第5詩集。Ⅰに行分け詩、Ⅱに散文詩という二部構成で、128頁に29編を収める。
作者ご本人の風貌を思いうかべながら作品を読むことは邪道なのだろう。しかし、作者の深く優しげなそれを知っていると、そんなことを考えてしまうほどに作品世界は奔放にひろがっていく。
巻頭の「春・幻」では、街角での夢うつつのような彷徨が詩われている。児童公園の深い池には多くの眼球が漂っていたりするのだ。そして「こころの眼はひとつで/水は幻を見ない」というのだ。
「河畔」は、「思いのほか早い流れ」の川面を見つめる情景である。寄せる小波の様子や、水際の生き物の様子が静かに詩われたあとに、3連で様相はぐるっと転換する。
頭髪は白く短い
毛根ごと引っこ抜いて
幼年時代に帰る
さもなくばこのまま葦になる
肉もこそげて骨のいっぽんいっぽん
水に濡れた河畔に突き刺さる
水面に自分の顔が映ったのだろうか、今の我が身がふいに激しく揺れている。この気持ちはどこに向かうというのだろうか。無駄のない記述が緊張感を保っている。最終部分は「八月の水はごぼごぼと/喉仏を拝んでいる」
様々な事象が我が身に引き寄せられてくる。時には「大漁」「抽斗」などのように怪異譚ともなり、また「くう」のように飄々とした物言いともなる。しかしそのどれものうしろに佇んでいる作者は、非常に真面目に事象が抱えているものに迫ろうとしている。
我が身があらゆる事象に挟まれながら辛うじて生きていること、その意味を捉えようとしているようだ。それは少し滑稽に見えたり、あるいは惨めに見えたりするようなことかも知れないのだが、それは真摯になればなるほどにそのように見えるものなのだろう。
「黄昏」は、「夕暮れの不安定な空気やひかりのなか」を彷徨している作品。昼食のことを思い出そうとしたりしていると、「時間が不規則に流れて 子どもの時代が背後/から吹いてくる」のだ。
奥行きのない店の外には 知らない顔ばかり
が歩いている ひとりひとり咎めるように覗
いてゆく 歩いているのは影だった 影が立
ち上がり体を従えている
時の流れが薄く重なり合っているようだ。そして、今の自分が奈辺にいるのかを問いなおす場に来てしまっている。黄昏にはそういう場が潜んでいるのだろう。
作者ご本人の風貌を思いうかべながら作品を読むことは邪道なのだろう。しかし、作者の深く優しげなそれを知っていると、そんなことを考えてしまうほどに作品世界は奔放にひろがっていく。
巻頭の「春・幻」では、街角での夢うつつのような彷徨が詩われている。児童公園の深い池には多くの眼球が漂っていたりするのだ。そして「こころの眼はひとつで/水は幻を見ない」というのだ。
「河畔」は、「思いのほか早い流れ」の川面を見つめる情景である。寄せる小波の様子や、水際の生き物の様子が静かに詩われたあとに、3連で様相はぐるっと転換する。
頭髪は白く短い
毛根ごと引っこ抜いて
幼年時代に帰る
さもなくばこのまま葦になる
肉もこそげて骨のいっぽんいっぽん
水に濡れた河畔に突き刺さる
水面に自分の顔が映ったのだろうか、今の我が身がふいに激しく揺れている。この気持ちはどこに向かうというのだろうか。無駄のない記述が緊張感を保っている。最終部分は「八月の水はごぼごぼと/喉仏を拝んでいる」
様々な事象が我が身に引き寄せられてくる。時には「大漁」「抽斗」などのように怪異譚ともなり、また「くう」のように飄々とした物言いともなる。しかしそのどれものうしろに佇んでいる作者は、非常に真面目に事象が抱えているものに迫ろうとしている。
我が身があらゆる事象に挟まれながら辛うじて生きていること、その意味を捉えようとしているようだ。それは少し滑稽に見えたり、あるいは惨めに見えたりするようなことかも知れないのだが、それは真摯になればなるほどにそのように見えるものなのだろう。
「黄昏」は、「夕暮れの不安定な空気やひかりのなか」を彷徨している作品。昼食のことを思い出そうとしたりしていると、「時間が不規則に流れて 子どもの時代が背後/から吹いてくる」のだ。
奥行きのない店の外には 知らない顔ばかり
が歩いている ひとりひとり咎めるように覗
いてゆく 歩いているのは影だった 影が立
ち上がり体を従えている
時の流れが薄く重なり合っているようだ。そして、今の自分が奈辺にいるのかを問いなおす場に来てしまっている。黄昏にはそういう場が潜んでいるのだろう。
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