武産通信

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古文書 『猪熊事件』

2016年10月29日 | Weblog
 片桐且元への書簡 『勧修寺光豊書状草案』

 今度女中方 若堂上衆不慮之仕合前
 代未聞ニ候 然間 叡慮以外御逆燐
 不斜候 巳来之御法度思召候間 急
 度可被仰付 叡慮ニ候 此等趣
 内府公え可被申入候 猶御上洛之刻
 万々可得御意候 恐々謹言

   七月廿三日
   片桐市正殿

【読み下し文】
 今度女中方 若堂上衆不慮の仕合い前代未聞に候
 しかる間 叡慮もっての外御逆燐斜めならず候
 巳来の御法度思し召し候間
 きっと仰せ付けらるべき叡慮に候
 これらの趣 内府(豊臣秀頼)公へ可申し入れらくべく候
 なお御上洛の刻 万々御意を得べく候 恐々謹言

   (慶長十四年)七月二十三日
   片桐市正(且元)殿

【猪熊事件】
 慶長14年7月に露見した宮中における乱交事件。後陽成天皇が寵愛した広橋局と公家・花山院忠長との不義密通を知った猪熊教利は、知り合いの公家を巻き込み、広範に宮廷女官との密通を重ねた。
 このことが露見すると後陽成天皇は激怒し関係者全員の死罪を命じたが、思いのほか関係者の人数が多く混乱を招くとして、徳川家康の差配で首謀者の猪熊教利(27)と花山院忠長(22)、密通を手引きした歯医者・兼安備後頼継の三人は死罪、五人の公家と広橋局はじめ五人の女官は島流し、二人の公家は蟄居を命じられた。
 この後、大阪城から退去した片桐且元は、大坂の陣では徳川方の先鋒として出陣したという。
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