武産通信

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会津藩始末記(4)

2013年03月23日 | Weblog
★蛤御門の変

 会津藩主・松平容保は、孝明天皇から宸翰を下賜された。宸翰(しんかん)とは天皇直筆の文書をいう。

 文久三年(1863)六月、前関白の近衛忠煕(このえ ただひろ)を経て伝えられた宸翰の読み下し。

 守護職のその方を使として下向の儀は、朕においては好まず候へども、当時の役人並びに堂上(清涼殿に昇殿を許された公卿)の風として申し条を言張り候次第、とても愚昧の朕、申し出候ともせんなき事ゆえ、各々の申す通りに相成る次第に候間、ただ今もかくのごとく厳重の沙汰のようながら、実勅にてはこれなく候間、さよう承知し、その方の領掌の可否は存分に任せて返答すべく、決して下向を強いて申しわたす所存にはこれなく候事。 文久三年六月二十九日

     【宸翰】

     堂上以下陳暴 
     論不正之所置 
     増長之段痛心類堪 
     下内命之処速ニ 
     領掌憂患掃 
     攘朕存念貫徹 
     之段全其方忠誠 
     深感悦之余右 
     壱箱遣之者也
     文久三年十月九日

     堂上以下、暴論を陳べ、不正の所置増長に付き、痛心耐え難く、内命下したる処、
     速やかに領掌、憂患を掃攘し、朕が存念貫徹の段、全く其の方の忠誠、深く感悦の余り、
     右壱箱(御製/天皇が詠まれた和歌)を遣わすもの也。
     文久三年十月九日

     史料:孝明天皇「宸翰」写本/会津若松市所蔵

 この後、孝明天皇は翌年の元治元年(1864)の二月と三月、更に二度にわたり宸翰を松平容保に与えている。
 宸翰があるかぎり、会津こそが尊王であって、薩摩・長州は逆賊なのである。

 七卿落ちの政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、京都守護職・会津藩主松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。激戦地が京都御所の蛤御門周辺であったことにより、蛤御門の変(禁門の変)という。

 元治元年(1864)七月十九日、蛤御門の変

     『御所表戦之事』 中路家文書

     はまくり御門会津様 伊予松山様 山城淀様御固
     下立売御門を伊予うは島様 ゑちぜん
     中立売ニハ壬生浪人百人組 会津固

     蛤御門は会津藩、伊予松山藩、山城淀藩が警固。下立売御門を伊予宇和島藩、越前藩。
     中立売御門は壬生浪人(新選組)の百人組、会津藩の警固です。

 中路家は京都近郊の下桂村の庄屋。中立売御門の警固は実際は筑前藩であった。この兵火による「どんどん焼き」は京都の町を焼き尽くした。蛤御門は京都御所の西側に位置し、いまも門の梁には弾痕が残る。


 慶応4年(1868)、戊辰戦争に敗北した会津藩二十三万石は、薩長新政府により陸奥国(青森県下北半島)の斗南(となん)藩三万石へと移封された。
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