瀬崎祐の本棚

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詩集「地上で起きた出来事はぜんぶここからみている」  河野聡子  (2017/07)  いぬのせなか座

2017-08-22 17:00:09 | 詩集
 正方形の判型。横組みで白い紙に黒の印字、あるいは黒い紙に白い印字、そこに赤色と黒色(黒色頁では白色)の線形、矩形の文様が全頁にわたって施されている。
 「いぬのせなか座/座談会5」という28頁の小冊子が挟み込まれている。そこでは「詩(集)にとってデザイン/レイアウトとは何か?」などといった討議がなされている。

 作品は4つの章に分けられている。2つめの章「代替エネルギー推進デモ」は舞台パフォーマンスの台本のような趣もある。ここでは「蒸気電話」「太陽熱アイロン」「セーターを編む」などといった41の物質や動作についての説明が列記されている。

 そして、他の章のどの作品も舞台上の役者が台詞として提示してきているかのような印象を与える。他者に扮した者がわざと作り物めかして世界を取り出してきているようなのだ。
 たとえば「マンダリン・コスモロジー」では、「タンジェリンと名付けた父親を打ちあげ」る、まるで花火のように。「母はマンダリンと名付けられとうの昔に水の底にい」るのだ。

   葉を落としたニセアカシアの列の終わりから三番目に
   黄色い実をつけた樹が一本だけ立っている
   どこにいてもユズはそんなふうにみえた
   きっとそんなふうだったから、じゃあまた。さようなら。
   と立ち去って
   救いに出かけたのだと思う

 このとりとめもない広がり方はどうだろう。とても軽い感じがするのは制約しようとするものから自由なためであるだろう。限られた空間である舞台が想像力によって無限大の広さをもつように、ここにあるわざとらしさが、かえって堅苦しい制約を取り払っているようなのだ。

 地上で起きた出来事をみている”ここ”とはどこなのだろうか。そしてみている者は誰なのだろうか。この詩集では意味を追うことは、あまり意味を持たないだろう。見かけ上の意味は世界を広げるための道具でしかない。

   ダンボール箱にたくさんの小さな惑星がカモフラージュされ隠
   されている。吊り上げ、組み立て、穴に入れる。この地上には
   ほんの少し似たような生き物がいる。それだけを頼りに生きの
   びる。コールを待っている。ひとりではない
                      (「ブルーブック」より最終部分)

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