加賀の旅人

郷土の凧と歴史の狭間に埋もれた凧の歴史を尋ねる旅人です。

鳳巾(いかのぼり)

2014年04月22日 | 金澤郷土の凧

加賀の千代女と鳳巾(いかのぼり)

石川県松任(現白山市)には俳人として名をはせた加賀の千代女がいました。
平成15年(2003年)に旧市立松任博物館で千代女生誕300年祭として、千代女の扇子や掛け軸が多数展示されました。その様子がテレビのニュースで流され、鳳巾の懸物で凧と思しき映像が映し出されました。それから博物館を訪ね問題の懸物を探しました。掛け軸には広井先生の名付けた「古代イカ」が描かれていました。
 学芸員の方に「鳳巾」の懸物について説明を受けました。宝暦13年(1763年)千代女61歳の時、朝鮮通信使の招待役として幕府より任命された加賀藩が、使節団の土産に千代女の俳句を選び献上した中の一句です。(懸物6幅、扇子15本に21の句を書きました)この懸物は晩年、素園と俳号を改めてから書かれたものです。

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 懸物の中で「吹け吹けと 花によくなし 鳳巾」となっていますが、一般的に直訳すれば「凧揚げには風が吹けば良いが、花には風が良くない」となります。凧糸を持っているのが幼少のころの千代女で、男の人は本吉(現材の白山市美川町)の潟淵屋半睡、千代女の俳句の師匠であるという。千代女とは19才年長です。半垂師匠は凧揚げに夢中で、花である千代女には見向きもしてくれない、風さえ吹かなければこちらを向いてくれるのにという千代女の女心が隠されている句であり、糸巻から半垂師匠の手元の糸までが二人の心の距離であろうと学芸員の方は語ってくれた。
 小生が白山市(旧松任市)に転居してから松任の歴史についてはあまり知りませんでした。小学校で女性の俳人で加賀の千代女が松任にいたという程度しか知らなかったのですが、この掛軸を観てから千代女に関する書物を何度も読み返し、千代女のことを勉強する良い機会にもなりました。

千代女の生い立ちについて
 元禄16年(1703年)加賀国 松任(現石川県白山市)の表具師福増屋六兵衛と、母つるの長女として生まれ、享保4年(1719)美濃の各務支考(かがみ しこう)が旅の途中で松任を訪れた時、17歳の千代女に会い「ほととぎす」を題材に一句詠めと言われ、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句を詠んだことから各務支考に才能を認められたといわれています。
 結婚したという説と、独身を通したという説がありますが、資料が少ないため今でも調査している方々の意見が分かれているところです。
 52才の時に剃髪し尼となり「素園」と号した。73才で亡くなるまで詠んだ句は1,700余といわれています。加賀の千代女として名をはせたのです。
 代表作に 「朝顔に つるべとられて もらい水」や千代女が永平寺に参詣してときに詠んだ「百生や  蔓一すじの 心より」の句があります。
「吹け吹けと 花によくなし 鳳巾(いかのぼり) 」       尼 素園

鳳巾(いかのぼり)について調べてみました。
JKA通信130625-03(紙鳶の定義)を引用させていただくと
『古事類苑』のなかの遊戯部の項に、凧(紙鳶)のことを、下記のように定義してあります。
古事類苑(こじるいえん)は明治政府により編纂が始められ明治29~大正3年(1896~1914)に刊行された類書(一種の百科事典) である。
「紙鳶ハ奮ク紙老鴟ト云フ、後世ノ俗、イカノボリ、又ハトビダコト云ヒ、又略シテイカ若シクハタコトモ云ヘリ、竹ヲ骨トシ、紙ヲ張リテ、鳥、魚、又ハ雑物ノ形象ヲ作リ、此ニ糸ヲ付シテ空中ニ飛翔セシムルモノナリ。」とあります。

『近世風俗志の卷之二十八(遊戯)』では
紙鳶(たこ)
「文字によれば、鳶(とび)形を本(もと)とするか。あるひは形によらず、高く飛ぶを、鳶に比するの意か。
正字は凧なり。京坂ひては、いかのぼりと訓じ、下略して、いかと云ふ。
江戸俗は、たこと云ふ。尾縄を垂る形ち、烏賊および蛸に似たる故の名か」

『嬉遊笑覧』では
その一つは喜多村信節(きたむらのぶよ)著の「嬉遊笑覧」で、江戸後期の随筆集。
(12巻からなり、付録1巻。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会万般の記事を集め、28項目に類別して叙述したもの。) この随筆集のなかで、凧のことが書かれています。
いかのぼり:「和名抄」に弁色立成云、古くは音にて紙老鴟と呼びしにて、もと子ゝの物に
あらぬにや、いかのぼりは畿内にての名なり、
たこ:関東にてたこと云ふ「物類呼称」云、西国にてたつ又ふうりう、唐津にてたこと云、長崎にてはたと云、上野及信州にてたかといふ、奥州にててんぐばたといふ、何れも雅名にはあらず、・・・・各地の凧の呼称について書かれています。

『守貞漫稿』では
また、『守貞漫稿』の紙鳶(いか)記述では、『文字によれば、鳶形を本(もと)とするか。あるいは形によらず、高く飛ぶを、鳶に比するの意か。正字は「凧」なり。』と凧のことを定義付けしています。
 『京阪では「いかのぼり」と訓じ、下略して「いか」と云ふ。江戸俗は、「たこ」と云ふ。尾縄を垂る形ち、烏賊および蛸に似たる故の名か。』と凧の呼び名も地方で違っているようである。

       1_3     古代イカ挿絵

いかのぼりについて
 凧というのは平安時代に中国から日本に伝わったと言われています。
中国では紙で作った鳶を「紙鳶」と書いてシエンと呼んでいた。
日本には平安時代に入ってきたが、「紙鳶」、「紙老鴟」であった。
その後、烏賊を開いた形が似ているという事から「イカ」と名付けられたと言う説もあります。
凧研究の第一人者である日本の凧の会の大阪支部会員 K氏は会報80号(2010年12月発行)では“イカノボリはダルマだった”の項で「アカイカ開いて伸ばして軽くあぶった加工品をダルマである」と述べられています。
一方、88号(2013年12月発行)では「いかのぼり」は、日本で形が判別できる一番古い凧で、最初は『京童跡追』(寛文7年・1667)に登場し、元禄期からは様々な本に出てくる」と述べられています。

いかのぼりの構造
いかのぼりの構造を調べてみると、凧の骨組みは外側と内側の骨2本の構造である。外側の弓形の骨をさらに半月状に曲げ骨の両側を糸で縛っておく。内側にはしずく型に曲げた骨を配置し、半月状に縛った下部の糸の中央で縛ると骨組みは完成する。
 骨組みに紙を貼り、尻尾は掛け軸の図では3本となっていることから中央が長く、両側は短い尻尾を付けた。
 前述のK氏の説明では『絵本大和童』から「日の出と波」の図柄を採用されていたが、展示された掛軸には凧面の絵柄はなかったので、無地とした。また尻尾は足先に赤く帯を入れました。
 糸目はしずく形の骨と半月型の骨の交点2か所としずく形骨の下部での1か所で3本の糸目とした。

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2 コメント

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凧史様 (横浜凧の会 T)
2014-04-25 10:11:48
凧史様
横濱凧の会のTです。JKA通信でブログをみました。全体のデザインも洒落いて、これを見ろと云う感じがなく、凧史さんが本好きな人と云う感じが出ています。また、石川県にはあまり凧文化ないと思っていましたが、良く調べましたね。感心しました。今後も頑張ってください。

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☆  T様 (凧史)
2014-04-25 15:15:32
☆  T様
早速のご来訪・コメントをありがとうございました。
稚拙なブログですが、これからもよろしくお願いします。
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