はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

大崩山塊・虚空蔵山4

2013-08-06 09:52:57 | 寺社遍路
 山頂にあった香集寺の本寺が海側にあるので寄ってきた。
幼稚園を併設した曹洞宗「恵目山 弘徳院(けいもくさん こうとくいん)」はこじんまりした寺だった。
山頂の香集寺は弘法大師が開基なので当然真言宗の寺だったが、天正9(1581)年、徳川軍と武田軍の衝突の際の
兵火にかかり香集寺は全焼してしまった。幸い本尊のみは難を逃れたため弘徳院の和尚が曹洞宗寺院として再興した。
その名残なのだろうか境内に虚空蔵山を見上げている弘法大師の像が建っている。
それにしても曹洞宗の寺に真言宗の開祖の像があっても???

 本堂の裏には昭和27(1954)年アメリカ軍の水素爆弾実験による死の灰を浴びて亡くなった、第五福竜丸の無線長
久保山愛吉さんのお墓があった。ニュースでは読んだり見たりしていたが此処だったのだと手を合わせる。

        

 弘徳院の横に「那閉(なへ)神社」と初めて聞く神社があった。
御祭神は大國主(オオクニヌシ)命と事代主(コトシロヌシ )命で、継体天皇3(509)年に物部氏が当目山・山上に
勧請されたと伝えられ、平安時代中期に編纂された「延喜式(えんぎしき)」神名帳にも記されている古い神社だ。
この神社には色々な説があり、一節には那閉神社は元々は社殿が無く、岡部の神(みわ)神社と同じように
山(当目山)を御神体として祀っていたともいわれている。
また、ある説では海から来た神は、最初当目山の沖合にあった「神の岩(かんのいわ)」に遷座して、砂洲で
繋がっていた当目山の下の洞窟「御座穴」に籠ったとも考えられた。しかし神の岩が大波を受けて岩が崩壊
したため、現在地に奉遷されたという。
してみると神の岩は海辺版の磐座で、天から神の岩に降りた神は砂洲を御神渡りして洞窟に御座したと思えば
ストリーが繋がる。さらに洞窟のあった当目山を御神体にして祀ったのだろう。
そうそう、那閉という聞き慣れない言葉は「波邊」であるという説もあった。

    

 通常なら狛犬がある場所に那閉神社の祭神「大国主大臣」「事代主大神」が迎えてくれる。
これにも面白い話があった。大国主命と事代主命は親子の関係で、親の大国主命は「大国=大黒」で大黒様。
ならば大黒様の子供は恵比寿様になるというのだが、そのこじつけはよく分からない。
しかし大黒様は豊作の神様、恵比寿様は漁の神様で、二人あわせて豊饒の神となって丁度良い。
こうして恵比寿・大黒の民間信仰は生まれたのだろうが、これだけでは那閉神社との関連が分からない。
実は恵比寿様にはこんな話もあった。
「恵比寿さまは伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供の蛭子尊(ひるこのみこと)が元になっているとされ、足が不自由
だった蛭子尊は、幼少時に親の伊弉諾尊に葦の船に乗せられ海に捨てられてしまい、漂着した地で海の神様として
祀らた。「蛭子」がエビスと読めることから現在の恵比寿様になったといいます
」だそうだ。
してみると神の岩に降神(漂着)したのは蛭子尊になるのだが、蛭子尊だけを祀ってもネームバリューが小さい。
そこで蛭子尊の親の解釈を伊弉諾尊から恵比寿の親の大黒様(大国主)にして宣伝したのだ。
これなら海と山の幸を願う地域の住民にも受け入れられ信仰されたのだと、私の妄想的歴史観は訴えている。

 境内に焼津市の有形文化財に指定された常夜燈がある。高さ3m50cmある市内で一番規模の大きい常夜燈とある。
この燈籠は文政5(1822)年に信州高遠の石工により製作されたもので、元は浜当目村の郷倉の前にあったが
大正時代にここに移転している。
待てよ、信州の石工が作ったとなると信州で作ってから運んだのか? それとも石工が焼津に来て制作したのか?
香集寺の常夜燈には石材が「当目石」とあったが、ここには何の記載もない。
しかし石製の重い常夜燈を信州からわざわざ塩の道(?)を運んできたとは思えない。きっと当目石で作ったのだろう。
折角案内板を建てるのだから、その辺も書いては欲しかった。

       


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