はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

塩の道&秋葉道Ⅴ(西渡-水窪1)

2012-12-05 16:55:30 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅴ(西渡~水窪1)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:4時間10分 休憩時間:0時間25分 延時間:4時間35分
出発時間:10時55分 到着時間:15時30分
歩  数: 21、200歩  GPS距離:15.8km

行程表
 西渡バス停 0:30> 八丁(明光寺)峠 1:20> 林道西渡線入口 0:20> 西渡発電所 0:30> 
 城西駅
 1:00> 教伝様 0:10> 次郎兵衛様 0:10> 塩の道公園 0:10> 水窪中村旅館


         
                 西渡の山頭火の句碑

観歩記
10時50分に西渡のバス停に到着。同じ静岡県内とは言え、この北遠の西渡まで来るには時間が掛かる。
私の住む焼津から、伊豆の天城峠や富士山の籠坂峠でも9時頃には着いている。
イヤイヤ県内どころか東海道歩いたとき、京の三条大橋に向かう最後の出発地の草津にさえも、鈍行で
10時05分には着いていた。それが同じ県内で10時50分に着くとは。
しかしこれで驚いてはいけない。塩の道の遠州の最終回は、水窪から信州の和田まで予定しているが、
その水窪には、このバスで行くと11時23分着になってしまう。ただ水窪にはJR飯田線が走っているので、
そちらを利用すると11時04分に着くが、料金は2940円かかってしまう。一方バス利用の料金は、遠鉄バス
の最高金額630円が効いて2040円で済む。20分遅くて900円安い。さてどちらで行くか------

計画当初はその事で悩んでいたが、水窪を11過ぎに出てバス停のある和田まで行けるかどうかだ。
水窪から県境の青崩峠まで、約13kmの登りが続くので4時間は掛かるだろう。すると水窪を11時に出ても
青崩峠には3時になってしまう。更に和田までの青崩峠の下りが約10kmで3時間としても、バス停のある
所には6時過ぎになりそうだ。イヤイヤそれでは困る。前回西渡に下る道でも4時前には森の中は薄暗く
不安を感じたのだから、とても6時に到着など無謀だ。
ではどうしよう、青崩峠から水窪に引返す手もあるが、そうなると次回青崩峠から和田まで行く方法が無く
なってしまう。それでは水窪に泊まるしかないか。と前置きが長くなりましたが、今回は日帰りは止めて
水窪に一泊する事にしました。

「水があふるる 山のをとめの うつくしさ」山頭火の句碑が建っている。山頭火がこの北遠の地に立ち
天竜川の澄んだ流れの中を泳ぐ、山女魚を見て詠んだのだろう。と早速勝手な解釈を。

句碑の横には石仏が並んでいる。他にも案内板がありその中に興味を覚えた物があった。
「ここは古くから天竜川の港町として塩をはじめ、酒、味噌、醤油などの生活物資が陸揚げされ、水運と
陸運の結節点として重要な位置にあり、宿場町として栄えました。ここで陸揚げされた塩やその他の
物資は、背負子に荷棒を杖代わりにした「浜背負い(はましょい)」たちにより、急峻な塩の道の八丁坂を
明光寺峠の荷継所まで運んでいました」
とあった。
何々、塩を舟で運び、ここで陸揚げしたのなら、相良から人や馬や荷車で持ってきたのは何だ。
ガイドブックにはこんな事も書いてある。
「西渡には浜背負いとよばれた女たちがいて、港に荷が付くと我先に集まり、峠も荷継所まで担ぎ上げて
いた。峠には男たちが待っていて、一日約50頭の馬と約30台の荷車が水窪間を往復していた」

ウーン! この書き方では、気田川と同じようの川を渡る渡し船だともとれるが、しかし渡し船を水運とは
言わないだろう。更にガイドブックには
「西渡の道標の裏面には「醤油醸造元 浜松市成子 鈴木幸作」と刻む。浜松の塩問屋が長く関わって
いた証拠である」
 これでは信州に運ぶ塩や海産物は浜松から天竜川を遡上して、ここ西渡から陸路を
運んだいた事になってしまう。ショック!

静岡県には大河が富士川、大井川、天竜川と3本あり、その内水運が行われいたのは富士川だけで
後の大井川と天竜川は、上流から材木を運ぶ筏流しだけだと思っていた。
それが天竜川でも水運が盛んだった知って驚いた。で、早速調べると矢張り水運は行われていた。
それも富士川の水運を開いた京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)により開かれていた。
ただ天竜川は激流で、しばしば三遠南信境の屈曲部で事故が起きたらしい。
なるほどだから事故の多い地域は避けて、その前の西渡で荷物を陸揚げしていたのだ。納得できる。
でもそうなると相良地方からの生活物資はどうなる------- もう少し歩いてから結論を出そう。

 
     山の斜面の民家                 西渡の街道

天竜川の対岸の斜面にへばりつくように民家が建っている。あのような場所で台風の時など怖く
ないかと思うのだが、慣れれば平気なのだろう。でもこうして見てもやはり怖い。

街道の両側に民家が並んでいるのを見ると、天竜川の主要な港であり宿場町だった当時の西渡の
賑わいが偲ばれる。

 
    八丁坂の碑と常夜灯                夢街道?

この坂を「八丁坂」と呼ぶのだろ。右側にその名を書いた石碑と、その上には常夜灯が建っていた。
実はその石碑の所から、上に登る細い道があり「夢街道90km」と書いた板が取り付けてあった。
だがいつもの研究会の道標は無いし、石碑は前の車道の方を向いている。しかも常夜灯や社も細い
道とは離れている。それに「夢街道」って何だろう? 森町の三倉は秋葉道を「戦国夢街道」と呼んで
標識や案内板が何ヵ所も立っていた。その夢街道の事か? いやそれは変だ。ここから三倉までは
90km等とてもない。理解はできないまま、その車道を直進した。

道の横で立ち話をしている人がいたので確認のため聞いてみた「この道が塩の道ですよね?」すると
「さっき八丁坂の標識があっただろう。あそこの道が塩の道だよ。この道を行ってもいいけど、ひどい
遠回りになるよ」
それでは仕方ない戻るしかない。
細い道を登って行くと途中に研究会の道標があった。それにしても夢街道90kmって何だろう?

 
        八丁坂                     八丁坂

この八丁坂を女衆が荷物を担いで、男衆の待つ峠の荷継所へ運んだという。峠には約50頭の馬と
30台の荷車が待っていたらしいが、そうなると女衆は何人いた事になるのだ。
人間の仕事率=1/10馬力とすると、馬1頭で女衆10人となる。すると50頭×10人で500人!嘘だー 
そんなに女衆がいた分けがない。では荷車1台に女衆の5人分の荷物を乗せたとすると、5人×30台
で150人は必要になる。
舟1艘に荷物をどれほど積んだのか分からないが、少なくと100人以上の浜背負いがいたと思われる。

女衆が多ければ男衆だって多くなる。荷車1台に、かじ取り1人と後ろを押す者2人ととすると、30台
×3人で90人。更に馬方が50人として90人+50人で140人は必要だったろう。
女が居れば男は集まる。故に男衆の数は充分足りていただろう。

そうそう水運で使った船の数は、文化7(1810)年に38艘だったが、明治になると一挙に169艘に増え
ている。これは天竜川の整備が進み、上流から下流までの安全な通船が可能となった事と。西渡より
少し上流に久根鉱山などが開発された事によるとある。
因みに川舟を用いての諏訪湖口から河口の掛塚湊までの所要時間は、下りが約23時間、上りは6日
以上掛かっていたらしい。それでも背負ったり荷車で運ぶよりずっと早い。
問題はその船賃が高いか安いかだが、その事の記載は見つからなかった。

 
       八丁坂                       八丁(明光寺)峠

峠の名前はガイドブックは明光寺峠とあるが、案内標識は八丁峠となっていた。地元では八丁峠と
呼んでいるのだろう。その明光寺は注意していたが街道から見る事は出来なかった。

峠の上は広くて開けていて、昔ここが荷継場だったと言われても納得できる感じだ。ここには荷継場
だけでなく、茶屋や旅籠、馬小屋、更には独身の男衆の飯場などもあって賑わっていた事だろう。
さーこれから先は、荷車走っていた道なので、きっと歩きやすいだろう。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (石原 修)
2012-12-09 10:29:28
http://osamukun.la.coocan.jp/CCP073.html

 西渡の民宿植山のそばの山に「山姥神社」があります。西渡のバス停のところの案内板をよく見ないと気が付きませんが。塩の道を歩いている人のほとんどの人が知らないでしょう。上のアドレスは私のホームページの1頁でそこのところが少し載っています。
山姥 (はぐれ)
2012-12-10 09:47:31
山姥神社は気づきませんでした。
ただ山姥の民話や彫刻は見たのですが、今一興味を引く物では有りませんでした。
特に彫刻は、アイヌの木彫り人形のようで「孫と遊ぶ人」といった感じでしたが、その原因が入魂をしてないからなのだと、石原さんのHPで知りました。

西渡では浜松の醤油問屋の名前が入った道標を確認したかったのですが、見つける事が出来ませんでした。

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