はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

大崩山塊・虚空蔵山3

2013-08-02 11:30:37 | 寺社遍路
 山頂を見終わり来た道を仁王門まで下って行くと「ホテル→」と書かれた標識が。
若しや----- と思いその道を行く。(若しやの中身は秘密です)
イヤー!大成功でした。若しやの期待は外れたが、山頂では見る事ができなかった展望が開けていた。
手前に見えるホテルが焼津グランドホテルで奥が松風閣。この両ホテルは風呂から富士山が見えるのを売りに
している位だから、今立っている所からも富士山が見えていた。ただ生憎雲が出ているので肉眼では見えても
写真では分かりずらいが日本平の上に薄っすら見えている。

 ホテルの上の稜線が簡保の尾根で一番奥の山が花沢山だ。
左の写真の波打際はかっては「東海の親知らず子知らず」と云われた難所、大崩で、写真の一番出っ張っている
所が小浜集落のある大崩海岸になる。
海岸線の上に見える道は旧国道150号で、今見ても断崖の中腹にある道だと見て取れる。
土木機械の無かった昔では、この中腹に道を作るのは難しく、海岸沿いか尾根道を行くしかなかったと思えた。

 

 焼津から駿府への道を考えると、最初は海岸沿いの道で、それこそ波の合間を走り抜ける「親知らず子知らず」
だっただろう。今では絶壁の下はすぐ海になり、とても海岸沿いには歩けそうもないが、昔の焼津の海岸線は
今よりもっと沖にあったという。それが何度もの地震による地盤沈下で海岸線が後退してしまった。
 現在花沢山の麓にある林叟院は、明応(足利時代)の頃には小川漁港の沖合300m程にあったという。
あるとき老僧が林叟院を訪ねてきて「近々天変地変が起こり、この地は海に没するだろう」と予言した。
それを聞いた人々は半信半疑ながらも林叟院を海から離れた花沢山の麓に移転した。
その翌年の明応7(1498)年この地を襲った大地震は東海地方に大被害を与えた明応地震だった。
焼津付近の被害は大きく「林叟院記録」には「而溺死者大凡二萬六千人也、林叟之旧地忽変巨海也」とある。
26000人死亡の真偽はともかくにしても、8mの津波は堤防も無い時代の焼津には想像を絶する被害となったろう。

 ここから話は私の妄想的歴史観になる。
地盤沈下により親知らず子知らずの道が通行できなくなると、山道として利用していた簡保の尾根道が
焼津と駿府を繋ぐ街道として利用されるようになった。
だが余りにも起伏が多いうえ、花沢山の登りは荷駄を背負って歩く街道としては不適だった。
そこで花沢山に登らず鞍部を通る道が開拓される。それが現在の日本坂峠で、奈良時代には京の都と当国を
結ぶ官道にも指定された。と、思っていた。
だが最近になり、旧林叟院が水没した地震は奈良時代よりズート後の室町時代後期だった事を知った。
また、江戸時代に入っても簡保の尾根の道は駿府と焼津・榛原への近道として利用されていて、その道が
崩壊したとき、焼津の住民は駿府藩に対し援助の申し入れをした古文書も残っている事も知った。
更に海岸伝いの道も昭和の初めになっても利用していたという。
ここまで知れば私の妄想の時代錯誤は明らかで、この三本の道は明治を過ぎても利用されていたのだ。、
海沿いの道は荷物のない地元の人が干潮のときに利用し、簡保の尾根道は静岡の海沿いにある石部や久能
などの人が焼津側の海沿いの小浜や当目と交流するのに利用していたのだろう。
そしてそれ以外の人は日本坂峠を越えて小坂から府中に向かったと考えるべきだと思う。

 今まで簡保の尾根にある砂張屋の道標が花沢山方面に対し「久能山道」となっているのが理解できなかった。
日本坂峠があるのにわざわざ起伏の多い花沢山を越える利点が思い浮かばなかったのだ。いや今でも
その疑問が無くなったわけではない。花沢山の山頂には神社や寺が有る分けでもないので、わざわざ山頂
経由にする必要もない。なら現在の石部峠あたりから、花沢山の中腹を捲く道がある方が自然だ。
今年の春に石部峠から海岸に下る道を歩いたが、峠からほぼ直線に海に下る道で、出た所は入江もない
海岸だった。石部のはまだ大崩の絶壁の下の道を歩かなければならない。
ならこの峠道は昔の道では無いだろう。と、なると山頂越えしかないのか?
でも私の妄想的歴史観は捲き道があった筈と訴えている。

 

 展望台からホテルに向かって下って行くと二つのホテルが間近に見てきた。しかし「これより先 緊急時以外の
立入はご遠慮ください」
の貼紙ですごすごと来た道を仁王門まで引返す事になった。

 「四丁目」の丁目石の所でまた北に向かう広い道があった。少し下るとトイレがあり更に道は下って行く。
若しやこの道は昔の「当目峠」に向かう道なのか、と一瞬思ったが、すぐ期待は裏切られた。
またもやホテルの立札が立ち「これより先は当ホテルのご宿泊のお客様以外はご遠慮くださいませ。支配人」とあった。

 香集寺の入口に戻ったが当目峠が気になって仕方なく、当目山の北側の道を歩いてい見た。
だが簡保の宿は大きく見えるのだが、そこへ行く道は分からなかった。

            

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