瀬崎祐の本棚

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虚の筏  15号  (2016/03)

2016-03-12 20:59:46 | 「さ行」で始まる詩誌
 詩と音楽の雑誌「洪水」を発行している池田康の詩誌。こちらはA3用紙1枚の裏表を4段にして使用し、小島きみ子や海埜今日子、池田康など8人の詩を載せている。

 「これが実物大の偶然の仕業であれゴムボートは・・・・・・」たなかあきみつ。
 5行を1連として8連からなる行分け詩。タイトルは詩行の第1行からきている。作品には夥しい事物や行為のイメージが溢れている。それらは視覚的に捉えられ、次々に変化する映像のように差し出されてくる。作者の意識が一定のリズムに乗って飛び跳ねているようでもある。意味を捉えるというよりも、それらのイメージの連鎖を楽しむ作品であろう。

   とある老舗ホテルの車寄せの対角線上に投げ出された下肢の
   放置を推奨する破傷風、見えない泥によるその未開封の腫れよう
   おまえは正視できないどころかそれを浚渫できそうもない眼球
   この際標準的術式のスケッチを消しても消し屑は残る
   とりわけ雨模様の午後はこの水槽のガラスの内側で窒息しそう

 作品の終わりの補注では2カ所の引用について記されている。作品の常として、この他にも引用ではないけれどもイメージ形成の契機になったさまざまなものはあるわけだ。それを知るほどに作品は異なる様相を見せる。たとえば、作品にあらわれるキース・ジャレットが弾く「Bye Bye Blackbird」の音色を読み手はそれぞれに想い浮かべるわけだ。そのようにして作者の作品だったものは読み手の作品へ変わっていく。
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いちばん寒い場所  73号  (2016/01)  船橋市

2016-03-10 18:34:15 | 「あ行」で始まる詩誌
 A4版用紙11枚を無造作に束ねた体裁の八木忠栄の個人誌。詩4編、それに長田弘、寺山修司、萩原朔太郎についてのエッセイが収められている。
 ぶっきらぼうなたたずまいなのだが、その内容は重低音が自在に跳ね回っているような迫力に満ちている。表紙には杉浦茂の漫画「雨月物語」があしらわれている。
 「キャベツと爆弾」は13行の作品。うす暗い断崖の町の陰裂にキャベツと爆弾を積み込んだ列車が列車がすべりこむ。この地方はまだ寒く、駅長は母親と泣く赤ん坊を叱っている。意味や理屈を超えて作者に訪れた気持ちを、こうして顕在化させている。それも、がつんという確かさでだ。

   廊下でやかんが煮えくりかえっている
   できたての弁当はいらんかね?
   それでも町の夜は
   明けてくるかしらん。

 「雪雲」。山里から時季はずれの雪雲が見えて、その「みはるかす雲は 人骨を/五、六本呑みこんでいるらしい」のだ。春が来ようとしている浮き立つような、それでいてその浮き立つ気持ちがどこか不穏なような、そんな気分が、あっけらかんと伝わってくる。

   ちいさな木の芽みな バクハツ
   山脈は起きあがって 風は裂ける
   人骨が笑いはじめます

 エッセイ「若き長田弘との接点」は、作者が「現代詩手帳」の編集長をしていたころの逸話から始まる。そして彼の詩集を担当したことなどがあって、昨年、作者は長田弘が選考委員をしている詩歌文学館賞を受賞した。そのお礼状を書いた二日後に長田弘氏は急逝されたのだった。余情のある内容だった。
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詩集「幻花の空」  橋浦洋志  (2016/02)  砂子屋書房

2016-03-06 22:13:44 | 詩集
 122頁に20編の詩と1編の論考が収められている。
 詩集すべてがあの3.11から始まっているようだ。津波は自然災害であるが、原発事故は人的災害であった。それに対する原初的な怒り、恨みがここにはある。
 巻頭の「季語」の途中では、二字熟語、あるいは三字熟語、四字熟語が隙間なく並べられる。例えば、

   安全宣言基準不明汚染全国
   火災密室会議廃棄不能埋立
   破廉恥罪最新技術不良商品
   差別労働身元確認複雑構造

 個々の単語は言い古されたものだが、ここまで密集した塊として表記されると迫力を伴ってくる。それも無機質な人間性を失ったものとして、だ。作者の狙いもそこに在るのだろう。
 残りの19編の詩はすべて1行24字の散文詩で、5行5連からなっている。各連には文字の空いている箇所はなく絨毯のように言葉が敷き詰められている。「杭」からその2連目、

   杭が海岸線に打ち込まれ村に箝口令が敷かれた小川の
   水は月明かりとささやき稲の穂先はひそひそ揺れてあ
   ちことの土が身じろぎし新しい火の神を迎えた村の衛
   兵たちが戸口に立ったその晩静まり返った畑に季節は
   ずれの霜が降りた野菜は萎れ杭が墓標のように並んだ

 巻末には「地震・津波と原発、この相容れぬもの」と題された論考が置かれている。詩集としては異例な構成であり、あえてこの論考を収めることの意味は作者が熟考したところであろう。強い意志を感じる。
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エウメニデスⅢ  49号  (2015/12)  長野

2016-03-03 21:52:29 | 「あ行」で始まる詩誌
 「あなたと傘のしたで」高塚謙太郎。
 粘り着いてくるような会話体の言葉が、次第に折り重なって、奇妙な現実を現出させている。提示されているのは、そこにあるように見えながら、絵空事なのだ。そして魅せられるのは、そのような絵空事でありながら確かな肌触りを持っているところだ。

   あなたの傘のはじいた水だから
   わたしの存在も浮かんでゆれるでしょう
   きれいなままのあなたのこじらせた
   ものわすれをぬぐいさってしまいたい
   人のうえにしたことを見なさい

 「傘鳴ればいい。」海埜今日子。
 こちらも”傘”。海埜独特の平仮名表記が言葉の意味をかさねてくる(タイトルでは親切に漢字表記にしてくれている)。”やむ”、”ひらく”、”たたむ”と、雨や傘を表現しているはずの言葉が巧みに話者の意識を押し広げて、話者そのものの表現にかさなってくる。たとえば「ほねが、いっぽん、たりません。」と、傘はいつしか自らの肉体に変容するのだ。

   としをへだてた、ほねをひらこう。たりませんか、声の、空だ。
   てとてを、とりあい、ふったあめです。ほんとうに、かたまってよ。
   ゆきかう、かさなりません。かしら。すぼめた、かさに、はいろうとおもう。

 本誌は2015年はシュルレアリスムについての論考を連載していた。それに関連して、漆原正雄は「シュルレアリスム日記」という作品を書きつないでいた。日記の体裁を取って断章がつづられているのだが、抑制をとかれた想念が自由にかたちを変えて浮かび上がっており、楽しいものだった。

   某月某日
   (めまい製造所のある太陽のかたわらで、僕たちは、まだ、恋愛をしている。)
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雨期  66号  (2016/02)  埼玉 

2016-03-01 18:54:12 | 「あ行」で始まる詩誌
 「根も葉も」唐作桂子。
 根も葉もなくふらふらとたっている、といった自虐的ともとれる独白で始まる。”根も葉もない”といえばなんの根拠もないことになるが、言い回しとしての言葉の綾を実体と重ね合わせて作品が展開される。軽い語り口の中で自分の存在の根拠を問い直しているようだ。

   黄色くなりどす青くなり
   ふれるふれる
   中肉中背の肩に
   虫が喰っている

「ねじ式」谷合吉重。
 「ガロ」で同名のつげ義春の漫画を読んだときは驚愕した。こんなにすごい漫画があるのかと思った。この作品のぼくは、腕の血管にねじを取りつけるというねじ式の行事に参加している。突飛でもない戯画的光景なのだが、どこか悲劇的な集会でもあるような雰囲気を伝えてくる。

   ぼくらはもみくちゃになり
   しびれは激しさを増し
   ねじからの出血が
   はじまっていたのだ

 「塀のある家」須永紀子。
 その家には入るものを規制する鉄製のポストがあり、影に支配された庭がある。異界の者が住んでいるようで、「ポストから紙束を引き抜くと/塀が崩れはじめる」のだ。腐った木が抜かれたあとの穴もあり、まるでそれは話者そのもののように思えてくる。

   少し大きくなった穴を
   身のうちに抱えて
   苦役の重さが
   わたしの歩行に加わる

 後半のアンケートでは、同人6人が「わたしの東京」というタイトルでの文章を寄せている。それぞれの思い出の中の東京や、小説の舞台の東京について、それぞれの物語があり、楽しい企画であった。
須永紀子の「短編通信41」には6冊の書籍の簡潔な評文が載っている。そこで紹介されていたアンドレイ・タルコフスキー著「ホフマニアーナ」には強く惹かれた。すぐに丸善へネット注文した。情報を感謝、である。
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