はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

初歩き:湖北五山初詣2

2017-01-11 17:09:01 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図


  
                         実相寺から井伊谷浄化センターまでの地図
◎道案内3
 ・実相寺の境内を通り御廟の塚の方に出る。更に境内を進むとお稲荷さんやお願い地蔵があり、その先の細い道を左に行く。
 ・墓の北側の下り坂の道を行く。
 ・道なりに進むと井伊谷宮の森や禊橋等が見える見晴らしの良い場所に出る。
  細い分岐はあるがすぐ下の橋を目指して下れば良い。橋は車道の橋でなく細い橋を渡る。
 ・川沿いの井伊谷浄化センターに向かいセンターの入口を右折する。後は田圃の中を道を禊橋を目指して進む。

 
                          井伊谷浄化センターから龍潭寺ままでの地図
◎道案内4
 ・禊橋を渡ったら北西に向かう斜めの小道が龍潭寺への近道。
 ・右に龍潭寺の駐車場があるが左折してうなぎ屋の横の道に入る。
 ・2本目の角を右に曲がり左が田圃の道を進む。正面に牧野医院が見える。
 ・牧野医院の手前を左に折れ、田圃の中の白塀に囲まれた所が井伊家発祥の井戸。
 ・龍潭寺には牧野医院まで戻り、そのまま直進すれば車道に出るので、そこを右に曲がれば左に龍潭寺の細い参道が見える。

  
              あの岩は石灰岩か?                               柿 畑

 実相寺から奥山方広寺の細い遍路道を西に行くと前方が開けた所がある。そこからは井伊谷の里やかって井伊家の山城があった
三岳山が見えている。この広いようで狭い土地が 「井の国」 だったのだろうか。
私はかっては井の国とは浜名湖の北側に位置する、三ケ日、細江、引佐で井の国を構成していると思っていたが、龍潭寺前にある
 「井の国と井伊氏発祥の地」 の案内板には 「ここ遠州井伊谷は古代 「井の国」 と呼ばれていました。」 とある。
となると、井の国とは狭い井伊谷を指しているようだ。

 更に面白い話も見つけた。実相寺に祀られている近藤秀用が元和5年徳川幕府の初期に 「井伊谷藩」 の1万7千国の藩主つまり
大名になっていた。しかし秀用は子供たちに所領を分割して与えたため、格々が1万石を割り込んでしまい、大名でなく旗本になって
しまった。そのため井伊谷藩は消滅して旗本の直轄地になっていた。

 秀用が何故こんな事をしたかは分からないが、近藤家と井伊家の間には反目があったと言われている。
それは女城主直虎に育てられた初代彦根藩主井伊直政は、名将だったが冷徹な一面があり、家臣にわずかな過ちがあっただけで
惨殺することも珍しくなかったと云う。そのため小田原征伐で戦功を挙げた秀用は、直政の横暴から逃れるため、徳川家康に直政の
家臣(陪臣)としてではなく、家康の家臣(直臣)として仕えたいと嘆願した。
しかし井伊直政の妨害に遭い、秀用は一時逃亡して浪人になっていたほどでもあった。
それが関ヶ原の戦い後、井伊直政が戦傷が元で死去すると、家康の直臣として召し出された秀用は順調に出世して井伊家が彦根に
転封された後の井伊谷に領地を賜り、井伊谷藩を設立し藩主にまでなってしまった。
だが、既に大大名になっていた彦根の井伊家に対し恐れを抱いていた秀用は、井伊家と関係が出来そうな大名は捨てて、直参旗本に
なった。と、最後は私の妄想的歴史観は訴える。

  
                                    井伊家発祥の地

 田圃の中に二本の定規筋が引かれた白壁に囲まれている場所があった。どうやらあれが井伊家発祥の地と云われている井戸が
あった場所のようだ。なぜここが井伊家発祥の地かと云うと
 「時は寛弘(かんこう)7年(1010)元旦、八幡神社の宮司が御手洗の井戸の傍らで泣いている男児を見つけた。
子供は高貴な面立ちをしていて貴人の相もしていたため手元で育てていたが、7才の時に遠江国司・藤原共資の養子に出し、子供の
名前を藤原共保と名付けた。成長した共保は井伊谷に館を設け、名字を 「井伊」 と改め “井伊共保” と名乗った。」
その共保が井伊家初代の当主になったのでした。

 この話を聞いたとき最初に感じたのは “高貴な面立ちをした捨て子” とは、井伊谷宮に祀られている後醍醐天皇の皇子・宗良親王の
隠し子かと思い、慌てて年代を調べてみた。だが宗良親王が生まれたのは1311年で、捨て子事件はその300年も後の事だった。
それはそうだ遠州に来た宗長親王は、井伊谷の井伊家に身を寄せたのだから、すでにその時は井伊家は成立していたのだ。

 田圃の中の風情の無い佇まいの発祥の地に近づくと、正面に井伊家の家紋 「彦根橘」 と旗紋 「彦根井筒」 が彫られている。
井伊家がこの家紋を使ったのは、発祥の地の井戸の側に橘が生えていた事に由来するとされている。

 以前東海道を歩いていて袋井に日蓮宗の妙日寺というお寺を見学した事がある。この寺は日蓮宗開祖 日蓮聖人の先祖である、
豪族 貫名(ぬきな)氏の邸宅跡だと伝えられていた。
貫名氏の初代は井伊家六代目当主井伊盛直の三男で、成人して遠江国山名郡貫名郷に所領を得て、初代貫名氏となりました。
日蓮上人は貫名氏四代目の貫名次郎の子供として生まれています。

 何故そんな事を言いだしたかは、井伊家の橘の紋を見たからです。実は日蓮宗の宗門は 「井桁に橘」 で、橘を井桁で囲んだ
この井伊家発祥の地をそのままデザインしたものだと思いだしたからです。


               
          祖霊之地碑                        井伊家発祥碑                     家紋と旗紋

 白塀の中の正面には井伊家の発祥の地を表す 「祖霊之地」 の石碑。その後ろに家紋にもなった橘が植えられている。
その橘の木をよく見るとミカンが生っている。橘って柑橘類だとは知っていたが、こんな大きな実がなるとは知らなかったので
驚いてしまった。

 祖霊之地碑の横には中央に 「井伊氏祖備中守藤原共保出生之井」 、右に 「八幡宮」 、左に 「御手洗」 と彫られた碑がある。
これらの意味ははもうお気づきですよね。藤原とあるのは共保が養子に出されて遠江国司の姓で、左右にあるのは共保が
八幡宮の御手洗の側で拾われたからでしょう。いつ建立された石碑か確認するため裏に回ったが何も彫られていなかった。

         
                   井伊家発祥の井戸                                 井戸の中

 白塀の中の左端にあるのが井伊共保が捨てられていた井戸なのだろう。がっしりと石で井桁に組まれた立派な井戸だ。
最近の物とは思えないが、かと言って千年以上前の井戸とも思えない。
この辺りは井の国で水が豊富な土地だ。若しかして今も水を湛えているかと竹の蓋を動かして井戸の中を見たが、残念空井戸だった。

 6年前に湖北五山を歩いた後で 「女(おなご)にこそあれ次郎法師:梓澤要著」 を読んだ。そこには次郎法師が(直虎)が悩む
たびにこの井戸に訪れ思索に耽ったとあった。その状況からして井戸のある場所は木の生茂った場所と思っていたのだが、来てみれば
この通りの田圃の中にポツンとあるだけ。これが30万石の彦根藩の祖霊之地にしては余りにもお粗末すぎる。きっと彦根藩は祖先の
墓を彦根の龍潭寺に移したので、井伊とは縁を切ったつもりなのだろうと勝手に想像する。

                   
                龍潭寺参道                                龍潭寺山門

 龍潭寺の参道は土産物屋と駐車場に挟まれ狭くなってしまったように見える。昔はこの参道が発祥の井戸まで伸びていたと云うが
龍胆寺は元々八幡宮の境内に建てた寺なので、手水場で身を清め参道を歩いて社にお参りしたと考えれば位置的に問題なさそうだ。

その参道はまだ時間が早いのか初詣の人はいなく、直虎の幟も数本しか建っていない。
NHKで盛んに 「おんな城主 直虎」 を番宣しているが、その割にここには直虎関連の物は少ない。
尤も今では “井伊直虎” の名前も知られるようになったが、放送予定が発表される前は静岡県人否 引佐の住民で直虎を知っていた
人はいただろうか? きっと一般の人は知らなかっただろう。
直虎ブームで井伊の国を訪れる観光客は、静かで素朴な直虎の地を求めて来るのではなく、派手に装いされた施設を求めている人が
大多数だとすると、きっとこの地に来たらがっかりするだろう。そして直虎の視聴率は下がり続ける・・・・・
そんな事にならないよう大河ドラマを見た事のない私も見る事にする。

 
               仁王門への参道                                 仁王門

 「龍潭寺は井伊城南の守り砦の役目を果たしてきた歴史があります。この参道石垣などに小規模ながら城郭造りの跡が残されて
います。」
案内板にあるように石畳と石垣の参道は落ち着いた佇まいをみせていた。

 仁王門は昭和60年代に建てられたのだそうです。

        
                        本 堂                                    開山堂

 6年前に来た時は本堂は改修中で幕が張られてみる事はできなかったが、今はスッキリした姿をみせていた。
この本堂の廊下は左甚五郎作の鴬張りの廊下として有名なのだが本当だろうか。大体龍潭寺が侵入者を恐れて廊下を鴬張りに
しなければならない理由が私には分からない。
 本堂を再建したのは延宝4年(1676)で27代井伊直與の手によるとなっているが、この時は既に井伊家は彦根に移封してから
76年も経っている。井の国は井伊家が憎き裏切者とした近藤家も藩主は返上して旗本となり恭順の意を表していた。
なのに態々名人左甚五郎を連れてきて鴬張りの廊下を造るだろうか、私なら廊下の代わりに竜の彫り物でも依頼するだろう。
大体左甚五郎が逝去したのは1651年頃らしいので、ここを再建した時は既に亡くなっていた筈だ。
私の考えは龍潭寺の鴬張りは老朽化した所為だと思っています。(ご免なさい)

 本堂の裏手には小堀遠州作・龍潭寺庭園(国指定名勝庭園)があるが、拝観時間は9時からなので見る事ができない。
残念ながら見学は次回にしよう。(嘘です。最初から見る積りはありません)

                  
                   青面金剛像                            役行者(多分)

 開山堂の裏手には古い石仏が祀られている。それぞれが趣があるが今日は青面金剛と役行者を紹介します。
青面金剛(しょうめんこんごう)は庚申信仰の本尊として集落の入口で祀られることが多いが、静岡県ではその殆どは 「庚申塔」
とか 「庚申」 と書かれた文字塔が多い。ところが隣の神奈川県ではこの青面金剛像を見る事が多かった。 
写真が小さく見にくいが、一番下には 「見ざる・言わざる・聞かざる」 の三猿を彫られていて、青面金剛の足は邪鬼を踏みつけ
ている。脚の左右には鶏がいて頭上には月と太陽がもある。顔相は忿怒相で手は六臂で二臂は合掌、四臂はそれぞれ宝輪や弓、
矢、剣を持っている。
路地に安置されていながらこれだけハッキリ識別できるのは静岡県では余り見かけない。ただ庚申の文字が無いのは何故かな?

 役行者は頭巾を被り高下駄を履いて左手に経巻を持ち、右手に錫杖を持って座っている姿多いが、正にその通りの格好だ。
ただ錫杖は折れてしまったのか持っていないが、手の恰好を棒を持っている形になっている。
龍胆寺と役行者の関係を調べたら 「宝暦10年(1760) 谷津城山の中腹に役の行者石像が建立された。昭和58年に、これを
地主が龍潭寺へ移す。」
との記述があったが、それ以上の話は見つからなかった。
でもにこやかな笑顔のいいお顔をした役行者さまですよね。

 
                井伊家歴代の墓                                井伊家歴代の墓

 井伊家歴代の墓所の正面には二基の墓があり、向かって右が井伊家初代井伊共保の墓で、左が直虎の父親で22代当主直盛の
墓です。
墓の左に五基ある五輪塔は、左から初代彦根藩主直政。直虎の恋敵でもあった直親夫人。三つめが直虎の許嫁で直政の父親の
直親の墓です。その隣が今回のドラマの主人公の井伊直虎(次郎法師)です。直虎の隣は直虎の母親の直盛夫人です。

 しかし歴代の墓に何故直虎の墓があるのでしょう。ドラマは女城主となっているが井伊家の系譜には直虎の名前はない。
なのに直虎が歴代の墓の中で重要な位置を占めている理由が分からない。世間では知られていなかった直虎だが井伊家では重要な
人物とされていたのだろうか。
それにしても死んでからとは言え許嫁の隣に墓を建ててもらい直虎も満足だろうだろう。

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