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「齋藤恵子詩集」 斎藤恵子 (2021/03) 思潮社

2021-08-13 17:47:36 | 詩集
2004年から昨年までの17年間の6冊の詩集を俯瞰するものとなっている。

第1詩集は2004年の「樹間」。作品は作者の身近にあるもの、たとえば配水管やかぼちゃ、烏賊などを題材としてはいる。しかし、このころに作者は「私は台所詩人にはなりたくない」と言っていたことがある。今となれば作者を”台所詩人”とは誰も思いもしないわけだが、詩人としての出発の時点から作者にあったこの意識が、作品をこの世界のしがらみからすっと浮遊させていたのだろう。

2年後の第2詩集「夕区」。現実世界に寄りかかる部分が少なくなり、それだけ寓意性の高い作品が多くなってきている。一読するとこちら側の世界のことを詩っているようなのだが、実は微妙にねじれた世界が展開されている。今に続く作者らしさが現れ始めている。

第3詩集「無月となのはな」は作者が独自の世界を確立した詩集だと考えている。静かな心地よい内在的なリズムを持ち、そのリズムの美しさとは裏腹に言葉の意味は感覚をそっと逆なでする。その感覚は、作者の視線がふっと自分を離れるところからきている。
たとえば、「交叉」では「路が交叉すると/風をよぶ」とはじまる。やがて、「路べりの石が/雨を呼ぶと/交叉の路は/風を裂くのを止める」と、交叉によって裂かれていたのは自分の気持ちなのだと読みとれる。そして最終連では、

   異種鳴き交わし
   の音色
   交叉はほどけ
   日が暮れる

   とおくで
   犬がほえている

ここでもふっと視線は物語を跳び越えていく。作者はいつもすでに決められた状況の中に置かれていて、そこには周りを受け入れている諦観のようなものがあり、それは寂寥感にも通じていく。

この詩集では民族的、土着的な物語風の設定がおもしろいという感想をよく目にした。たとえば「無月」などでは、たしかにそういったもので構築されている約束事の中に彷徨いこんだ状況が詩われている。そこでそんな世界と自分の関係の在り方をさぐっている。この作品で印象的な「舞わしんさるか」と尋ねてくる人々は、その世界の住人として私を認めるための踏み石を突きつけているわけだ。はじめは頑なに拒絶していたのに、ついに「舞わします」と不思議な約束事の世界を受け入れようとしている淋しさがあった。

第4詩集「海と夜祭」では、説明されない物事の輪郭の曖昧さが独特の情感を紡いでいた。そこには「どこからか聴こえる」笑い声や(「坂みち」)、ちろちろとする水音(「水」)、「しぶきになって頬を打」つ笑い声(「小舟の女」)と、見えないもので世界が閉じられていく。外はひえてきて(「渦巻くもの」)「笑いながら死んでいったものたちが/底に折りかさなっている」のだ(「機織」)。こうした怖れは、見えないものを見てしまう不安、存在してはいけないものを存在させてしまう不安から生じている。

一番好きな作品「夏の家」も、妙に不安定で、どこからともなく妖しくなってくる雰囲気を漂わせている。始めの2連では主語が不在のままに「ねつを帯び」たり「ふくれ」たりするし、やがては「粘えきをだし」たりもする。もちろん「夏の家」がそういうものなのだろうが、感覚をわずかにずらせる漢字・仮名使いとも相まって、不安定なのだ。3連からやっと「ひと」や「子」といった主語が提示されるが、すでに生命は「夏の家」に吸い取られた後であり、影ばかりがやけに長いような印象となる。終連は

   家家の下には
   さらさら川がながれ
   ふるい耳わのようなものをあらっている

やはりここでも耳わを洗っている主体は不在である。作者自身ももうどこにも居ないようなのだ。

斎藤作品ではオノマトペも効果的に使われている。例えば第5詩集「夜を叩く人」からでは、「夜を走る子」は「けおけお」と泣くような声を出し、「夕下風」のなかでは「にしにし」と痛みがからだにまわっている。それらの音の感覚もどこか不気味である。こうして、この詩集のどの作品でも、描かれた世界はなにか邪悪な意志を持って話者を取り囲みはじめている。その邪悪な意志は、話者が書くことによってはじめて露わになってくるものであり、そのような世界をさしだされてしまった読者の周りにも漂い始めるのだ。

第6詩集「熾火をむなうちにしずめ」については、昨年にここで感想を書いたので省略する。
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