本日は、常に出典を明らかにして西式健康法を紹介されている出会い系ハイヒール型さんの「私見西式」です。大先生と西勝造先生との出会い、そして旧本部道場で大先生か西式健康法について話されたことなどが記されています。それでは最後までじっくりとお読みください。
西勝造と大本教教祖出口王仁三郎を会わせたいと考えたのは、元「実業之日本社」幹部で大本教信者の栗原白嶺(クリハラハクレイ)だった。彼は国家権力による大本教弾圧により、第二次手入れ(昭和10年12月8日)の時に検挙され7年間投獄せられた末、獄中で自殺した人物である。実業之日本社からは西の「西式強健術と触手療法」が出版されており、その縁で古くから西を知っていた。ある時、西に「野心家が沢山いる事だから間違って(西式を)宣伝されては困るから、王仁三郎と直接意思を通じる様運びたいが、まだまだ時期が早い様である。ところで王仁三郎には身を守る者がありますが、この男に是非会って欲しい」と語った。
野心家とは「谷口雅春とか浅野和三郎とか浅野正恭とかを指すのであろう」と田中宋太郎は述べている。
谷口雅春は後の宗教団体「生長の家」創始者である。
さて、「この男」というのが植芝盛平である。
西と植芝盛平の初顔合わせがいつなのか資料がない。植芝吉祥丸は、満州の地に於いてではないかと云う。ともあれ「西勝造伝・坤巻」には「植芝先生は昭和十七年十月満州より帰国後、大腸カタルがどうしてもなおらなかった。二木博士も合気道の弟子であるが、その治療を受けても植芝先生の病気はなおらなかった。、そうして西先生の指導の下に断食をやり、生野菜食をやってやっと健康を取り戻したのである」と記されている。 (私見西式41)
昭和33年7月12日、植芝盛平が田中宋太郎に牛込若松町の合気会本部で語ったこと。
植芝先生の西先生への尊敬の念はまことに深く手厚い。そのお話の中で「西医学健康法は、世のため、人のため、世界のために自分の体が大切だからと思ってやるのでなければ効果がない。只自分のこと丈考えていたのでは、健康を保つことは勿論のこと、病気などもなおらない」といわれた一語には感銘した。(「西医学」第21巻第2号) (私見西式197)
「二木博士」とは、二木謙三(ふたき けんぞう、1873年~1966年)のことである。医学博士。伝染病を研究し、駒込菌の発見者。秋田県生まれ。日本の医学界の重鎮であった。
西勝造と大本教教祖出口王仁三郎を会わせたいと考えたのは、元「実業之日本社」幹部で大本教信者の栗原白嶺(クリハラハクレイ)だった。彼は国家権力による大本教弾圧により、第二次手入れ(昭和10年12月8日)の時に検挙され7年間投獄せられた末、獄中で自殺した人物である。実業之日本社からは西の「西式強健術と触手療法」が出版されており、その縁で古くから西を知っていた。ある時、西に「野心家が沢山いる事だから間違って(西式を)宣伝されては困るから、王仁三郎と直接意思を通じる様運びたいが、まだまだ時期が早い様である。ところで王仁三郎には身を守る者がありますが、この男に是非会って欲しい」と語った。
野心家とは「谷口雅春とか浅野和三郎とか浅野正恭とかを指すのであろう」と田中宋太郎は述べている。
谷口雅春は後の宗教団体「生長の家」創始者である。
さて、「この男」というのが植芝盛平である。
西と植芝盛平の初顔合わせがいつなのか資料がない。植芝吉祥丸は、満州の地に於いてではないかと云う。ともあれ「西勝造伝・坤巻」には「植芝先生は昭和十七年十月満州より帰国後、大腸カタルがどうしてもなおらなかった。二木博士も合気道の弟子であるが、その治療を受けても植芝先生の病気はなおらなかった。、そうして西先生の指導の下に断食をやり、生野菜食をやってやっと健康を取り戻したのである」と記されている。 (私見西式41)
昭和33年7月12日、植芝盛平が田中宋太郎に牛込若松町の合気会本部で語ったこと。
植芝先生の西先生への尊敬の念はまことに深く手厚い。そのお話の中で「西医学健康法は、世のため、人のため、世界のために自分の体が大切だからと思ってやるのでなければ効果がない。只自分のこと丈考えていたのでは、健康を保つことは勿論のこと、病気などもなおらない」といわれた一語には感銘した。(「西医学」第21巻第2号) (私見西式197)
「二木博士」とは、二木謙三(ふたき けんぞう、1873年~1966年)のことである。医学博士。伝染病を研究し、駒込菌の発見者。秋田県生まれ。日本の医学界の重鎮であった。