164頁に38編を載せる。すべての作品は見開き2頁に収まる長さの散文詩である。
冒頭の「楽園」は、不治の病にある私が深い眠りから目覚めたときにいる南の島の話である。それは夢などではなく、
たとえば、瀕死の病床にあって、薄明の時間を過ごす者
にとっては、そうではない。それは、直接の、そして、
切実な現実である。
夢をみている私と、夢の中にいる私がいるのだが、次第にその二人の私の区別は薄くなっていき、ついには夢と現が反転したりするのだ。それは詩を書いている自分と、その作品の中にいる自分が、いつしか見分けがつかなくなるようなことだろう。
このように、作者はこの詩集の作品で、人がこれまで生きて来たことの意味、そしてこれから死んでいく意味を考えている。それは我が身の一生を問い直すことでもある。それを時間軸に沿って横から眺めればそれなりにいろいろなこともあったのだろうが、振り返ってその時間軸を正面からみつめれば、それらは重なりあって何の見分けもつかなくなる。人の人生はそういうものなのだろう。それを虚しいと捉えるか、それで好いのだと捉えるか。誰もがいつかは向きあう問いかけの中に在ることを、この詩集の作品は不思議なリアリティと共に感じさせる。
「夜の卵」は、最後の時になって代えようのない人生がのしかかってくるような作品。蒸し暑い深夜に台所の椅子に座っている年老いた男のかたわらの卓子の上に、白い卵が二つ載っている。そして「彼のからだからは、首が失われている」のだ。
かたわらの卓子の上に、白い卵が二つ、載っている。
その卵の白さが、異様に、はっきりしている。首のない
男だけが、それを感じている。
これは「死に間近く生きる年老いた男によく訪れる、ありふれた虚無のできごと」だという。この情景さえも受け入れた諦観の中に、作者は、ただ在る。そういうことなのだろう。「月明」では、ちぎれた首が左肩のあたりに浮いている男が登場している。
どの作品の情景もしっかりと見えているのに、近づこうとすると霞んでしまって触れることができない。その感触がすばらしく面白い。死は人間のどのあたりにあるのだろうかと思ったりもする。もしかすれば、はじめから生などというものはなくて、すべては死んだ人がみている夢なのかもしれない。
「犬の一生」、「天使」、「象のはなし」、「晩年」、「馬と絶望」については詩誌「森羅」での発表時に簡単な紹介記事を書いた。
冒頭の「楽園」は、不治の病にある私が深い眠りから目覚めたときにいる南の島の話である。それは夢などではなく、
たとえば、瀕死の病床にあって、薄明の時間を過ごす者
にとっては、そうではない。それは、直接の、そして、
切実な現実である。
夢をみている私と、夢の中にいる私がいるのだが、次第にその二人の私の区別は薄くなっていき、ついには夢と現が反転したりするのだ。それは詩を書いている自分と、その作品の中にいる自分が、いつしか見分けがつかなくなるようなことだろう。
このように、作者はこの詩集の作品で、人がこれまで生きて来たことの意味、そしてこれから死んでいく意味を考えている。それは我が身の一生を問い直すことでもある。それを時間軸に沿って横から眺めればそれなりにいろいろなこともあったのだろうが、振り返ってその時間軸を正面からみつめれば、それらは重なりあって何の見分けもつかなくなる。人の人生はそういうものなのだろう。それを虚しいと捉えるか、それで好いのだと捉えるか。誰もがいつかは向きあう問いかけの中に在ることを、この詩集の作品は不思議なリアリティと共に感じさせる。
「夜の卵」は、最後の時になって代えようのない人生がのしかかってくるような作品。蒸し暑い深夜に台所の椅子に座っている年老いた男のかたわらの卓子の上に、白い卵が二つ載っている。そして「彼のからだからは、首が失われている」のだ。
かたわらの卓子の上に、白い卵が二つ、載っている。
その卵の白さが、異様に、はっきりしている。首のない
男だけが、それを感じている。
これは「死に間近く生きる年老いた男によく訪れる、ありふれた虚無のできごと」だという。この情景さえも受け入れた諦観の中に、作者は、ただ在る。そういうことなのだろう。「月明」では、ちぎれた首が左肩のあたりに浮いている男が登場している。
どの作品の情景もしっかりと見えているのに、近づこうとすると霞んでしまって触れることができない。その感触がすばらしく面白い。死は人間のどのあたりにあるのだろうかと思ったりもする。もしかすれば、はじめから生などというものはなくて、すべては死んだ人がみている夢なのかもしれない。
「犬の一生」、「天使」、「象のはなし」、「晩年」、「馬と絶望」については詩誌「森羅」での発表時に簡単な紹介記事を書いた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます