

  県外の凧の仲間から「金沢の凧はないのか?」との質問で、それでは探してみようとなった訳です。

  思い立ったのは良いのですが、どのような手順で探すかも手探り状態でした。

  金沢市立図書館へも出向き、色々な本を探しました。また、金沢市内の大きな本屋に出向き、江戸時代の暮らしなどが書かれた本を立ち読みもし、古書店めぐりもしました。「凧」について一行書かれた本や、江戸時代の資料が書かれている本を購入したおかげで、現在は文献作成の資料となっています。

 テレビのニュースで金沢市立民俗資料館にて昔の生活を展示してあるなかで凧が写りました。早速、妻と二人で見に行くと、「土佐凧」でした。どなたかが寄贈したそうで、他に凧はないとの事で寂しく帰ったこともありました。

石川県立歴史博物館で正月の特別展示があり、加賀藩の襖絵、屏風絵が数多く展示してある中で凧が書かれていないか一生懸命探したこともありました。


これかも

 後日、歴史博物館を訪問し学芸員の方に金沢の凧を探していることを伝えると、一枚のコピーを見せてくれました。それが捜し求めていた金沢の凧の絵でした。

「婦くら雀紙鳶」と「扇子紙鳶」が書かれた凧揚げの絵でした。

北陸大学の小林輝冶教授が成巽閣の資料を調査されたものです。

 当時の小林教授は入試の時期で会う時間が取れないとのことで、電話にて資料の入手について教えて頂く事が出来ました。

 「凧揚げの図」は成巽閣にあるのだが、一般には公開されていないもので、訪問し館長さんにお願いしたほうが良いと助言をいただきました。


成巽閣へ写真借用のお願い

 平成7年3月24日 「加賀藩前田家伝来雛人形道具展」が開催され成巽閣を訪問し、「婦くら雀凧」を再現したいので「凧揚げの図」の写真を借用したい旨を伝えたとき、金沢繁盛記」という本を示され、その中に歴史博物館の学芸員の示された凧揚げの図と同じものがあった。

「図説 石川県の歴史」の中の「金沢のにぎわい」の1ページでした。

写真の借用願いを提出し、許可するかどうかは後日連絡するとのことであった。

帰路、書店に立ち寄り見せて頂いたものと同じ本を探し購入した。

河出書房新社発行の「図説 石川県の歴史17」定価5,000円であった。

写真を拡大コピーし、書かれた文書の解読に着手したが、薄学ゆえに文書が読めない、誰か探して任すことでさっさと解読は諦めてしまった。


《許可書が届いた》

 平成7年4月1日 成巽閣より許可書と写真が郵送されてきた。

許可書には「下記の件について、当館にて検討しました結果、紙焼き写真の提供を許可します」

凧は丸い雀の凧と、扇子の凧が揚がっている。凧揚げをしている者は、なんと武士ではないか、揚げている場所は城内か、または江戸藩邸内か?

 揚げ糸の途中には傘がそれも上向きと下向きに糸が通っている。この絵から傘に細工をして絵模様の紙を降らせていると想像できた。


婦くら雀凧の再現


いよいよ凧の再現である、思い立ってから丸4年が経過したが、再現は始まったばかりである。
 
丸い凧の婦くら雀を再現させることで、絵柄を考えそれにあった骨組みで第1号を試作してみたが、羽根を風袋にしたので絵のように羽根が開いたものにはならず再度思考する。

                        P1120020   ふくら雀試作(表面)  

              P1120021   ふくら雀試作(裏面)

 丸形に作れば反りを入れると、全体に楕円となることに着目しデザインした。
 
骨組みは、簡略化した構造であるので尻尾を付けることで無事飛翔させることができた。

        P1120014   ふくら雀(表面)

        P1120015  ふくら雀(裏面)

作成した婦くら雀凧を成巽閣に持参し職員の方々に見て頂き、資料提供のお礼を述べた。
 
供与資料を「日本の凧の会」会報投稿での掲載許可をお願いしたところ、発行された会報を提供することを条件に了承された。

 成巽閣では所蔵品の一般公開、特別公開以外では資料の公開は行っていないようで、資料の外部への供与に関しては厳しいように感じました。


雀のデザイン

初めのデザインで雀の絵柄の中に梅剣鉢の文様を入れることにした。

 それは加賀藩の紋様を入れることで加賀の凧を印象つけることと、飛翔した時に空に文様が映えることをねらってみた。

 また、梅鉢の文様には幾つかの種類があり、調べてみるとその家系にのみ継承されることも判り、梅鉢の種類の多さに驚いた。

       P1120012  ふくら雀(梅蜂)

       P1120008 ふくら雀(梅鉢)

 

当時お付き合いのあった浜松の長老から、浜松凧のように文様の周りを蝋引きすると揚げたときに蝋が光を透し、文様がはっきりするから、梅剣鉢の周りを蝋引きするようにとアドバイスがあったのであるが、蠟引き自体が理解できないので、浜松に行き凧紙への蠟引きを教示していただいた。帰宅後早速、蠟引きの練習をし、なんとか蠟引きすることが出来た。

 蠟引きについて浜松の長老は「蝋を引くときは息を止めて引くんだぞ、じゃがそのまま息をしなかったら死んじゃうからな」とユウモアたっぷりの教えに思わず笑ってしまった。

また、絵柄を丸の曲線とした物も作成してみた。色合いは雀の身体の部分は茶色としたが、空に揚がったものは見栄えが良くなかったので、後で赤色に変更し現在に至っている。

 凧の基本となる骨組は、色々な骨組みで組み立てたが、浜松に出かけたとき、「袋井の丸凧」を製作されていた袋井の凧友さんご夫婦と知り合い、お言葉に甘えて袋井のお宅まで出かけて丸凧の骨組みを教えていただいた。

袋井の丸凧は柾割の竹を薄く削り、凧の外側の丸みを形成させ、浜松凧と同様に縦と横に枡目状に組み立ててある凧です。

        903     90㎝骨組み

        90 90㎝骨組みとデザイン

その袋井の丸凧の骨組みを45度傾けると雀のデザインとピタリと合うのである。これには凧友ご夫妻も大変驚かれ婦くら雀の骨組みとすることになったのである。

「浜松凧」、「袋井の丸凧」共に柾割の竹を使用しており、「婦くら雀」も柾割の竹を使用することとした。

 雀のデザインは、当初は丸の曲線を描くのに製図の烏口を使い内輪の線、外輪の線を墨入れし、中を墨で塗りつぶした。烏口の墨が少量しか入らず、途中で継ぎ足しながらの作業となり手間のかかる仕事の割には出来栄えが良くならなかった。

 今では、細いマジュックインクとコンパスで曲線を描いて、中を墨で塗りつぶす手法に変えたら、烏口と同等の綺麗な線が描かれるようになった。

 当初90cm丸の婦くら雀のみ製作していたが、凧揚げ会場の空が混み合うことや、凧の運搬の煩雑さから今では持ち運びが便利な60cm、45cmも製作するようになった。

  平成13年2月末に九州の凧友から60㎝のふくら雀凧が送られてきた。文面では北九州市の遠賀川沿いの中間市で「親子凧作り凧あげ大会」を毎年開催している。毎年全国の凧を紹介する意味で、この年はふくら雀凧が選ばれた。凧の尻尾が長いと凧揚げに都合が悪いので、尾無しの骨組みと糸目の付け方を改良して尻尾 無しで作り、子供たちとふくら雀凧を作り凧揚げを楽しんだということで、タイペッグで制作した改良したふくら雀凧と設計図を送って頂いた。

婦くら雀を製作した時に大橋栄治先生にもらっていただいたときに、本に掲載し誰でも作れるたことするためには、骨組みが簡略したもので再度製作して欲しいと要望され、簡易型を製作したのであるが、丸型のため故の安定が悪く尻尾を付けたもので簡易型を作成し、それが大橋先生の凧の本に収録されることになった経緯があります。

 九州の凧友から送って頂いた凧を参考に60㎝の凧を製作すると成程、微風の時は尻尾無しで飛翔するが風が4m位になると不安定になるので短い尻尾を付けると安定してよく揚がった。婦くら雀を作り、改良点を教えて頂いた事に感謝申しあげます。 

 また四国の凧友の協力で、直径43cmの婦くら雀を白黒印刷することができ、その雀を彩色し、組み立てることで、簡単な「婦くら雀凧」も製作できるようになった。

雀の学校

印刷した婦くら雀凧を100枚繋ぎ連凧にして揚げている。この連凧を「雀の学校」と命名した。

 印刷用紙に彩色し、切り取り、凧の裏には「木の字ジョイント」を取付し、1.8Φの竹ヒゴを貼り付け骨組みとしている。

 弱風の時は、連凧の先頭を持って、風下側に直線状に伸ばして行き、風を見ながら手元側の揚げ糸を背に担ぐように、風上に向って小走りで駆けると、先頭の凧から徐々に高度を増して揚って行くときは、観衆の視線が連凧に向いているのが、揚げ糸を通して伝わってきて快感でもあります。

 このような引き揚げ方法は、百足凧を飛翔させる時に行われていますが、雀の学校での飛翔も同様な方法で行っています。

 凧揚げ会場で誰の凧も揚がらない、言わば風待ち状態のときは、「雀の学校」にとっては最高な凧舞台となっている。

 雀の学校の飛翔では連凧の長さが100mあるので会場の広さが最低でも120m以上が必要になり、風の向きによっては全部伸ばすことが出来ずに断念することもありました。 そこで、ある程度の広さでも連凧揚げが対応できるように雀50匹学級(50m)を新たに製作し、凧揚げ会場の広さに影響されないようにしました。

         Rimg0118  雀の学校

          Img_0029_1 ふくら雀連凧

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金澤郷土の凧を再現して

2014年03月16日 | 金澤郷土の凧

1.廃絶になった凧

全国各地の凧を紹介している書籍は多々発売されていますが、どの書籍にも共通して石川県では凧が廃絶と記されています。

いいかえれば廃絶したということは、昔は金澤に固有の凧が存在したことを示しているのです。そして廃絶した凧がどのような凧があったのかも不明のままでした。

金澤の凧に関するものは色々な著書の中で、数行程度書かれていますが、資料としてはその資料の裏付けを得るのが労力のいる作業でもあります。

また、資料を基に凧を再現する都度、地元の新聞等でも紹介されてきましたが、読者の方からの情報も期待していたのですが、情報提供はありませんでした。

加賀の廃絶した凧を調査し、凧の書かれた文献、凧揚げの様子などの資料を整理し、再現した凧の資料ごとに纏めたものを逐次公開することで後年の凧資料として残せれば幸いと思っています。

また、資料を基に再現した凧の制作の苦労談も書き綴っていきたいと思います。


2.再現できた凧

資料に基づき再現できた加賀凧は以下の4種類の凧です

1.婦くら雀凧 2.扇子凧 3.がめ凧 4.鳳巾(いかのぼり)

これらの凧に関するの各々の資料をも開示しながら、再現した凧を紹介していきます。

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