はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

藤枝七福神3

2014-01-18 17:37:23 | 寺社遍路
歩行時間:5時間50分   休憩時間:2時間50分   延時間:8時間40分
出発時間:7時55分   到着時間:16時35分
歩  数:  42、394歩   GPS距離:-.-km

行程表(2014-1-12
 藤枝駅 0:25> 志太郡衙跡 0:50> 心岳寺 0:45> 藤枝総合運動場 0:20> 清水寺 0:35> 偏照寺
 0:55> 花倉城跡 0:45> 盤脚院 1:15> 藤枝駅

藤枝七福神と花倉城跡ウォーク観歩記
                             盤脚寺
 折角花倉城跡に来たので、この城が舞台になった「花倉の乱」の事も紹介します。
桶狭間で織田信長勢に斬殺された今川義元は、今川中興の祖と云われる今川氏親の正室・寿桂尼の三男
(今川家としては五男)として駿府で誕生した。
氏親には跡継ぎがいたため4歳で仏門に入り、富士郡(現富士市)の寺に預けられ、教育係の太原雪斎と共に
京都に上り学識を深めた。
氏親が無くなると嫡子氏輝が14歳で家督を相続したが、若年であったため母の寿桂尼が後見人として補佐した。
その事から寿桂尼は「女戦国大名・尼御台」と呼ばれるようになった。
氏輝は24歳で死去したが、同じ日に氏輝の後継的立場にあった次弟の彦五郎も死去している。このため氏輝は
病弱であったものの、彦五郎と同日に死去した突然死には諸説があり、毒殺説・自殺説などが疑われている。
嫡子のいない氏輝の死後は、出家していた弟の義元と、側室の子で義元の異母兄の玄広恵探(げんこう えたん)
の間で家督を巡る花倉の乱が発生した。
玄広恵探は当寺は花倉の偏照寺の住職をしていたが、母親の実家である遠州高天神の城主福島氏の一族の
後盾で後継争いに名乗りを挙げて花倉城を拠点に兵を挙げた。
この後継争いは義元側に岡部・瀬名・孕石氏といった有力豪族がなびき、恵探側にも朝比奈・篠原・斎藤氏の
豪族がこぞって推す今川家を二分する争いになってしまった。
恵探側は事を起こさなければ、駿府今川館に居住する寿桂尼側に有利になってしまうので、今川館を襲撃したが、
今川館の守りが堅く襲撃が失敗してしまう。この時の襲撃について二つの説があった。
1、花倉城から近い焼津の方上城を占拠してから、駿府の今川館を攻めたが寿桂尼を久能山へ逃がしてしまった。
2、久能山で挙兵して今川館を襲撃するが襲撃が失敗すると、方ノ上城や花倉城を拠点として抵抗した。
私としてはどちらかと云えば1説に近いが、それでも不満がある。焼津の方上城は高草山の中腹にある狼煙場の
ある砦のような山城で、この城を占拠しても戦況に変わりはなさそうだ。
それより花倉から駿府に行くには、東海道を通って行くのが一般的な道で、その途中には丸子城がある。この城を
占拠しなければ襲撃の際に背後を窺われる恐れもあり、襲撃に失敗して後退する時に逆に襲われてしまう。
恵探側の手勢が少なく丸子城を攻撃する兵がいないようでは、今川館の襲撃に成功しても、所詮は跡目相続は
叶わなかったと思われる。
結局恵探は花倉城に立て籠もり、一時は遠江などで同調するものも現れたが、相模の北条氏の支援を受けた
義元側が花倉城を一斉攻撃をすると、恵探は支えきれずに城から逃亡し瀬戸谷の普門寺で自刃してしまった。

以上が花倉の乱の概略だが、この話に出てくる義元の母親寿桂尼に興味を覚えた。
今川中興の祖氏親に嫁ぎ、今川家滅亡させた孫の氏真までの栄枯盛衰を見ていたのだ。そして今川家の再興を
願い遠江33観音霊場や駿河一国33観音霊所を制定してもいる。寿桂尼は死後も今川家を守るべく、今川館の
鬼門の方角の東北にある、沓谷の竜雲寺に埋葬されているという。百地蔵の時に沓谷付近を歩いたので寄りた
かったが、疲れと到着時間の心配で省略してしまった事が今になると悔やまれる。次回は必ず寄ってみよう。

 花倉城跡の案内板の建っている入口を入ると「土橋」と標識のある場所があるが、私の眼には小規模な馬の
背のような山道としか見えない。だいたい土橋とは丸太を隙間なく並べて橋面を作り、歩き易くするため土を
掛けて平にした橋の事だが、ここの土橋の下には川や堀が有る分けではないのになぜ橋なのか?
「城に設けられる土橋は橋ではなく堤で、堀をめぐらす中で、出入りのための通路を細い土手として残したもの」
だそうだ。そうなるとこの土橋の左右は堀なのか、とてもそんな風には見えない。知識の無い私には敵の攻撃を
遅らせるために自然の地形を利用した細い道としか見えなかった。

          
                   花倉城跡の案内板                      土橋

 城跡の中に入って標識を見ても具体的なイメージは湧いてこない。それでもここが花倉の乱の終結を迎えた
場所と思うと感慨も湧く。
天文5(1536)年3月17日に今川家当主の氏輝と弟の彦五郎が不審な急死して、その2か月後の5月25日に、
玄広恵探は今川館を襲撃している。だがその1か月後には花倉城は落城し、6月28日玄広恵探は自刃して
しまう。僅か3ヶ月余りの抵抗だったが、それにしても恵探側の戦略は無謀だった。私が軍師なら一か八かの
今川館の襲撃は行わないし、仮に襲撃して失敗しても花倉城は死守はしない。
何故なら恵探を押す勢力は花倉城の西の遠州に広がっていて、その遠州への道は、花倉城から山伝いに
延びているのだ。恵探もそれを知っていて西に脱出したが、時すでに遅く花沢城の西の脱出口には敵が待ち
構えていて、恵探は自刃するしか術はなかった。
恵探がもっと早く花倉城を脱出していれば義元の跡目相続もどうなっていたか分からない。
そうなると桶狭間の戦いも無く、信長の活躍も無ければ日本の歴史は変わっていた。なーんて

 
                本丸跡                      標識はあるのだが-----

 花倉城址から盤脚院には登って来たなだらかな尾根から、直接東の下に見える集落に下る。距離は短いが
急な下り坂で仲間の一人の足が攣ってしまった。薬などは携行していないので我慢してもらうしかない。
何とか盤脚院に2時5分に到着。ここまで来れば路線バスがあるのでどうとでもなる。アー良かった。

 盤脚院については百地蔵でも紹介したが、この寺の名前の起こりは盤脚院の和尚が徳川家康と囲碁を打った
ことから名前が付いたと流布されているが、どうやらその説は眉唾で家康が生まれる前から盤脚院だったようだ。
ただ家康と和尚とは親交があったようで、駿府城に行く和尚の為に駿府に浄元寺を建てている。その浄元寺は
今でも盤脚院の末寺となっている。

 盤脚院の本堂左側にあるお堂に半僧坊を祀ってある。この半僧坊は明治中期に村内に病気が流行したため、
遠州引佐の奥山半僧坊(方広寺)より分身し、病魔退散平癒のために建立されたものだそうだ。
ここで分からないのは盤脚院は曹洞宗、奥山方広寺は臨済宗方広寺派の大本山だ。しかも半僧坊は奥山方広寺の
鎮守の神様、「奥山半僧坊大権現」ときている。そりゃ権現様だから病気平癒の力もあるだろが、他宗派の仏の
力を借りなければならない曹洞宗もだらしがない。イヤイヤ良い物や効果のある物は何でも取り入れる前向きの
姿勢なのだろう。それに日本の仏教は住職や檀家の都合で簡単に宗派を変えてきたのだから仕方ないか。

        
                盤脚院                        布袋

 バスで帰る足を攣った仲間と別れて藤の花トンネル経由で藤枝駅に帰る。前回一人で藤枝七福神を歩いた時は
ここから残りの七福神を廻っのだが今日は連れがいるのでそうもいかなかった。それでも藤枝駅に着いた時は
30kmを越していたので、仲間の一人は「初めて30km以上歩いた」と喜んでいた。

 そうそう藤の花トンネルの運動場側出口から、清水山ハイキングコースに出る道は「私有地につき立入禁止」
で封鎖されていました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿