瀬崎祐の本棚

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詩集「つらつら椿」  清岳こう  (2017/07)  土曜美術社出版販売

2017-08-13 13:55:00 | 詩集
 94頁に34編を収める。作者の故郷である熊本に咲いていた肥後椿を題材にした詩集で、29編のタイトルは肥後椿の品種名とのこと。

 懐かしい幼い日には、日本史の山田先生がいて、反骨の先輩がいて、家庭科のつばき先生がいて。
 「天津乙女」は農地解放のあおりで遠い国へ移住した一家を詩っている。無人になった屋敷は次第に朽ち果てていき、残された天津乙女の大木が今でも花を咲かせるのだ。

   和子ちゃんは
   時々「赤とんぼ」を歌ったりするだろう
   兎や小鮒がいなくなってしまったことも知らないで
   「ふるさと」も歌うだろう

仙台に暮らす作者はあの東日本大震災に直面した。そして今度はかっての日を暮らした熊本が大地震にみまわれた。作者が描くかっての日の生き生きとした熊本は、その災害から立ち直っていく力強さと重なっているのだろう。

 「月下美人」は人情話のような内容。若者がみそめてやって来たはずの花嫁は、実は美人の妹ではなく身代わりの姉だった。「花嫁は それでも月下美人を押しとおし/若者も それでは月下美人ということにして」それからも暮らしたのだ。姉妹のそれからの人生はどうだったのか。戦争もあり、家のたたずまいも変わり、

   椿風の吹きこむ法事のあいま
   月下美人の笑い話が語られるばかり

 この詩集は3章に分かれているのだが、各章の始めと終わりには椿を詩った万葉集の歌が引用された作品を載せている。そこには、万葉の時代から咲き続けてきた椿の花によってもたらされる時の流れへの思いがある。その長大な時の流れの中に、作者が生きた時代が埋め込まれていている。
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詩集「ふろしき讃歌」  星野元一  (2017/07)  蝸牛舎

2017-08-10 19:00:07 | 詩集
 個人誌「蝸牛」を熱心に発行している作者の第13詩集。90頁に24編を収める。

 「コロコロと」は楽しい作品。ちびれた消しゴムや、大きな握り飯、土のくっついた芋、真新しいボールなどがころがる。それらがころがった頃の日々の情景が、絵巻物のように広がる。

   コロコロと
   鉄の車輪がころがった
   村の空は汽車の煙で見えなくなった
   男も女も煤だらけになって
   トンネルの向こうの
   遠い町の方へ行ってしまった

 このようにこの詩集では、作者が少年期を送った昭和の時代が描かれている。そして、ただ昔を懐かしむだけではなく、その裏返しとしての現代についての批評のようなものが隠されているようだ。それが一層のノスタルジアを感じさせるものとなっている。

 詩集のカバーには作者が愛用したという風呂敷の写真がある。詩集タイトルにもなっている作品「ふろしき讃歌」。ふろしきは弁当を包み、お使いの重箱を包んだ。それどころか、嫁入り道具を包み、ヤミ米も包んでいたのだ。「ふろしきは/夕焼けを包んで」、

   山の裾の
   家々の灯がともって
   子どもたちがカラスに連れられて帰って来た
   ぐるりとお膳が並び
   家族は丸くなって箸を運んだ
   村はふろしきの中で暮れていった

 こうしてかっては生活のいろいろなものを包んでいた風呂敷は、作者の人生も包みこんでいたのだろう。そのふろしきをほどいて、包みこまれていたものを取りだしてきている。
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詩集「そして彼女はいった-風が邪魔した。」 横山黒鍵 (2017/07) モノクローム・プロジェクト

2017-08-05 21:57:14 | 詩集
 第1詩集か。134頁に19編を載せる。
 「岐路」。飛蝗が跳ぶような道で戸惑っているのか、決断をしようとしているのか。

   遠くを見たいものです。ただしい風景の沈む泡泡のなかで、
   同じ質量に閉じこめられた窓際のコップに
   わからないまま揃えられた前髪は戦ぎ
   浮かんでは消え、浮かんでは消え
   草を編んだ苦い汁が手から溢れて、そうしたら黄色い帽子を被ってあなたは
   そこの角を曲がり
   見えなくなってしまうでしょう

 少し長い引用になったが、このように夥しい言葉が差し出されてくる。そのひとつひとつの言葉が担うものはとても軽い。一つところに拘ることのないその軽やかさが、作者の武器といってもいいだろう。
 これをはじめとした作品を読みながら、私(瀬崎)の中では言葉がラップのように唱えられていた。ラップはリズムを持った時間と共に展開される。作者は自分の生を受け止めるためには、その時間を過ごすための言葉が必要だったのだろう。それがかなり抒情的でもあるところが面白い。

 3編は”詩型融合”との断り書きがついていて、短歌+自由詩、あるいは俳句+短歌+自由詩となっている。その一つ「俄か蛇」。俄か雨で蛇の目傘をさすところをベースに置いて作品世界が展開されていく。冒頭に置かれた歌は「ぱらぱらと/俄か雨、ふる/音つたい/胸までの距離を/さぐる 蛇の目」。夢の中で見た蛇は父を招き寄せる、母を招き寄せる。

   ほら銀河の模様を縫い込んだアオザイだよ、母がいつか誂えてくれる、胸に蛇
   が這いのぼりその鱗が私の肌を温める、ちくちくと刺される、いたいよいたい
   よと泣いても母は縫い物をやめない、

 そして蛇の卵の中には妹が入っているのだと思えてくる。私は卵を飲み込み、「ぱらぱらと/俄か蛇、ふる/音つたい/夢までの距離を/さぐる 雨の目」の歌で終わっていく。詩の中に溶けこんでいる短歌の部分はゴチック体で表記され、リズムを支えながら物語を展開させている。見事な蛇譚になっている。
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詩集「華茎水盤」  吉田嘉彦  (2017/07)  思潮社

2017-08-03 17:17:02 | 詩集
 第4詩集か。60頁に15編を載せる。
 比較的短い行分け詩で、具体的で明瞭な意味を持つ言葉をつなぎ合わせているのだが、全体の意味は次第にとりにくくなっていく。
 たとえば「桜」の冒頭は、「昼間 青空を世話している桜/足跡だけの人を追っていくと桜で消えるのを確かめた」といった具合である。何かの暗喩かとも思わせるのだが、そんなこともなくて”桜”はやはり桜なのだろう。単純に意味をとろうとすれば、昼間は青空を背景に咲いていた桜の木のあたりで、夜、人の足跡が途絶えていた、ということなのだろうか。でも、こんな風に解釈をしてしまっては面白くないのだろう。

   私はそこで何かを学んでいるような気がする
   「夜桜にしかできない夜の壊し方がある」とか
   「夜桜が何の限度を試しているかは
   明かされていない」とか
   桜は毎年違うことをしている
   苦しくても それを見つけるまで見つめ続けるのだ

 この訳のわからなさをそのままに楽しむ。すると、読んでいる者にも桜の花びらが舞い散ってくるようになる(のだろう)。

 「チューリップ」では、そのままチューリップの花を詩っている。チューリップは「生死を超えて灯る」し、「秘儀を鍛えて垂直になる」のだ。こういった作品の場合、チューリップから出発してどれだけの広い世界を提示することができるかが、作品にとっては大切なことになるだろう。

   チューリップの外では
   どれ程多くの海を損ねてきたか
   どれ程多くの彗星を失ってきたか
   雛鳥を慈しみきれなかったか
   色素を整えきれずに叫んでいたか

 ただ、どの作品でも提示された世界が作者からあまり離れきれていないようで、それがいささか残念だった。

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