瀬崎祐の本棚

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詩集「もうあの森へはいかない」 望月遊馬 (2019/07) 思潮社

2019-08-23 17:10:00 | 詩集
 第3詩集。91頁に10編を収める。構成としては、「1.水門へ」の章に「水門へ」他1編、「2.白くぬれた庭に宛てる手紙」の章に6編、「3.水門へⅡ」の章に「水門へⅡ」他1編となっている。美しい構成である。

 「水門へ」は18の断章からなる。それぞれの章で、僕やわたしの目の前に広がった様々な光景が展開される。脈絡がないようなそれらの光景は、断章を読み進めていくうちに、始めはばらばらに散らされていた色彩が重なりあうように、やがて大きな渦を作って流れはじめる。揺れうごく色彩の中であらわれてくるのは、わたし、君、老父、そしてホームズ君である。

   これは幻視か。そうでなければ車掌はお化け屋敷だ。雨は止まない。わたしの
   薬指を雨の指輪がくぐる。合歓の木のしたでの子どもたちの合唱。おまえの蹂
   躙された眸に石匠を埋めてゆく。水門と水門の距離もしくは圧迫感によって支
   配される水門の大きな影。

 少年や少女が孕んでいる美しいけれども儚いものがあらわれては消えていく。留めることのできないものを追いかけることの愉悦と虚しさが、この詩集の記述にはあるようだ。
 少女は「教室のにおいが川のなかをきらきらながされていくのが/かなしい」と思いながら泳いできた君の裸体を見つめるし(「夏の残りをおもう歌」)、そんな「少女ははにかんで/朝に燃える」のだ(「シフォンの歌」)。

 フランス民謡を元にした「もう森へなんか行かない」というシャンソンがあった。フランソワーズ・アルディの気怠く頼りなげな歌声が、どこか不穏なイメージも連れてくる歌だった。あの歌では森には”青春”があったのだが、この詩集でついに詩われることのなかった”あの森”には何があったのだろうか。作者がこの詩集で決別したのは何だったのだろうか。

 「冬にこぼれた婚礼の歌」では、「かって子どもだった男と女の/日差しのような抱擁のむこう」で婚礼がおこなわれる。それは大人へなることの象徴的なことでもあるのだろう。しかしそこには「とうめいな喪がみちている」のだ。

   婚礼は怒りの儀式でもある
   しかし 父や母やわたしが 列にならんで
   花婿を迎え入れるときに
   死者の幾人かが とおりすぎてゆく 神父のよこを

 勝手にイメージを膨らませている、あの森の中に四季は巡り、少年や少女に死が忍び寄ってくるのだろう、と。

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