瀬崎祐の本棚

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詩集「くじら屋敷のたそがれ」 原葵 (2020/10) 国書刊行会

2021-02-12 19:03:51 | 詩集
165頁に28篇を収めている。
 前詩集にもあらわれていた夫は、夜を徹して二階でノートに何かを書きつけている。夜が明けるとわたしは「夫が芋虫のように安らかに眠れるようにとねがいながら」手足を紐で縛り床に転がしておく。ついに夫は、たそがれの島へ行ってしまったのである(「プロローグ」)。そして、私も「懊悩や悲しみ、苦しさを捨てに来るという」その島をめざす。

 作者は、かって芦原修二がおこなっていた短説(400字詰め原稿用紙1枚の掌編)の会のメンバーだった。そして幻想文学のロード・ダンセイニの翻訳者でもある。本書の1篇の行分け詩と27の散文詩は、その全体でひとつの島の物語を語っている。島で暮らす人たちを描いていく。

 魂を軽くしないとできない水上二足歩行術を会得しようとする妻もいる。「心の悩みが深くなると、乳房が重くなる」ので「耳をはずし乳房もはずして」しまう。

   私は息を吸っては吐き、吸っては吐き、体を軽くしようとし
   ています。
   体の中の重いものを、すっかり出してしまいたいのです。
   乳房は砂地の中で次第に溶けていくでしょう。
   やがてそれがすっかり溶けてなくなってしまえば、
   きっと私も、水上歩行者となれるにちがいありません。
   それを待ちながら、私は今日も一日中、
   砂浜で海を見つめて立っています。
                     (「うすばかげろう)」

 またこの島では様々な生きものが交流している。島の犬と結婚した者もいる。夫も子どもも死んでしまい、「夜になると、犬の家族のようなものが、遊びにあらわれ」背中や顔を踏みつけてゆく。夜が明け、午後になるとわたしは海岸に行き、砂浜から白い犬の骨を掘りおこす。

    「この骨はどの犬のだったかしら」
    わたしは、標本箱から出して連れてきた猫に話しかけます。
    「この骨は、あの犬のだったかしら? それとも?」
    でも標本箱から連れてきた猫は、もう泣き声を立てること
   もできず、目瞬きすることもできず、じっとわたしと一緒に
   鉛色の海を見つめるばかりです。
                    (「東部海岸の犬たち」)

詩集の後半になると、くじら屋敷に引き取られてきた少女のたま子があらわれる。むかしとかげと一緒に裏庭でぼんやりとしたりもしたのだが、お婆さんになった今も卵を産みつづけているのだ。

 エピローグでは、そのたま女から子猫が送られてきて、夫を失って滅んでゆこうと思っていたわたしがふたたび物語を紡ぐ決心をする。こうして、たそがれの島をめぐる物語は次の場所を探そうとしている。
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「カルテット」 7号 (2021/02) 大阪

2021-02-09 19:14:04 | 「か行」で始まる詩誌
山田兼士が編集発行人になっている4人誌。山田の闘病などがあり2年ぶりの発行となっている。無事の発行継続をお祝いしたい。3人のゲストも迎えての73頁と充実している。

「キリギリス」田原。
夏休みに仲間と一緒に熱中したキリギリス捕りを題材にしている。「気温が高ければ高いほど、キリギリスはよく鳴く」、サツマイモ畑は「キリギリスが逃げても、跳んでいった場所がすぐ見つかる」など、かつての日々が彷彿としてくる作品である。新学期になって友だちが学校へ持っていったキリギリスが見つかり先生に怒られ、そして、

   踏みつぶせ!と
   クラスメートは抵抗できず、仕方なく足でグイと踏みつけた。
   それからしばらくは、キリギリスの鳴き声を聞くのが辛かった。

終盤までは、リズムのある文体での短いエッセイのような内容だったのだが、最後に突然感情を大きく揺り動かす詩となっていた。

「日の署名」江夏名枝。
3編の4行詩が載っている。最新詩集「あわいつみ」の作品もそうだったが、自らの感覚を対峙するものとして言葉で定着している。「紋章」全4行を紹介する。

   同じ迷いを繰りかえし
   ついに定められる
   扉を叩く音へ
   削りあげられる

「疾中情景詩篇」山田兼士。
8篇の連作であり、作者によれば「「臨死体験」を含むいくつかの出来事をモチーフに書いた」とのこと。始めの作品が5行×9連、残りの7篇は5行×6連となっている。山田は突然の発病で実際に2ヶ月間は意識不明だったとのこと。そこからの病院での生活を作品化しているのだが、それは奇跡のような復活の歩みである。本当によかったですね。8作目のタイトルは「未知の 未明の 未踏の どこかへ」。これからの以前にも増してのご活躍を祈念している。

詩誌の最後には山田による「詩集カタログ2019/2020」が載っている。彼のツイッターでの書評をまとめたものだが、資料集としても有用なものとなっている。
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詩集「紡錘形の虫」 いのうえあき (2020/12) 書肆山田 

2021-02-05 21:12:59 | 詩集
 第1詩集。142頁に30編を収める。野村喜和夫の栞が付く。
 まず冒頭の6行の作品「祭りのように」全行を紹介する。この作品でこの詩集の魅力が端的に判るのではないだろうか。

   ハサミで
   切った。

   そら
   が
   ずれた

 このようにどの作品にも、理屈や理由を跳びこえたイメージの連携がある。それによって対象物の存在そのものに迫ろうとしている。そこには付け加わろうとする思惑などをすっぱりと斬り落とした潔さがある。

 「きぎれ」は幻想的な展開を見せる作品。いすに座っていたヒトは崩れ落ちて骨になってしまう。すると、いすが立ち上がり、「前がわからず」「後ろにすすんでいく」のである。「地平線に 色が のみこまれ」いすは吊り橋に辿り着く。

   振り子のように
   ゆれている橋
   いすは足を捨ててしまった

   月のひかりがつぶやく
   以前に一度渡った橋
   帰って来たんだよ

 いなくなってしまったヒトに代わるようにして橋までやって来たいすは何だったのだろう。こんなことが以前にもあったというのは本当だろうか。しかし、作者が創り上げた世界の意味を推測する必要はないであろう。ただそれを提示されたものとして受けとればいいのだろう。作品は、受けとる意味のあるだけのものになっているのだから。
 ⅱ章では亡くなった父、母、姉を偲ぶ作品が置かれている。

 そしてⅲ章の「停滞前線」。話者は襲いかかってくる何者かと闘っている風なのだ。それは隣町までやってきている停滞前線ということになっているのだが、とにかくこの状況で話者は耐えなくてはならない。

   わたしのからだは
   夜の中で明滅している
   赤いランプが切れると
   夜のなかにある
   底の見えないたまり水で
   水葬されるだろう

 雨で世界は水びたしになり、最終部分では「魚をくわえた翡翠は/鮮やかな羽をぬらして/飛び立っていく」のだ。ここにはやはり理屈を超えた肌感覚のようなものがある。それが説明を不要とした作品の強さになっている。
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詩集「水のなかの蛍光体」 岸田裕史 (2020/11) 思潮社

2021-02-02 23:00:26 | 詩集
 第3詩集。107頁に32編を収める。倉橋健一、田中庸介の栞が付く。

 Ⅰ章の作品には馴染みのない単語が頻出してくる。シンクロトロン、ソリトン、スキルミオン・・・。作者にとっては作品成立の磁場のようなものとして不可欠だった言葉であるわけだが、読者にとってはこれらの言葉が意味するものはどのようなことになるのだろうか。作品を読む上でこれらの言葉の理解の必要性について考えてしまうのも確かだ。しかし、作者は無論そのことは承知の上で独自の世界を形づくっているのだろう。

 「あの沼のほとり」。この作品世界もやはり専門的な言葉に支えられている。曰く、「高温プラズマを保持する磁場の限界が近づいている」、「あの沼は電磁誘導体にかこまれた谷間にあった」など。その沼は話者が捨てられてしまう場所のようなのだ。そこでは話者の存在そのものが解体されてしまうようなのだ。そんな沼のほとりに話者はいるのだ。

   湧き水の奥深く
   電離層の割れ目に小さな波紋が拡がっていた
   もう忘れかけていたが あのとき
   ぬるりと制御されたサイクロトロンに身をひたし
   二人で落ちてゆく中性子を見つめていた

現実に対峙する幻想世界は、個人が脳内に作りだす虚構の世界である。電脳世界もまた現実に対峙する虚構世界であるが、前者が非科学的で再現性がないのに比して、後者は科学的で再現性を有している。他者への伝達度という点では後者の方がはるかに強大であるような気がする。そして、それらを言葉の世界で扱ったときにどのようなことになるかが問題となってくる。作者は電脳世界の様式を借りて幻想世界を構築しているのだろう。そこでは雨が降り、水が流れているのだ。それこそが有機体の世界である証左だろう。

Ⅱ章では現実の風景に電脳世界が被せられている。人工的な着色がなされた隅田川や御堂筋の風景の中で、表情を失った人々が蠢いている。
 「水無瀬川」では、誰かを殺そうとしているずぶ濡れの女のあとをつける。女は冷たいプルトニウムを飲み、次第に顔の被膜もはがれていく。

   ここにとどまればわたしの顔もつぶされてしまう
   わたしは波音をたてずに
   川の底へ潜りこみ
   体温が失われてゆく冷たさに耐えた
   そしてそのまま月見橋のたもとへ帰ることにした

 しかしわたしはずぶ濡れの女に川底へ引きずり込まれてしまうのである。Ⅲ章で描写される科学的な実験の場で溶かされ、腐食させられているのは、とりもなおさず「わたし」そのものであるような気がしてきた。
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