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詩集「駅に着くとサーラの木があった」 以倉紘平 (2017/12) 編集工房ノア

2018-03-13 23:10:08 | 詩集
 正方形の判型で、表紙カバーには伊藤尚子の深夜の終着駅を描いたようなモノクロのエッチング(か?)。佇んでいる少年の後ろ姿が見知らぬ土地での不安と期待を思わせている。
 157頁で、5つの詩集から、表紙絵からもわかるように乗り物に関係した作品48編を集めた選詩集。

 「父親の帰宅」。この作品は以前にどこかで読んで強く印象に残っていた作品。大学生となった息子が家を出ていくのを話者は見送っている。そして36年前の自分を駅まで見送りに来てくれた父親を思い出している。旅立つ者は見送る人のことなど実はこれほども気にしていない。見送る立場になって話者もその事に気づく。そしてあの時大阪駅に残してきた父親のことを思うのだ。想像の中の父親は、

   プラットホームの父親は、ようやく背を向けて歩きだし
   た。酒好きの彼は、途中、天王寺辺りで一杯やったのか
   どうか。(略)出迎えた母親に、無口な父は、息子の出
   立を、ごく簡単に報じたにちがいない。三十六年たって、
   やっとわが家に帰りついた彼のことを、私は親しく思い
   出すようになっている。

 父親は私が思うことによって、はじめて見送りを終えることができたのだ。なんとも情があふれた好い作品だと思う。

 そして、もうひとつ、「婚礼の朝」という父を描いた作品もある。話者の結婚式の日のことなので、先ほどの作品からは年月が経っている。父は身体も不自由になり、精神状態も現(うつつ)ではなかったようだ。そんな父が「残念だが、結婚式には行けぬ。そのかわりこれをやる」と言って、古い戦時下の定期券をくれたのだ。その定期券は自分が誕生したころに父が使っていたものではないかと話者は想像するのだ。

   混濁をおこしていた父の頭では、もはやその<メモリア
   ル>の正確ないわれは忘れ去られていた。しかし、父は、
   婚礼の朝に、息子の名を呼び、自由を奪われた身体で、
   それを彼に差し出したのだ。

 おそらくは理性などとは無縁な次元で、父性が本能的に発露したのだろう。大学入学で家を出る時、結婚して家を去る時、それぞれに巣立つ時の息子に対する父親の姿に、何か切ないものを感じてしまう。
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