はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵2回目-7

2013-10-10 11:29:46 | 寺社遍路
  10番 ~ 20番 地蔵                              歩行月日2013/09/14

歩行時間:9時間45分 休憩時間:2時間00分 延時間:11時間45分
出発時間:5時50分   到着時間:17時35分
歩  数:  58、500歩   GPS距離:43.4km
行程表
 焼津駅 0:55> 10番 0:20> 11番 0:25> 12番 2:15> 13番 0:15> 芙蓉庵 0:50> 14番 
 2:30> 15番 0:25> 16番 0:40> 17番 0:15> 18番 0:20> 19番 0:20> 20番 0:15> 安倍川駅

              17番目(14番)誓願寺(行方不明)

 宇津ノ谷から誓願寺に向かう東海道は、今は国道1号線の歩道を歩かなければならない。時間は3時を
過ぎているが気温は35度もある。車の出す騒音と排気ガスで暑さが増すようだった。
二軒屋から東海道と別れて、毎月28日の縁日が賑う「大鈩不動」への参道沿いに誓願寺はある。
その山門の入口に祠に入った地蔵と、露座の石仏が並んでいるが、どちらが百地蔵なのだろう。
HPには「山門前には祠の中の太鼓坊地蔵と、百地蔵の第14番延命地蔵が祀られている」となっている。
では百地蔵は右の露座の地蔵なのかと思うと、HPには更に「204cm程の石造りの立像である」とある。
立像? 何かの間違いではないか、祠の横の地蔵は座像だ。
だがHPの写真は確かに立像のように見える。それに座っている石仏は頭は盛り上がっていて螺髪のようにも
見え、更にその上には肉髯(にっけい)がある。
手は膝に上で合わせた弥陀定印(みだじょういん)になっている。これでは地蔵というより阿弥陀如来のようだ。
イエイエこんな難しい事は私にはわかりません。持参した「石仏探訪必携ガイドブック」によります。
なにはともかく百地蔵の地蔵は無くなっているということだ。だが追及する気は無い。

  
        誓願寺前の祠と石仏               阿弥陀如来?             HPの写真
     誓願寺の地図

              18番目(13番)いざり地蔵(いざり)

 誓願寺からまた国道に戻って更に旧東海道に入ると、とろろ汁で有名な丁字屋がある。
その手前の路地の入口に百地蔵18番目の「躄(いざり)地蔵尊」の看板があった。
路地を入って行くと公民館の前に祠があり、百観音の標識が張り付けてあった。中を覗き込むとアレー?
予想に反して立っているお地蔵さんだ。いざりとあるからてっきり座像と思ったが予想に反した。
案内板が無いのでHPから転用すると
「宇津ノ谷峠を越えて丸子まで来た旅人が、病気のため力尽きて倒れてしまった。それでも這って(いざって)
でも進もうと思ったが亡くなってしまった。村人は旅人を葬り「来世では足が丈夫になるように」とお地蔵様を
建てて供養した。この地蔵が、いつからか「いざり地蔵」と呼ばれ、地元では「おいざりさん」と親しまれた」


 会社で「昭和のいざり」なる言葉がはやった時がある。意味は車の免許証を持っていない人のことを指した。
さすが本人の前では言わなかったが、余りいい言葉ではなかったな。

  
     いざり地蔵祠              いざり地蔵                 丁字屋
     いざり地蔵地図

              19番目(11番)細工所地蔵

 いざり地蔵から旧東海道に戻り細工所地蔵に向かう。
この旧東海道は狭い道の割に車が多くて歩きにくいので、途中にあった水神社から丸子川の遊歩道に入った。
遊歩道は東海道と打って変わり車は無く静かな道だった。19番細工所地蔵は、その遊歩道の畔にあった。
この細工所という名前はこの辺りの地名で、むかし近くの山で掘り出した銅を加工、細工した所だったらしい。
今は鉱山跡は不明だが、この地域には金属団地ができて各種工場が稼働している。

 赤いサルスベリの花を前にした地蔵堂の正面に、百地蔵の標札とご詠歌の板が張ってある。
お堂の中を除くと三体の石仏が安置してあり、中央の座った地蔵が百地蔵なのか。
三体の地蔵はどれも目や眉毛がはっきりしているところを見ると化粧をしているのだろうか。
境内には案内板も無く百地蔵のHPにも何の記載も無かった。

  
              細工所地蔵堂                          細工所地蔵
     細工所地蔵地図

              20番目(10番)佐渡地蔵(歌碑)

 今日最後の佐渡地蔵は東海道に面しているので、東海道を歩けばよいのだが、わざわざ遠回りをして丸子川
遊歩道経由でに向かう事にした。そんなに元気が残っているなら、南の山の中腹や北の山裾にある地蔵を回れば
良いのだが、さすがにそれだけの余力は無かった。
佐渡は昔は「澤渡」と表記していたようで、丸子川を渡る場所だったのだろう。その佐渡地蔵には夕暮れが押し
迫った5時10分に到着した。暗くなる前に案内板を読むと
「佐渡の子授地蔵は、子供に恵まれない夫婦が、ここの地蔵さんを一体借りて帰りお祀りすれば、子供が授かる
といわれている。めでたく子供が授かった人は、新しい地蔵さんを造ってお礼参りをしました」

堂内を覗くと小さいお地蔵さんが何体も並んでいる。このお地蔵さんの数だけ子供を授かった人がいたのだろう。

 
             佐渡地蔵堂                            佐渡地蔵
     佐渡地蔵の地図

 お堂の前に佐渡公民館があり、そこに万葉の歌碑が建っていた。
「佐和多里能 手児介伊由伎安比 安可故麻我 安我伎乎波夜美 許等登波受伎奴」これで分かれば天才。
「さわたりの  てごにい行き逢ひ  赤駒が    あがきを速み   こと問はず来ぬ」これでも意味不明。
「佐渡に住む美しい少女と道で行き会ったが、私の乗っている赤馬の足が速いので、ろくに言葉も交わさずに
来てしまった」
これでやっと理解できた。親切な歌碑だ。案内板はさらに続く
「この歌は、わが国最古の歌集「万葉集」に収められ東国農民に愛唱された歌謡である。
「佐渡」はその頃からこの辺の地名で、その歴史は誠に古い。
昭和に入り「丸子一丁目」と改称され「佐渡」という地名が地図上から姿を消してしまった」

             
                          万葉歌碑

            

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