加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

金澤の盆・正月と凧

2018年09月18日 | 金澤郷土の凧資料

平成30年9月18日 
金澤市史を調べていると「金澤の盆・正月」という催しがあった事が分かりました。

平成23年(2011年)6月 第60回百万石まつりから藩政時代に藩主一家の婚礼、誕生、官位昇進などを祝って行われていた「盆正月」という祭礼をイベントとして金沢城公園で開催することとなり、現在も百万石まつりの祭事として定着している物ですが、その歴史を探ってみました。

金澤市史 資料編7 の中では次のように記述されています。
盆正月作り物等一覧記より文政13年(1830年)6月 盆正月作り物等一覧記
(表紙)「文政13年6月1・2日 盆正月作り物等一覧記」
今般若君様就御生誕、為御祝町中盆・正月作り物等一覧記

浅野川口
一、橋場町懸作りに舞台ニ末広狂言、扇子・同箱にて作り見事也
一、尾張町下菱屋店に七福神の舟遊び、船ハ蒔絵堤重、其上に八寸ならべ、こうらんハ朱塗はし箱、庭ハ小蓋、頭ハ盃にて、籠頭目ハ茶台におしろいとき、屋形ハ蒔絵状箱等取合、扨其中に毘沙門天と大黒天とケン打体、其外弁財天等皆顔ハねり物、装束ハふくさ等取合、酒盛の体其美々敷キ細工見事也
一、尾張町上之方ハ、・・・・
以下中略

  (祇園囃子の屋台)

一、 安江町、十二月、家壱軒ニ一ヶ月宛
正月    宝来、三方ハ広ふた、海老ハ盃・ぬり箸、梅ハ間鍋蓋、中に竹の手塩皿入
二月凧   亀凧、ふくさにて亀甲、尾ハこし帯
      源徳凧ハ黒繻子の帯、頭ハ沙帯縮緬、髪ハ羽織むなひも
三月梅干  住吉筑勅使橋石燈籠、正月の姫松残らす茶道具にて作り
四月葵祭り 冠、金たらいの上にすっぽんをのせ、房ハ生松・目扇子、是ハおはくろの渡し金、劔ハ銭帯縮緬
五月のほり 兜・揚弓・的など幟出しハ、矢ニ而風車、真んニ的をさし、都而揚弓道具にてこしらえへ
六月すゝミ 又タ角徳利にて同断
      団扇ハ大盆・中本・小盆ニ、柄ハ塗杓子、骨模様は杉はし
七月七夕  衣行にてはた具こしらへ、織物ハ金らん、糸ハサナダ、高ニ鏡三ツ重、三光の月
八月秋いれ はさ場ハ松の木を作り、松葉ハはさみ、稲ハ苧下ニ花五把、米ヲひろふ体、是ハはさみ・はり・きせる筒などニ而作り
九月    菊花ひらハ楊枝、葉ハやふじ、指薙ハぬり箸
十月    恵美春講、鯛ハ巾着、ひれハ扇子、尾ハはかま、釣竿扇子、下ニゑひす様、帽子在之
十一月   雪あそび、雪ハ綿、児ハきれ取合、雪をころます体
十二月   ゑひす・大黒ハつく、えひすハ手返し。臼ハ金秤りのおい、木ねも同断、足袋はふくさ等取合、生籠ハ十露盤、同さんハやたて弐本ならへ、其上ニ筆壱本、へついハ硯・釜戸鳥紅形ニ唐津水入、釜ハ墨、縁ハ金はかり皿

※金沢市内の各町内では作り物という物を家の前に飾り、祝ったと書かれていました。
この中で、亀凧、源徳凧を作り物を飾ったとありますが、亀凧はふくさにて作ったことは分かりますが、源徳凧はネット等で調べてもわかりませんでした。

盆正月について他の資料も調べてみました。
「昔の金澤」氏家榮太郎著 金澤文化協會発行昭和7年5月5日発行




その他の祭禮 「盆正月」の項では
 
藩政時代前田家に於いて官位陞敍(しょうじょ)、世子初入府の如き慶事のある際金沢總祭を行ふべき布令が出る。
日数は五日乃七日でその間一般市民は業を休み赤飯を炊き酒肴を設け衷心祝意を表したものである。
店頭の装飾、催物一切悉く氏神祭禮と同様であるが、之等の催物は必ず廣坂下物見(現廣坂通より公園に入る坂の上り口にありしもの)と金谷御殿物見(不明門の左方現時銀行集會所のある處)前に至り技を演じて上覧に供することゝなってゐた。

その盆正月と稱するのは文字通り盆と正月の快樂を同時にするの意で、市民の歓喜熱狂の状は筆舌に盡し難き盛なものである。
盆正月の始まりは、およそ五代藩主綱紀(つなのり)の中期頃からおこり、延享2年(1745)前田宗辰(むねとき)の藩主になったときを祝って、8月11・12日に町奉行の命により行われたことや、文化8年(1811)前田斉泰(なりやす)の金沢城に生まれたことを祝って行われたもの、また文政13年(1830)慶寧(よしやす)が江戸に生まれたとき、明治2年(1869)慶寧の恩賞を受けたときに至るまで、過去40回以上にわたって行われている。


「昔の金澤」では月ごとの祭も紹介されています。そのなかで三月の項では雛祭りと凧揚げ・羽子衝きについても書かれています。
凧揚げ 羽根衝き
總じて春時男兒は凧揚げ(凧揚げは正月に始まり二月晦日を終わりとし、三月に入れば下り紙鳶と稱へ玩ぶものなり)獨楽、竹馬を女兒は手毬、羽根を玩び到る處、手毬唄、羽根の音風の唸りなどいかにも陽春駘蕩の趣を呈した。
凧にはその背へ鯨の筋を薄く剥げるを竹に張り弦とせるものを附けるので、その晴天に唸るのは一種晴々しい心地を唆つた。

 

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凧の出し物 傘を作る4

2015年04月19日 | 金澤郷土の凧資料
今回制作した傘の上部に青く染色した紙をつけると和傘のような形状となりました。
当初制作した6本の骨の傘と今回制作した20本の骨の傘を並べて比較してみました。

(左側:6本骨の洋傘タイプ、中央、右側:今回制作の20本骨の和傘タイプ)


(左側:6本骨の傘、右側:1回目の20本骨の傘)

(左側:1回目の20本骨の傘、右側:2回目の20本骨の傘)

(左側:1回目の20本骨の傘、右側:2回目の20本骨の傘)傘の表側

平成22年5月4日 内灘海岸での傘を使用した「ビラまき」を凧友のN氏に撮影してもらった写真です。
風を受けて傘が上昇していきます。

揚げ糸の中間にストッパーを作っておき、傘がストッパーにあたって開いていた傘が閉じます。
その時傘に挟んであった小さく切った色紙が傘から離れます。

小さな色紙が風でヒラヒラと飛散していきます。
傘は閉じた状態で手元まで降下して戻ってきます。


このように傘は何度も昇降させて見学者の方を楽しませることができるのですが、婦くら雀凧を安定して飛揚できるのは5~6メートルの風速で安定した風が必要なのです。
そのため傘を制作してから「ビラまき」が出来たのは数回程度です。
それでも機会があればと何時も準備だけはしているのです。

成巽閣の「凧あげ」絵図の中に「出し物といって小さい傘を付けて昇降させる装置」を再現しましたが、今回は絵図のような傘の形状に近い物を再現できたのではないかと思います。
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凧の出し物 傘を作る3

2015年04月17日 | 金澤郷土の凧資料
傘の骨と25㎜φの傘の心材を準備し傘の骨組みを組み立てました。
今度は2回目の制作なので手際よく製作できました。

(傘の骨組み表側)

(傘の骨組み裏側)
今回は手すき和紙に印刷した婦くら雀の紙を竹骨に合わせて貼り付けたので、自分ながら満足のできる仕上がりとなった。

(紙貼りが完成:表側)

(紙貼が完成:裏側)
傘に貼った状態で紙の表面に水を付けて乾燥させると紙はピーンと貼ってよい状態に仕上がった。

(彩色が完了:表側)

(彩色が完了:裏側)
その後、彩色して乾燥させるとさらに紙は張って、傘をラッパ状態にするのに普段以上の抵抗感が出てきたのです。

その結果、傘を押上げる心材につけてある竹骨が変形し接続材が破損寸前になった。
解体し作り変えるか、押上げる心材と竹骨の部分を補強するかの選択を迫られる出来事になりました。
今までは機械すきのナイロン入りの和紙を使用していましたので、ここまで張りが強くなることはなかったのです。
原因は手すき和紙に水を付けて張りを持たせた上に、さらに染料で水分が乾燥したときに紙の繊維が緊張して張りが強くなったことでした。
今後は染料での彩色だけで行くべきだと思いました。

Yahooで和傘の画像を検索しヒントになるものがないかと探していると、傘の内側に糸状のもので幾何学模様となった画像を見つけました。

(Yahooの傘の画像を借用しました)
ひょっとするとこの糸は単にデザインだけではなく傘の骨のヒネリによる変形防ぐものかもと思い、この方法を試してみることにしました。
傘の骨に糸を張っていく作業は根気のいる作業でしたが何とか恰好はできたようです。
この糸張りをしたおかげで傘のひねりは全くなくなり、スムーズに開閉ができるようになりました。

(傘の糸の幾何学模様)

仕上がった傘を陽にかざしてみると染料の色合いがきれいで仕上がりに満足でした。

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凧の出し物 傘を作る2

2015年04月13日 | 金澤郷土の凧資料
凧糸に付けて遊ぶものは一般的には『風弾(ふうたん)」「サル」と呼ばれ沖縄では「シャクシメー」とも呼ばれていますが「傘」も「サル」と呼ばれていたのかは分かりません。
凧の揚げ糸に付けて風を利用して上昇させ糸端まで来ると仕掛けが外れて降下し手元に戻ってくるものの総称が「サル」と呼ばれていたのではないでしょうか」

以前いただいた傘とその傘を参考に製作した傘を並べてみました。

(左側:船見氏製作、右側:複製で製作したもの)

(左側:船見氏製作、右側:複製で製作したもの)

複製したものは傘の骨が6本なので傘の形状が6角形となっています。
今度は傘の形状をなるべく円に近いようになるよう竹骨を20本で制作しました。
この発想は以前百均で購入した玩具の傘の骨が20本で作られていたからです。この傘を何度か開いたり閉じたりしたら竹の繋ぎの部分が切れてバラバラになったことがありました。
この傘を解体し、再度組み立てて傘として凧糸に通して上昇、降下を楽しんだことがありましたが、今では百均では入手できなくなりました。

今回、印刷した婦くら雀の紙を利用して竹骨20本の傘を作ることにしました。
直径が43cmなので4mm幅の平竹を準備し、以前から使用していた直径20㎜傘の芯材を使うことにして組み立てました。

(傘作りの材料)

(傘の骨を組立上部より見る)

(傘の骨を組立持ち手側より見る)
骨組みができた傘に機械すき和紙に印刷した雀の紙を貼り、染料で採食しました。
羽根を白抜きとし、羽根から透ける部分の空を青色として染料で彩色しました。
今回の婦くら雀とは違った彩色としました。

(傘の裏側)

(傘の表側)


組立が終わってから大きな失敗に気が付き、再度もう1個製作することにしました。
それは、4㎜×20本=80mm 80mm/3.14≒25㎜ 直径25㎜の芯材が必要であることが分かったのです。
つまり、傘をすぼめたときの収まりが悪いのと、紙の絵柄が傘の骨の位置とマッチしなかったので失敗作となったのです。

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凧の出し物 傘を作る1

2015年04月11日 | 金澤郷土の凧資料
金澤市史の中で「紙鳶」の項目では「絲に小さき傘を穿ち、傘中に布袋、大黒、千羽鶴などの形を成せる紙片を容れ置けば、傘は、絲端に達して擴がり、傘中の紙片は、風に飜りて飛散す」と凧揚げのことが記述されています。
また、成巽閣の資料の絵にも下記の記述があります。
「出し物と申して傘に仕込みまして図のごとく、凧の糸に通し風に際びて上へと進めるのでひも下糸に止めがつけて有り枡故其所にてとめると同時にさきの出し物が風に翻って落下するので御座います」

(成巽閣所蔵 凧揚げ)

(婦くら雀に傘を付けて揚げています)
平成7年頃新潟県の「しろね大凧と歴史の館」を訪問した時に田村様と知合い、会館に展示のために「婦くら雀凧」もらって頂いたご縁から親交が始まりました。
その後、田村様から試作品の傘を頂戴しましたが長年忘れてそのままになっていました。

(田村様の傘 閉じた状態)

(田村様の傘 開いた状態)

(田村様の傘 ラッパ状態)

平成19年に上越市の船見様とお会いする機会があり傘を製作していたのでその傘を頂くことが出来ました。
その傘の骨は6本で作られていました。その傘を参考にして幾つかの傘を製作して「婦くら雀」の揚げ糸に通して上空から小さく切った色紙を飛散させてきました。
今回傘の骨を20本として和傘のような形の傘を作ることにしました。
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