詩誌「SPACE」を精力的に編集発行し、最近はエッセイ集を出していた著者の詩集で、21編を収める。
作品は、日常生活の事物からふうわりと浮かび上がっている。理屈に束縛されない想念が自由に広がっている。しかし、あくまでも踏み切った地点が日常にあるので、浮遊しながらも現実感を伴っている。
作品「ほら」では「生きている息と/死んでいる息の/違いがわからない」という。それに、おんなは次のようなことを平気でいったりする。
きのう
右の眼球と左の眼球を入れ替えました
先生はそんなことなんの意味もないとひどく怒りながら手術をしてくれましたが
ほんとうはわたし
両方とも右の眼球にしたかったんです
だって
右の眼球のほうが世界を正しく受けとっているような気がしているんです
ここでは話者が向き合っている世界と、話者が向き合っているきみと、きみが向き合っている世界が絡みあって提示されている。きみの世界にも向き合ってしまうことで、ぼくは「死ぬことのない無理心中」へ”ほら”と突き進んでしまうのだろう。
作品「わたしは」では、「わたしは内乱である」とはじまり、「わたしは記憶である」となり、ついに「わたしはひもである」との認識に至る。しかも「わたしはなにも結ばない/ただ振動するだけのひもである」のだ。世界との結びつきを確かめようとしながら実感できない不安感があるようだ。最終連は、
だから
ひとりで立っていようとするが
ひとりとはどういう状態なのか
混乱してはいけないと思いながら
混乱している
作品は、日常生活の事物からふうわりと浮かび上がっている。理屈に束縛されない想念が自由に広がっている。しかし、あくまでも踏み切った地点が日常にあるので、浮遊しながらも現実感を伴っている。
作品「ほら」では「生きている息と/死んでいる息の/違いがわからない」という。それに、おんなは次のようなことを平気でいったりする。
きのう
右の眼球と左の眼球を入れ替えました
先生はそんなことなんの意味もないとひどく怒りながら手術をしてくれましたが
ほんとうはわたし
両方とも右の眼球にしたかったんです
だって
右の眼球のほうが世界を正しく受けとっているような気がしているんです
ここでは話者が向き合っている世界と、話者が向き合っているきみと、きみが向き合っている世界が絡みあって提示されている。きみの世界にも向き合ってしまうことで、ぼくは「死ぬことのない無理心中」へ”ほら”と突き進んでしまうのだろう。
作品「わたしは」では、「わたしは内乱である」とはじまり、「わたしは記憶である」となり、ついに「わたしはひもである」との認識に至る。しかも「わたしはなにも結ばない/ただ振動するだけのひもである」のだ。世界との結びつきを確かめようとしながら実感できない不安感があるようだ。最終連は、
だから
ひとりで立っていようとするが
ひとりとはどういう状態なのか
混乱してはいけないと思いながら
混乱している