はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

東海道11回目-1

2011-10-04 15:36:45 | ウォーキング
駅からウォーク 「東海道」11回目-1      2011.9.10

関駅 ― 関宿 ― 坂下宿 ― 土山宿 ― 水口宿 ― 水口駅
10:10   10:20    11:55    14:30     17:00     17:10
      0.9k      8.3k    18.7k    32.4k     32.8kk
 
  11回目歩行ルート
  

               坂下宿へ(忍者)
     

関駅 ― 東の追分 ― 一里塚 ― 馬子唄会館 ― 坂下宿
10:10    10:20      11:20     11:45       11:55

 5枚目の青春18切符で、しかも今日は有効期限の最終日でもある。
今年の夏は清々と晴の天気が続く日が少なく、富士登山が延び延びになってしまった。
お陰で街道歩きが遅くなり今日まで延びてしまったが、幸いな事に最終日の今日も晴れたので良しとしよう。

 出発時間が段々遅くなり関駅を出たのが10時過ぎてしまった。
今日の行程の中には難所の鈴鹿峠も控えていて、距離はおおよそ28kmを予想している。
帰りの電車の予定時間は理想は17時20分だが、最終の17時56分には何としても間に合わせなければならない。しかも電車の駅は関を出ると目的地の水口までは無い。ともかく水口駅まで頑張って歩くしかない。今日もせわしない一日になりそうだ。

     
      関宿 東の追分一里塚跡

 前回関宿の東の追分付近にある一里塚を見つける事が出来なかったので、戻って探す事にした。その一里塚跡は伊勢神宮の鳥居から始まる伊勢別街道の入口の石垣の上に石碑が1本立っていた。何のことはないこれが日本橋から106里目の一里塚だった。
折角見事な町並みが残っているのに、その入口にある一里塚は無造作すぎる。空地もあるのだから一里塚を再現して観光客の流れをここまで引張ればいいのに。更に昔風の茶店も作って茶菓子の接待(有料)をすれば繁盛間違いなしだ。(甘すぎるかな)

     
      関宿東側の町並み

 関宿の宿場の町並みは、東海道で唯一「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された町並みで現在でも江戸時代の街並みが保存されている景観は、中々見応えがある。
途中にある銀行は宿場風の外観になっていたり、郵便ポストは「書状集箱」となっていて、ウーンこれは江戸時代というより明治時代かもしれないな。

 途中の商家には馬を繫いだ馬繫ぎの輪があると聞いていたので興味を持っていた。それは西部劇の酒場の前のあるようなものなのか? 中々見つける事が出来ず余計に期待が高まったが。

     
      商家跡の馬繫ぎ輪

現実はこんな物で鉄の輪が一個、柱に付いていただけだった。なんだ~。

 宿場の中心地の四つ角には、山門に本陣の門を移築した寺がある。桑名かどこかで城の門を移築した寺があったが、それより立派な感じがする。
家で写真を見ていると門の横木のまん中に丸い紋のような物が見える。拡大してみると丸の中に蛇の頭が二つあるように見える。まさか蛇ではないだろうが何だったんだろう。しっかり見てくれば良かった。ネットで検索したがそんな物を取り上げているものは無かった。

     
      延命寺の山門

 街道の通りに面した公園は「百六里庭」といい、関宿が江戸から106里目だった事からきている。このように106里目を協調するなら06里目の一里塚も大事にすればよいのになと思いながら公園の建物「眺関亭(ちょうかんてい)」に上がると、そこからは関宿の家並みが一望できた。
通りの奥の大きな屋根は地蔵院の屋根です。

     
      百六里庭・眺関亭から関宿

 郵便局の前には高札場が復元されている。ここまで何ヶ所も復元された高札場を見てきたが、ここの高札場が一番大きいだろう。町がいかに宿場に力を入れているかがわかる。
だからこそ東の追分一里塚のを再建して欲しい(くどい)。

     
      高札場跡

 地蔵院の周辺は観光客でごった返していた。ツアーの団体が添乗員の旗に従って歩いている。境内は露天商のテントで写真も撮れなかった。
ここの地蔵院に安置されている地蔵菩薩は、わが国最古の地蔵菩薩で通称・関のお地蔵さんと呼ばれている。
また「関の地蔵さんに振袖きせて 奈良の大仏むこに取る」の俗謡があるほど名高い関地蔵院だそうです。
でも不思議な事に建物は本堂や鐘楼などは国の重要文化財なのに日本最古の地蔵菩薩が指定されていないのは何故でしょう。


 地蔵院の鐘楼                       地蔵院の扁額

 地蔵院を過ぎると急に静かな通りになり、観光客は誰もいなくなった。だが町並みは地蔵院から東の町並みに決して劣っていない、いやかえって静かなだけ古い街道の雰囲気があるような気がする。
関宿に行った時は少し足を延ばしてみてください。

     
      西側の静かな町並み
 
 宿場の西側にも西の追分があった。ここの追分は東海道と伊賀へとの分岐点で道標には
「ひたりは いかやまと みち」と刻まれている。
いかは伊賀でやまとは奈良のことだから、この追分を左(西)に進めば伊賀や奈良方面に行くのだろう。

     
      西の追分

伊賀といえば甲賀だが、その甲賀はこの追分を直進して東海道を北に進む。だが道標にはそんな文字は刻まれていない。本来なら「みぎ こうかきょう みち」とあっても良さそうなものだが----

     
      大和街道の道標

 伊賀・甲賀といえば忍者を連想し、忍者といえば猿飛佐助や霧隠才蔵を思い出す。そして猿飛佐助は甲賀忍者で霧隠才蔵は伊賀忍者。そのせいか甲賀=善で伊賀は悪、そんなイメージが私の頭の中に出来てしまっている。
他に忍者といえば忍者ハットリ君ならぬ服部半蔵がいる。これは徳川家康に仕えた伊賀忍者ということになっているが、実際は甲冑を着て足軽を率いた武士だったらしい。
有名な松尾芭蕉にも忍者説があるが、これは芭蕉が伊賀出身で身分が百姓にも係わらず姓があったことなどが起因しているらしい。当時伊賀では農家で姓を持つのは庄屋階級だが、忍者では上忍や中忍でも姓を名乗ることが出来たという。
さらに芭蕉の時代は旅は簡単にはできず、各地の関所手形の調達や多額な路銀の準備など、普通の俳匠の立場では不可能な事にも関わらず、芭蕉は数回にわたり旅を行っていた。中でも奥の細道はその行程や日数などにより密偵説が噂されているようだ。

 知ったかぶりはこれ位にしておこう。だが関の宿場は終ってしまったのに肝心の関所跡が無かった。関所があったから関だろうに何故だろう。それに53次の広重の浮世絵も関所を描いたものなのに。
調べて自分の勘違いに気が付いた。先ず浮世絵は関所ではなく本陣を描いたものだった。紋付の幔幕があるのでてっきり関所だと思い込んでいた。
次に関所は古代東海道の三関のひとつ鈴鹿関がここ関にあったようだが場所は不詳らしい。しかしともかく関所はあった事は確かだった。

 すっかり関に時間が掛かってしまった。先を急がないと今日中に家に帰れなくなってしまう。
東海道は旧道に入ったり国道1号線と合流したりしながら北の山に向かって進む。道も少しづつ勾配を持ってきていよいよ鈴鹿の山に入ってきたようだ。
正面に三角形の山が見えるが、ありきたりの山だったので写真も撮らなかった。しかしその山が筆捨山という名所だと看板があった。それによると室町時代の絵師がこの山を写生しようとしたが、天気が変わって山の色が定まらなかった。絵師は諦めて筆を納めたので筆捨山と呼ぶようになったとか。な~んだ。

 国1の向こうに107里目の一里塚の碑が見えたが、わざわざ国道を横断して見る程のものではなかったので写真を1枚写して通過。
東海道のの宿場名を書いた柱を見ながら行くと鈴鹿馬子唄会館があった。

     
      鈴鹿馬子唄会館

今日は土曜日なので東海道を歩いているのだろうか、リュックを背負った人が会館の中に入っていく。私はまだ12時前なので坂下宿までは頑張ろうと素通りをした。

     
      坂下松屋本陣跡

 フーやっと坂下宿に着いた。この坂下宿は宿場らしき面影は皆無で、やけに太い道だけが印象に残った。
正直に言うと私は関宿までの宿場名は聞いた事はあったが、ここからの坂下、土山、水口は始めて聞く宿場名だった。きっと小さな宿場だったのだろうと思いながら案内板を読むと大間違いだった。そこには
「江戸時代には48番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所の鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒を数える東海道有数の宿場なり」と書いてある。
だが現在はその面影は全然無く、普通の民家すら少ない。今までの宿場で一番廃れた感じの宿場だ。その理由も案内場にはあった。「明治23年関西鉄道の開通により通行者が激減したため宿場としての役割を終えた」とあった。
その鉄道だが坂下の近くに出来たなら、これほど寂れなかっただろうが、一番近い駅は関駅で7km近くは離れている。これでは寂れるわけだ。


竹屋本陣跡                         梅屋本陣跡 

ここの本陣の名前が面白い松屋、竹屋、梅屋と松竹梅になっている。本陣のランクもこの通りだったのかな?案内板にはそこまで書いてなかった。


法安寺山門                         法安寺の本陣玄関跡
    
 法安寺の玄関は松屋本陣の屋根が使われているとあったので寄ってみた。寺自体も現在の集落の寺としては貫禄もあり、その玄関もさすが本陣の玄関だと思わせるものがあった。本陣3軒、旅籠48軒は嘘ではないようだ。

     
      名残の石垣

街道に戻り北に向かうと右手に石垣が残っている。この石垣が宿場時代の数少ない名残とあるが、この石垣の上に何があったのだろう。旅籠や茶屋としたらこの太い道は何だろう。この道の両側には旅籠や茶屋が建つスペースは充分ある。
大体この宿場は何故古い建物が1軒も無いのだ。空襲で焼かれたのか、それとも大火でもあったのだろうか。だがそのような事は案内板には書いてなかった。
何とも不思議な宿場だ。


 



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