はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪-和田3)

2012-12-18 11:46:03 | 塩の道
塩の道&秋葉道Ⅵ(水窪~和田3)                   歩行月日2012/10/31

歩行時間:6時間30分 休憩時間:0時間35分 延時間:7時間10分
出発時間:6時20分 到着時間:13時30分
歩  数: 30、920歩  GPS距離:20.9km

行程表
 水窪中村旅館 1:00> 賽の河原 1:30> 国道分岐 0:35> 足神神 0:25> 青崩峠入口 0:15> 青崩峠
 0:20> 林道出合 0:25> 廃屋入口 0:40> 林道出合 0:25> 兵越峠分岐  1:00> 明神前バス停

                    
                           映画のポスター
観歩記
足神神社の社務所に映画のポスターが貼ってあった。「果てぬ村のミナ」と題したこのポスターは
水窪の街の中や西浦の店先でも見かけたが、こんな山の中にも貼ってあるとは何だろう。
近付いて見てみると後援や協賛に浜松市、水窪タクシー、などと共に水窪神社の名前も見える。
きっとご当地ソングならぬご当地シネマなのだろう。

     
         瑟平(しっぺい)太郎の墓           犬の石仏

神社の少し上に「瑟平(しっぺい)太郎の墓」があった。
「遠州見付の天神様では、毎年8月10日の夜、白木の箱に娘を納めてイケニエとして怪神に供える
習わしが続いていました。
ある夜、イケニエを捕りにきた怪神から「このことは信濃の早太郎にしらせるな」との声を聞いた
旅の僧がこっそり光前寺の早太郎を借りてきて、祭礼の夜、ひそかに娘の代わりに早太郎を箱に
入れて備えました。
早太郎は、怪神との大格闘の末退治し、以来イケニエの習わしは絶え、里人は大いに喜びました。
しかし、早太郎も深手を負い光前寺へ帰る途中、哀れにも、この地で息絶えてしまった。」

アレー何か変だ。祠の前の杭には瑟平太郎とあるのに案内板には早太郎と書いてある。

早速調べてみると名前以外にもこんな違いもあった。
「早太郎は化け物との戦いで傷を負いましたが、光前寺までなんとか帰り着くと、和尚さんに怪物
退治を知らせるかのように一声高く吠えて息をひきとってしまいました。」
これが光前寺説。

「戦いの翌日村人が天神へきてみると、年経た狒々が血に塗れて巨体を横たえています。
周囲を見回すと、ものすごい闘いであったかを示すように、いろいろなものが散乱していて
目をおおうようなありさまでした。その横では悉平太郎が負傷をしていましたが、幸いにも
生きていました。村人は、悉平太郎の立派な働きぶりに感謝するとともに、ていねいにお礼を
言って光前寺へ送り届けたといいます。」
これが見附天神説です。

これらの説から行けば瑟平太郎は信濃で死んだことになっている。それが何故ここに墓がある
のか。ここから猛烈に妄想的歴史観が湧いてきた。
この墓に祀られている犬の石仏を見てください。この塩の道の観歩記で西渡から水窪を歩いた
ときに紹介した、山住神社のお札に似ていませんか。
あのお札に摺られている山犬様は、この石仏と同じように左を向いて座っています。どうです
似ているでしょう。
むかし山犬信仰が盛んなこの地に山犬(狼)様の死骸が落ちていた。の人達は祟りを恐れ
石仏を刻み山犬様をお詣りをしていると。通りかかった旅の僧が
「この山犬は見付の狒々退治の瑟平太郎に違いない」
と村人たちに話した。
以後この石仏が瑟平太郎になったとさ。お粗末さまでした。

名前の違いは見附天神説の最後に
「磐田では悉平太郎と呼んでいますが、駒ヶ根地方では早太郎、疾風太郎とも呼んでいます」
とあった。ようは磐田の住民は怪物退治をした犬に、権威を付けたいため強そうな名前にした
かったのだろう。そこで同じ意味の早→疾になって、同じ音の疾→瑟になったのではないだろうか。

     
           木地師の墓                     菊の紋章?

何の変哲のない森の中に「辰之戸(たつんど)集落跡」の案内板が立っていた。
中々興味深い事が書いてあったので紹介します。
「辰とは十二支の方角では東南東を指しますが、星座では北辰、辰極など北を指し、戸は渡る
事を言います。この事から此処の地名は北へ渡る場所として、辰之戸と呼ばれたのでしょう。
江戸時代秋葉神社の参拝者の安全と国境の安全を守るために代官所から十手を託された
村人もいたようです。」

成程「辰」が北を表し、「戸」が渡るを表すのか。なら辰野は北の平野、神戸は神へ渡る場所
なので近くに神社があるのかもしれないな。一つ覚えた。

木地師の墓も何変哲もない森の中にあった。だが案内板で諸国を渡り歩いた流浪の民と書かれた
にしては立派な墓で、しかも祠や堂宇などで保護されている。
ここの墓には、皇室と同じ16弁菊花紋が彫られているとあったので早速見てみると、有る有る
確かに菊の御紋が彫られている。だが16弁かどうかは数えることは出来なかった。

ここには案内板が二つも立っていてまず石碑の案内板には
「山の木を切って轆轤(ろくろ)で椀、しゃもじ、盆や木鉢を作る人の事を木地屋とか木地師、
轆轤師とも言われていました。木地屋は権威のある職人集団で轆轤免許状や観察を持ち、
良材を求めて諸国を渡り歩き全国各所にお墓があります。」

ここで「権威のある職人集団」とあるのは、墓石の菊の御紋でも分かるように、自らを南朝の
子孫と位置付け、地元の住民との婚姻もしなかった集団もあったともいう。
また木地師は日本全国の山に勝手に入ってもよいとし、しかも山の8合目以上の木を自由に
伐ってよいとしていたそうです。それらの事を含め「権威のある職人集団」だったのでしょう。
ただ、この伐採の自由とかは自分たちが勝手に思っていただけなのか、それを裏付ける証拠は
見つかりませんでした。

一方もう一つの案内板には「山から山へ漂泊の旅を続けた木地師の本拠地は滋賀県東小椋村と
いわれる」
とあった。やっとここで小椋村が出てきた。
序に小椋姓の事も紹介してくれると嬉しかったのだが-----

 
      塩の道の石碑                    登山ポストと山道

林道を歩いていると上から4人グループが下って来た。挨拶をしていて気づいたのだが彼らは昨夜
中村旅館で一緒になった人たちだった。なぜ上から来たのか聞くと、水窪から登山口までタクシーで
行き、青崩峠から下って来たのだと言う。そういえばこのグループは、昨日は城西駅から高根城跡に
寄って水窪まで歩いたと言っていた。
私のようにひたすら街道を歩くのも良いが、興味のある所だけピックアップして歩くのも楽しそうだ。
もう少し年齢をとったら、そんな街道歩きも検討してみよう。

林道はまだ上に続いていたが林の中に塩の道のモニュメントがあり、ここから山道になるようだ。
ここまでの林道は比較的傾斜も緩く、何故国道を作る事が出来ないのか不思議なくらいだ。
      
モニュメントの後ろに旧水窪町の立てた案内板があり、そこに青崩峠の事を説明してあった。
「元亀3年10月10日武田信玄が3万の兵を率いて、三方原の決戦に向け、この峠を越した戦国の
つわもの達の夢の跡」
「昔信濃の国の製糸工場へ出稼ぎに通った、乙女たちの哀愁街道」
などと書いてある。
ウーンここで疑問を感じたが、先にヒョウ越峠の案内を紹介しておこう。
「遠州(水窪町)と信州(南信濃村)の綱引き合戦。しかしただの綱引きではない。勝利を
もぎ取れば向こう1年間、県境を1年間移動できるというもの。文字通り国取り合戦である」

この綱引き合戦は毎年TVの風物詩として放映されるので知っていが、峠の名前がヒョウ越峠と
なっているのは何だろう。
ネットでは国土地理院もヤフーの地図も兵越峠になっている。地元での書き方なのかな?
読み方は遠州では「ひょうこし」、信州では「ひょうごし」と濁るようだ。

イヤイヤそんな事はどうでもよい、もっと気になる事は、兵越峠の兵越えとは、それこそ武田軍が
遠州に侵攻したとき兵が越した峠だから兵越峠になったと思っていた。だがこの案内板では武田兵
が越したのは青崩峠となっている。一体どっちが本当なのだろうか。

ネットで調べると武田軍は兵越峠を越えたというのが多かったが、少数ながら両方の峠を越えたと
いう説もあった。中でも一番信頼できそうな説がガイドブックに載っていた。
「武田信玄の軍勢は1万5千以上の兵を率いて青崩峠とヒョー越を越えて遠州に侵攻した。
狭く険しい峠を多くの兵が通るには時間がかかる。近年50名ほどのグループで峠を越えた際には
先頭と最終尾で5分の差があった。これを当てはめると1時間に600人。1万人が越えるのに約17
時間以上を要した計算になる」

何とも説得力のある説だ。このように数字のデータまであると自然信用したくなる。

妄想的歴史観は「疾きこと風の如し」の武田の軍勢は、青崩峠でグズグズするのを嫌って、地元民
しか使っていない峠道にも軍勢振り分けて遠州に侵略したのだ。それ以後その峠は兵越峠となった。
地元の自治体の建てる案内板なのだから、兵越峠にも武田軍の事も書いたほしかった。

何だろう高山や危険な山でもないのに「登山ポスト」がある。それとも危ない場所がこれから出てくる
のかな。でもマー今日は提出しなくてもいいだろう。と無視してしまった。

             
         石畳の塩の道                  信玄の腰掛岩

林道と別れた塩の道は石畳が敷かれていた。しかし余りに整然としているところを見ると、最近
整備された石畳だろう。
旧東海道には箱根峠や小夜の中山峠、鈴鹿峠にも石畳があった。その石畳は旅人を歩き易く
するのが目的でなく、街道が雨水により流失するのを防ぐことが目的だったようだ。
ただ何回も石畳を歩いていると石畳の歩きにくいさを知り、余り好きではなくなってしまった。
その第一の理由は滑る事。濡れた石畳は油断大敵で下りは勿論、登りでもツルット滑る。転べば
硬い石の上に倒れ怪我をすること必至だ。昔の旅人は藁の草鞋だったので余り滑らなかったが、
現在のウォーキングシューズは良く滑る。化学が発達して摩擦係数が高くて滑りにくい靴底だって
出来そうなものだが、何故か滑る靴ばかりだ。
次いで石畳の歩き難いのは注意しないと足をぐらしてしまう事。平らな石の石畳はまだよいが
金谷の石畳のように丸い石を利用してある所は、注意深く足元を見て歩かないと足を痛めてしまう。
イエイエここ青崩峠の石畳は歩きやすい石畳でした。

「武田信玄公腰掛岩」の杭が立っている。座った座らないの真意は分からないが、武田信玄は
兵越峠でなく青崩峠を通って遠州に向かった事にしておこう。

 
        少し紅葉してきた                  兵越峠分岐

この辺り海抜は1,000m位あるだろうか、暖地静岡県の山でも少し紅葉で彩り始めている。
一般的に言って天竜川流域は、天竜美林と呼ばれるているのでも分かるように、谷深くまで植林が
行われているので、紅葉する雑木林が少なく紅葉の名所は少ない。
よって静岡県の最深部で、すぐ長野県になるというのに、この程度の紅葉しか見る事が出来ない。

林の中に「建次屋敷跡」の看板があり
「秋葉街道往来の盛んな当時、ここには茶屋がありました。ある夏の夜、毎日一生懸命働く夫婦の
日銭の入るのを見込んで四名の盗賊が押し入りました。盗賊は亭主を大黒柱に縛りつけ、女房には
乱暴をはたらき、最後には酒樽を亭主に投げつけ、お金を奪って逃亡したという悲しい言い伝えが
残っています。」

昔だって悪い奴はいた。まして現代では更に凶悪化してきている。西渡明光寺峠から対岸に見えた
赤い屋根の家は大丈夫なのだろうか。遠くからでも大きな屋敷で金持ちに見えた。
私は金はないが、台風や地震の天災だけでなく、人災の心配もある所には、とても住めそうもない。

オッとマった! 兵越峠へ行く分岐案内が立っている。と、いう事は武田軍の兵越峠を越した一行は
ここで青崩組みと合流したのか。
ウーンなら兵越峠は青崩峠に比べ明らかに遠回りで大変な道になる。
何しろ青崩峠の標高は1,082mで兵越峠は1,317なので、200m以上も高い所を通っている。
こうなると武田軍の本隊は青崩峠を通過し、一部の部隊が兵越峠を越したのだろう。

 
       遠州側からの青崩峠              信州側からの青崩峠

10時25分ようやく県境の青崩峠に到着。水窪から予定通りの4時間で着く事が出来た。
GPSの距離は12.5kmで時速3kを越した程度の速度だが、写真を写したり看板を見たりの
街道歩きでは妥当な速度だろう。

写真で上に伸びている階段は熊伏山に通じる登山道で、塩の道は右の看板の前を通り下っている。
峠には「青崩峠 海抜1,082米」「新・浜松自然100選」「静岡県指定史跡」「青崩峠の鳥居」などの
看板が立っているが、そのどれもが静岡県で建てた物だ。
長野県のはと探すと小さな標識が地面に置いてあった。
「青崩峠遊歩道」と書いた小さな標識は長野県の南信濃村で作った物だった。
遊歩道? 何だか違和感を感じる言葉だ。先ほど林道と別れる山道の入口には、登山ポストが設置
されていたのに、ここでは遊歩道と書いてある。
山の少ない(?)静岡県では登山だが、険しい山の多い長野県では、こんな道は遊歩道なのだろうか。
それはともかくここまでの道は、ハイキングと呼べても登山と呼ぶような道は無かったが。

峠には何体かの石仏が祀ってあり、中に馬頭観音もあった。
重き荷を負うって長き道を歩いてきた馬が行倒れになると、馬頭観音を建ててお詣りするが、同じように
家康の遺訓の如く歩んできた人間が倒れたらどうしたか。穴を掘って投げ入れたぐらいが関の山か。
他人の死よりも財産である馬の死の方が、より切実だったのだろう。
私も気を付けなければ。家には塩の道を歩いて来ると言ってあるだけだし、携帯電話は無い。
身分証明書は退職後は無いし、免許証も持ってきていない。このまま倒れたら身元が判明するまで
時間がかかってしまうだろう。行旅(こうりょ)死亡人にならないようにしなければ。
馬鹿な事を考えるのは止そう。この先は遊歩道で楽な道だが油断してはいけない。


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2 コメント

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しっぺい太郎伝説の一つ (石原 修)
2012-12-18 16:26:50
 引佐三十三観音霊場の遥拝所の一つに観音山の清水寺(せいすいじ)にこんな立札があります。
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しっぺい太郎伝説

 磐田見付の天神様に、お祭りの夜、若い娘を差し出させ、連れ去ってしまう怪物がいました。怪物は信濃の光前寺のしっぺい太郎という犬を恐れていたが、それを知った旅の僧が、光善寺からしっぺい太郎を連れてきて、化け物退治をしたという伝説です。
 退治を終えて光善寺に帰る途中に、ここ観音山で野宿をしました。夜中に大蛇が出たので、太郎がかみついたのですが僧は自分を襲ったと勘違いをしてしまい太郎を殺してしまいました。事実を知った僧は大変悲しみ、お堂を建てて死ぬまで、ここで太郎を供養したそうです。
 しっぺい太郎が死んだ場所には、いろいろな説がありますが、この辺りでは観音山と信じられ、太郎を祭っています。
             静岡県立観音山少年自然の家
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 正直、なんでこんなところに「しっぺい太郎」伝説が…
瑟平太郎 (はぐれ)
2012-12-20 09:28:56
引佐にはそんな言い伝えがあったのですか。
この伝説で共通しているのは、活躍した犬が死んでしまう事ですが、これは何を意味しているのでしょうか。

それにしても光前寺に帰る途中にしては、引佐の観音山では遠回りしすぎですね。

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