京都弁で書かれたとにかく楽しい詩集。ソフト・カバーの88頁で30編を収める。
なにげない日常生活の中の情景が切り取られて作品となる、それも油彩のような大層なものではなく、淡彩水彩でさらっと描いた戯画にも似た趣の作品である。そこで京都弁が生き生きとした筆遣いを残すように効果的だ。
家の外ではコンピューターの合成音声がいろいろな場面でていねいに注意をしてくれる。一方、家の中では「連れ合いのぞんざいな小言」を聞かされつづけて、筋肉痛がブリ返しそうになるほど。
あーあ どうしたもんやろな
そんなとき ほっこりするのは
姿の見えん若い女の声だけや
「ただいま お風呂がわきました」
ああ ありがとさん ありがとさん (「ありがとさん」最終連)
この最後の一行で、おもわず苦笑してしまうではないか。この巧みに生み出される「ほっこり感」がこの詩集の真骨頂であろう。「後書」の著者の一言、「よろしゅうに」が効いているなあ。
なにげない日常生活の中の情景が切り取られて作品となる、それも油彩のような大層なものではなく、淡彩水彩でさらっと描いた戯画にも似た趣の作品である。そこで京都弁が生き生きとした筆遣いを残すように効果的だ。
家の外ではコンピューターの合成音声がいろいろな場面でていねいに注意をしてくれる。一方、家の中では「連れ合いのぞんざいな小言」を聞かされつづけて、筋肉痛がブリ返しそうになるほど。
あーあ どうしたもんやろな
そんなとき ほっこりするのは
姿の見えん若い女の声だけや
「ただいま お風呂がわきました」
ああ ありがとさん ありがとさん (「ありがとさん」最終連)
この最後の一行で、おもわず苦笑してしまうではないか。この巧みに生み出される「ほっこり感」がこの詩集の真骨頂であろう。「後書」の著者の一言、「よろしゅうに」が効いているなあ。