桑の海 光る雲

桑の海の旅行記・エッセー・書作品と旅の写真

シルクロード・その10

2005-02-12 15:58:10 | 旅行記
前日の昼に、陽関行きの話が出た時は正直言って驚いた。陽関は名前では知っていたが、敦煌から日帰りで出かけられるような場所だとは思っていなかったからである。だから、3,000円はちょっと高いと思ったが、すぐに参加を申し込んだ。参加者も6名ほど集まったので、ツアーは無事に催行となった。

渭城の朝雨軽塵をうるほし 客舎青々柳色新たなり 君に勧む更に尽くせ一杯の酒 西のかた陽関を出づれば故人無からん

王維の詠んだ「元二の安西に使ひするを送る」という、高校で習った著名な漢詩である。陽関の名はその時から私の脳裏にあった。陽関から西は、知人も全くいない、もっと言えば中国ではないところ、そんな”こちら側”と”向こう側”とを分ける重い意味のある関所が、ここ陽関なのである。また、陽関から北100㎞ほどのところにある玉門関は、その昔、異民族の平定に失敗した李広将軍を、前漢の武帝がそこから中に入れなかったことで知られ、王之渙が「春風度らず玉門関」とその詩にも詠んでいる著名な関所である。聞けば、明日訪れるトルファンから、民族ががらりと変わると聞いている。これからシルクロードの”核心”へと踏み込んでいくきっかけになるいい機会じゃないか、と思いも加わって、出かけてみることにしたのである。

参加者はT夫妻以外は失念してしまったが、T夫人以外は男性ばかり、あとは現地ガイドだったと思う。ガイドのTさんとスルーガイドの女性はホテルに残った。陽関までは小さなマイクロバスだった。運転手を含めるた8人で席は一杯になってしまった。道が悪いとも聞いている。ちょっと心配だったが、道は空いており、スピードもグングン上がっていき、あっという間に敦煌の町を後にして、西へ西へと進んでいった。途中、南側に映画「敦煌」の撮影のために作られた古代の敦煌城を再現した建物が見えてきた。ツアーによってはここに立ち寄るものもあると聞く。それより驚いたのは、あの映画のセットが、ちゃんと敦煌に作られ、そこで撮影されていた、ということであった。また、あちこちに烽火台が見られた。古代の通信手段は烽火であったから、一定の距離ごとに、列をなして作られているのだという。

道路は悪いなんてことはなく、車はすいすい進んでいく。途中、右に行くと玉門関、左に行くと陽関、という標識のある分かれ道を左に取る。町を出てしばらくは砂漠が続いていたが、前方に緑に覆われた集落が見えてきた。ここが、かつて陽関の周りに住んでいた人達が移り住んだオアシスなのだという。小さな集落かと思いきや、大通りを挟んで多くの家があり、バス停にはバスを待つ人が並んでいた。その通りを南にはずれると、目の前にこれまで見たのとは全く違った感じの烽火台が現れた。陽関の烽火台である。しかも、これまで見てきた薄いベージュ色の砂漠と違い、赤茶色の砂が続いているのが遠くからでもわかる。

陽関に到着した。ラクダが何頭もつながれ、鳴沙山同様、ラクダに乗って見て回ることができるようだ。あとはちょっとした建物が2,3軒。お土産店と展示室だという。展示室はしっかり入場料を取られたが、この辺りには古代の遺物が大量に散乱しているので、これらの展示品も皆そうした形で採集されたものだという。貨幣や印章、武器や装身具類などがあった。烽火台は正しくは「土敦(正しくは土偏に敦) 土敦 山(とんとんざん)烽燧」と呼ぶのだそうである。新しく補修したらしいところが見られたが、その崩れた様子など、まさにかつての陽関の姿を偲ばせる場所であると思った。

烽火台の南には、中国の著名な書家が王維の詩を書いて刻んだ石碑が並んでいたが、これはこの烽火台の雰囲気をぶちこわしている感じで、興ざめだった。そこを出て、西の方を眺めてみた。オアシスらしき場所も、ましてや人家らしきものも全く見えない。見えるのは、どこまでも続く荒涼とした砂漠である。現在でさえこんな場所なのであるから、古代はなおのことであろう。王維は陽関へは来たことがないはずだから、書物で見たり、他人から伝え聞いていただけであろうが、まさにこの場所が”こちら側”と”向こう側”とを分ける境目であることを理解した上で、あの詩を詠んでいるのだと思った。そんなことを思いながら、他の場所とは違う赤い砂の上に立って、しばらくたたずんでいた。

莫高窟の時と同じように、心を引かされながら帰途に就いた。莫高窟以上に、もうここへ来ることはないであろうと思われた。車の中から、何度も烽火台を振り返った。莫高窟の大仏殿に比べればずっと小さな烽火台は、あっという間に見えなくなってしまった。

コメント
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