瀬崎祐の本棚

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詩集「廻るときを」  川中子義勝  (2011/10)  土曜美術社出版販売

2011-10-17 10:22:22 | 詩集
 第5詩集。94頁に22編を収める。
 こんなことを書くとご本人は苦笑されるだろうが、川中子の詩集をよむとき、思わず居ずまいを正してしまう。なにか、怠惰に読んではいけないような清廉さがそこにはある。
 この清廉さがどこから来るのかといえば、著者個人を離れた普遍的な問題を(それは往々にして辛い問題点であるのだが)自分に与えられた命題として受けとめていることにあるような気がする。たとえば、「難民の少女」は、「1 ユディット」では歴史上にくり返された戦禍を詩い、「2 エステル」では今日の世界で起きている戦禍を詩っている。

   肉が生じ 骨が立ち上がるために
   どうか一旦滅ぼしてください
   まずは わたくしの国を

   それからどうぞ慈しんでください
   わたくしの言葉を
   あなたの言葉のうちに
                  (「難民の少女 2 エステル」最終部分)

世界の離れた時点で、あるいは離れた地域でのことなのだが他人事ではなく、自分事なのだ。それは人類であるがために課せられる命題であるから、時を超えて著者の心へ押し寄せてくる。だから、著者の作品は基本的には祈りの言葉なのだろうと思う(私(瀬崎)は信仰とは無縁なので、敬虔なクリスチャンである著者の信仰心がどのように作品に関わっているかについては言及できない)。

   風琴(オルガン)が幾千年の調べを想い起こすとき
   裂かれた傷 埋められた嘆きもまた甦り
   砕かれた骨の祈りをふたたび輝かせる
                   (「ときの象り 1 廻(めぐ)る時を」より)

 やはり居ずまいを正してしまう。
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詩集「青い冬の空」  吉田隶平  (2011/09)  花神社

2011-10-15 10:37:45 | 詩集
 第5詩集か。135頁に58編を収める。
 微風の中でかすかに動くような感情を大切に書きとめている。それは真剣に自分と向かい合っていなければ見過ごしてしまうようなものだ。自分の感性への思いやりがあるとでも言ったらいいのだろうか。私(瀬崎)も見習わなければ、と思ってしまう。
 たとえば「帰る」は夕日の中を飛び去っていく鳥を詩った短い作品。鳥は「塒(ねぐら)へ」「密かなところへ」「安らぐところへ」帰るのだろうかと思い、その最終連はふわーっと情感が拡がる。

   帰るのだろうか
   鳥は
   大きな約束へ

 「名前」では記帳の場に遭遇する。そのときに、何故か自分の名前が「取り返しのつかない過ちのように思え」、名前を書こうとする手は抵抗して文字は乱れる。。

   書き直そうかと思ったが
   それを良しとしない自分がいて
   そのままそこを立ち去った
   怒りのような悲しさに
   わたしは危うく転びそうになった
                    (最終部分)

 生きている世界での自分の名前と、生きている自分が存在している感覚のずれ、それがわたしを転ばせようとしたのだろう。その感情を「怒りのような悲しさ」と捉えているところに惹かれる。
 第2部にはお孫さんのことが詩われている。前詩集「風光る日に」に続く無垢な内容である。こういった作品はただ微笑みながら読めばよいのだろうな。
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生き事  7号  (2011/秋)  神奈川

2011-10-13 18:45:40 | 「あ行」で始まる詩誌
 「海町」岩佐なを。
 独白体で語られる270行を超す長い作品。ある時期の回想から始まり、みなが海水に浸りたがる夏の海町が舞台。見えるものや、触れるものについて語っているのだが、一番の関心事はそれらに反応する自分の感覚である。

   腰掛けるとパラフィン紙は
   膨らんでヒトガタに育つ
   合い席するとき挨拶をしないひとたち
   紙としてやってくるので
   それを咎めだてする気にはならない
   ひらりひらり
   むっくりむっくり
   むしろこれも「食卓の縁」なのだから
   乱れずやさしい自分であるべき

 与えられた状況を楽しんでいるとも見えるのだが、そんな自分の足は地についておらず、不安感で揺れ動き続けているようだ。
 やがてものかきになりたかったらしい海町の叔父が登場してくる。死んだその叔父のノートから「ヴェゴル」という動物の鼻声が聞こえ始める。ここからはこのヴェゴルが作品を支配する。それは世界のあらゆるところに蔓延っている植物のようでもあり、臭い匂いを放つ動物のようでもある。ヴェゴルによって世界は汚濁にまみれていくようなのだ。
 その正体や本性が判るはずもなく、とても悪い後味を残しながら(といっても決して貶しているわけではありません)、作品は私(瀬崎)の目の前から去っていった。
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詩集「あなたの前に」  林嗣夫  (2011/09)  ふたば工房

2011-10-11 00:02:22 | 詩集
 125頁に25編が収められている。
 大部分の作品を詩誌「兆」発表時に読んではいたのだが、こうしてとおして読んでみると、柔らかくあたりを包んでしまうような感覚が満ちていることにあらためて気づく。
 林の作品は、目に見える具体的な事象からはじまり、なんの段差もなくいつの間にか、物事の普遍的な部分へ流れついていく。ただそれがあまりにも静かにおこなわれるので、それと意識することもなく高みへ昇っているのだ。
 「油膜のきらめき」では、言葉を持った一匹の虫のことを夢想している。コブシの木には大量の虫が発生し、木の近くに置いた水瓶の中にも落ちていく。そして水面にうっすらと油膜を残すのだ。言葉を持った虫がいたら枝から落ちるときになにを見るだろうかと思っている。そして、

   その虫が水瓶の中に落ち
   やがてからだが解体し
   言葉だけが残ったとしたら
   水の底から
   水面の美しい油膜のきらめきを
   見上げることもあるのだろうか
                   (最終連)

 「方法」「朝、病院で」「詩集のあとで」「枯野」「花」については詩誌発表時に感想を書いている。
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詩集「繭の家」  北原千代  (2011/09)  思潮社

2011-10-08 21:48:09 | 詩集
 94頁に22編を収める。表紙カバーに使われている写真は新井豊美のもの。
 無邪気な柔らかい笑顔の陰に、なにかしらの邪悪な心を滲ませている、ある種の童話にはそんな魅力がある。北原の作品も、静かな美しい童話のような語り口の陰に何かしらの恐ろしさを孕んでいる。
 たとえば「鍵穴」。しろがねのキイは「破壊をもたらすかもしれない」ことを知りながらも、鍵穴に差し込むのだ。すると、「奥のほうで やわらかに/くずおれるものがあった」のだ。そして、扉を開けてしまった以上は階段をころがりおちなければならないわけだ。

   孔雀のえりあしに うでをからませる
   なつかしく はじめての匂いを嗅ぎながら
   あおむけに 咲いてしまうかもしれないとおもう
                            (最終連)

 この唐突に咲くものは何だろうか。無謀と知りながらの行為がもたらすものを、何故かそのままに受け入れてしまう不気味さが、ここにはある。
 また「ひとさし指で鎖骨を さすりあげる」とはじまる「鎖骨」。その骨は「みずうみの/縁のように湾曲している」という。曲線を有する人体を描いて、ここには上品な装いをしたエロスがある。エロスにはなにがしかの不気味なものがまとわりついている。それは容易に感じられる。次の詩行の妖しく魅力的なことはどうだろう。

   みちみちてくる水の
   ひとしずくもこぼすまい
   聖い宮であれと つくられたとおり
   どうか触れてください
   岸辺から 湖心へと

 大好きな「葦の川を」「薬草園」「舌」などについては詩誌発表時に感想を書いている。また表題作「繭の家」は拙個人誌「風都市」に寄稿してもらった作品である。
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