これはなんとも読んでいて身につまされる詩集。108頁に、アルツハイマー型認知症となった母との日々を綴った23編の散文詩を収める。
暴君だった父が亡くなったあとに北海道でひとりで暮らしていた母に変化が現れ、東京へ引き取り同居生活をはじめて5年が経っているようだ。 母との生活の日々に、「ぼくの歳月と引き換えに母の毎日があるのではないかと」と思い、自分のことを雑草の生えたプランターに思えるという。その日々は時間を失って時計は意味をなさなくなっているし、朝になると書斎のぼくの屑物入れには黄色い水が溜まるようになっている。
母の脳にはもう響く心がなく少年のぼくが雨の音を聞きながら窓の
外を見ていたことも父に対して見て見ぬふりばかりしてきたじぶん
自身のこともすっかり忘れてゴミを捨てにいっただけのぼくにも日
が沈んで勤めから帰ってきたぼくにも壊れた時計のような母はいつ
もきまって早かったねと言う
(「母といて**」より)
もちろん母が悪いわけではない。母に罪があるわけではない。それでも、母のことを”雑草”のようだと思ってしまうぼくがいて、母の心を”廃墟”だと考えてしまうぼくがいる。母のことを詩いながら、ここには母を見つめている自分自身が詩われている。
私事になるが、私(瀬崎)の母も父が亡くなったあとに離れた地でひとり暮らしをしていて次第に言動がおかしくなった。引き取った母と一緒に暮らした日々は、私の場合は3年間だった。
あとがきには、北海道にあったかっての我が家を訪ねていた旅路のことが記されている。今の母との日々を思うとき、遙かに遠いけれどもほろ苦く懐かしい記憶なのだろう。
最後に「いまの母の毎日は、この詩集に載せたどの詩よりも、症状が進んでいる」とある。感想の言葉など無力だろう。付け加えることは、何もない。
暴君だった父が亡くなったあとに北海道でひとりで暮らしていた母に変化が現れ、東京へ引き取り同居生活をはじめて5年が経っているようだ。 母との生活の日々に、「ぼくの歳月と引き換えに母の毎日があるのではないかと」と思い、自分のことを雑草の生えたプランターに思えるという。その日々は時間を失って時計は意味をなさなくなっているし、朝になると書斎のぼくの屑物入れには黄色い水が溜まるようになっている。
母の脳にはもう響く心がなく少年のぼくが雨の音を聞きながら窓の
外を見ていたことも父に対して見て見ぬふりばかりしてきたじぶん
自身のこともすっかり忘れてゴミを捨てにいっただけのぼくにも日
が沈んで勤めから帰ってきたぼくにも壊れた時計のような母はいつ
もきまって早かったねと言う
(「母といて**」より)
もちろん母が悪いわけではない。母に罪があるわけではない。それでも、母のことを”雑草”のようだと思ってしまうぼくがいて、母の心を”廃墟”だと考えてしまうぼくがいる。母のことを詩いながら、ここには母を見つめている自分自身が詩われている。
私事になるが、私(瀬崎)の母も父が亡くなったあとに離れた地でひとり暮らしをしていて次第に言動がおかしくなった。引き取った母と一緒に暮らした日々は、私の場合は3年間だった。
あとがきには、北海道にあったかっての我が家を訪ねていた旅路のことが記されている。今の母との日々を思うとき、遙かに遠いけれどもほろ苦く懐かしい記憶なのだろう。
最後に「いまの母の毎日は、この詩集に載せたどの詩よりも、症状が進んでいる」とある。感想の言葉など無力だろう。付け加えることは、何もない。