はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場3-2

2014-09-17 14:51:27 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


                         29番 栄林寺(二俣)
        
              天竜川沿いの鰻屋                        金貸し水神

 次の29番栄林寺は旧天竜市(現浜松市天竜区)二俣町二俣にある。
その二俣には、徳川家康が長男の信康を自刃させた悲劇の城、二俣城があります。本来なら今日は城も見学
したいのだが何せ行程の先が明白でない。ゴールが天浜線の敷地駅までなら城見学の時間はあるが、
ゴールが袋井駅だとそんな余裕はない。今は一応袋井駅を目指しているので城見学はパス。
 
 岩水寺から国道に出ず天竜川に向かって行くと、道の正面に大きく「うなぎ」の看板が見えた。
浜松は鰻で有名だがその代表は浜名湖の養殖ウナギ。だが天竜川では天然のウナギも獲れると聞いた事も
あるのでここのウナギは天然ウナギだろうか? 今はウナギの稚魚のシラスが不漁でウナギの蒲焼が高値に
なり中々食べれなくなってしまっている。

 鰻屋の少し下流に小さな祠と案内板があった。案内板には「病気を担保に金を貸す 金貸し水神様」とある。
興味を覚えて更に読んでいくと 「水神宮病気証文の由来 むかし天竜川が氾濫し、鹿島村の河岸に祀って
あった水神様が流れ出してしまった。それを見た地元の船頭・権三郎が激流に飛び込み、水神様をお救いて
現在地にお祀りしました。権三郎は水の冷えで持病が再発して重体に陥ったある夜、水神様が夢枕に立ち
「そちの病気はこのたびの功により速やかに全快させてやる。他に病気で苦しんでいる者があれば、病気を
質として借金証文を上げさせよ、期限までに必ず全快させよう」
 と、お告げがあり権三郎の病気も不思議と
全快しました。それ以来、病気の水神様として人々の信仰厚く、遠近からお札参りや祈願される人が現れる
ようになったそうです」


 ウー? 病気を担保に金を貸す? ではその金を治療費に使えてという事か?
イヤイヤそうではないだろう。きっと病気が治ったら何々をします。とか、一両献金しますから病気を治して
下さいとかの証文を書いて祠に奉納祈願したのだろう。きっとそうに違いない。と、勝手に結論を下した。
祠の中の賽銭箱は証文箱と一体化していました。

 
             金原明善の胸像                        天竜川の鹿島橋

 金貸し地蔵の下には金原明善の胸像が建っていた。金原明善はこの遠江49薬師の最初の回で、生家の
記念館の前を通っている。過去に何回も生家の前は通っていたが一度も入った事はない。どうも金を払って入る
のが嫌いな性分(単なるケチ)なのだろうが、後で後悔することが多い。なるべく入ろうと思っているのだが-------
 金原明善の功績は、天竜奥地の植林と天竜川の護岸工事により「暴れ天竜」と云われた天竜川の氾濫を抑え
地元を救った治山治水の先駆者だった。
 その暴れ天竜も今日は水量も少なく穏やかに流れていた。

 
            天竜川の写真地図                   鳥羽山下のトンネル

 地図で見ると二俣の町は天竜川の左岸(東岸)にあるが、直接天竜川とは接していない。町と川の間には低い
丘陵が自然の堤防のように囲んでいる。この丘陵の一部に悲劇の城二俣城はある。
さらに「二俣」の地名の謂れは、地元鉄道天浜線のHPでは 「二俣は道の二股ではなく、天竜川と阿多古川の
二股のデルタ地帯を意味しいる」
 と紹介している。
 まず写真地図を見てください。デルタを形成したという阿多古川は写真の左側にあり、その川と天竜川の間には
デルタなどの平地は存在しない。近くにある平地は天竜川が蛇行した内側にある二俣町だが、ここが阿多古川の
影響で出来たとは考えにくい。写真地図をよく見ると町の中を縦断している川が見える。この川の名が二俣川。
この二俣川は昔は天竜川が増水して水位が上がると、二俣川は水の行く手が塞がれ、幾度となく洪水を起こして
いたらしい。それに二俣の地名が川の二俣から来ているのなら、その二股に関係の無い川に二俣の名前を付ける
のも変だ。
またまた妄想的歴史観が湧いてきた。「天竜区二俣の地名の謂れは、天竜川と二俣川の合流部から発生した」
どうでしょう今回の妄想的歴史観は。

 天竜川に架かる鹿島橋を渡ると丘陵の下に「筏問屋 田代家」と云う展示場を兼ねた保存家屋があった。
平日のうえ時間も早いので人の気配はない。仕方ない案内板だけで我慢しよう。
「田代家は徳川家康の遠州経略に協力して、天竜川の筏川下げと緒役免除の特権が与えられました。
江戸時代には北鹿島の名主と、渡船場船越頭を勤める一方、天竜川筏の受け継ぎ問屋も経営していた旧家です」
 
この地方には家康が自分に協力した地元民にお礼をした話が多数残っている。天竜川上流の西渡では家康が
負戦で落武者となり、敗走するとき家康を匿った者に 「天下を取ったら見渡す限りの山を授ける」 と言ってその
通りにしたとか、中には人間だけでなく山犬にもお礼をしている。秋葉神社の近くに山犬信仰の山住神社には
「家康が三方原の戦いで武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、山全体が鳴動し山犬の大音声がおこり、武田勢を
退散させた。お礼に二振りの刀剣が奉納され徳川家の崇敬を受けた。」
 話もある。
 三河出身で幼いころから駿河で人質の生活を送った家康は、馴染みの薄い遠江の住民を手なずけるためには、
協力した住民を積極的に褒賞したのだろう。

 田代家の横の丘陵を貫くトンネルを通り二俣の町に入る。このトンネルの上の丘陵には二俣城址や鳥羽山城跡が
あるが今日は寄っていれない。更にこの町の山奥には火伏で有名な秋葉神社と水防の光明寺がある。
江戸時代には 「ついで参り」 と称して火の秋葉山と水の光明寺山の両方をお参りしていたようだ。
私もいつかついで参りをしたいと思っているが何時になることやら。そうそう現在の二俣にある光明寺は、昭和6年の
光明寺山の火事で山にあった光明寺が焼失したため麓に移転したそうです。

     
                 29番栄林寺
   栄林寺の場所

 地名の元になったにしては小さな二俣川を渡り、川沿いの道を少し行くと29番栄林寺が見えた。広くはない
境内だが手入れが良く行き届いている。雰囲気のある穴地蔵の石仏や境内の花や木に名札が付いているのも嬉しい。
ご朱印をお願いして本堂左側の瑠璃殿でお詣りしていると、寺の奥さんが朱印帳と寺のパンフレットを持ってきて
くれた。そのパンフレットを見て思いだした事があった。この栄林寺は15mは越す大きなハクモクレン(白木蓮)の
木がある事を。だが今境内から入ってきたがハクモクレンには気が付かなかった。奥さんに尋ねると最近樹勢が衰えて
花を余りつけなくなったと言う。理由は境内に水道管を敷設するとき木蓮の根元を掘って根を痛めたのが原因らしい。
瑠璃殿から出て眺めると確かに蕾や葉の数が少なくしかも小さかった。
早くパンフレットに紹介されているような見事なハクモクレンに回復して欲しい。

                         30番 玖延寺(フウ)
 
             二俣川(下流の山は鳥羽山か)           玖遠寺とアメリカフウの実

 二俣川沿いの道を県道40号まで戻る。この県道は天竜二俣から磐田や袋井、掛川に抜ける道で、過去に車では
何度も走っている。その時のイメージでは歩きにはあまり適していないように感じていた。そこで今日は県道は
なるべく避けて旧道等を主に歩こうと思っている。
 今も県道に出る前に左折して細い川沿いの道を行く。時折見える県道側を見ると天浜線の天竜二俣駅が見えた。
その先で東に向かっていた県道は向を右にカーブして南に変える。だが次の30番玖延寺は県道とは逆に北に延びる
道に入る。更に山奥に入るのだと思っていたら、何の事はない分譲団地が現れた。車道が整備され来たので二俣町内に
住むより、少し離れているが静かで地価の安い所のが良いのだろう。しかし日の出は遅く、日の入りは早そうだ。

 団地が過ぎると正面の広い広場に石碑が建ち 「玖遠寺」とあった。30番札所に案外容易に着く事ができた。
アレーチョット待った! 車道の上に点々と木の実が落ちている。ピンポン玉より小さめなで丸い茶色のイガが実の
回りを覆っている。何の実だろう? 近くには親と思われる樹高の高い木が新芽もなく枯れ木の状態で何本もある。
ブナ(橅)の実もこんな感じの実だったが、まさかブナの木を街路樹風に植えては無いだろう。寺で聞いてみよう。

 
              玖延寺山門                趣のある石仏群
      玖延寺の場所
 「生かさるゝ いのち尊し 今朝の春  中村久子」 寺の山門には珍しく俳句の扁額が掲げられていた。
私も生かされているお蔭で、こうして歩き遍路をする事も出来る。まだ朝の陽射しが残っているとき、石仏を眺めて
いると心も落着き感謝の念が湧いてくる。 ナンテ言っちゃってね-------
それでも普段より深く一礼をして山門を入った。

 後で作者の中村久子さんの事を調べると
「中村久子さんは、1897年、飛騨の高山で誕生し、三歳のとき突発性脱疽に罹り、両手両足を無くされた。
中村さんはその障害の事実を真正面に引き受けて、人権意識が未成熟で障害者への差別の厳しい、生きて
いくのも非常に困難な時代を、女性として、母として、そして何よりも一人の人間として72年の生涯を生き
抜かれた。」
 と紹介されていました。

 
              境内から玖延寺                   薬師堂

 山門の扁額の句の所為ではないが、広い境内を持つ玖延寺は、落ち着いた静かな雰囲気の寺だった。
庫裏に入り早速広場にあったイガの実の事を尋ねると「あれはアメリカフウの実です。あの実をクリスマス
リースの飾りにすると云って拾っていく人がいますよ」
 との事。
アメリカフウ? 何の事か再度聞くと「私も詳しくないがアメリカの楓の事らしいですよ」 
あの実が楓? クドクド聞いては申し訳ないので後で調べる事にした。
「フウは「楓」と書かれるが、カエデはムクロジ目に属し翼果をつけるのに対し、フウ属は雌花の花序が球形で
垂れ下がるので区別できる。まっすぐに伸びる樹形は美しく、また秋の紅もが美しく落葉後は長く枝に残る実も
風情があり街路樹や公園樹としてよく利用される。一般家庭の庭には大きすぎて庭木としての利用はあまりない」

何々楓がふう? 恥ずかしながら「楓」が「ふう」と読むことは知らなかった。確かに木偏を取れば風だから
「ふう」とも読むだろうが、一応確認のため漢字辞典で確認したが間違いは無かった。
そうか「アメリカフウ」は、言い換えれば「アメリカカエデ」なのだと納得。

 少し寺の事も紹介しなければ----
玖延寺の開祖は駿河慈悲尾(しいのう)にある増善寺の和尚によるのだそうです。
増善寺といえば今川七代目当主で今川中興の祖とも云われている今川氏親(うじちか)の墓所のある寺です。
増善寺は駿河一国33霊場の札所なので当然お詣りしています。人里離れた山の寺だったが本堂は新しく改築され
ていて、少々趣を欠いていたと記憶している。しかし知っていいる寺の名前を聞くと余計に親近感が湧いてくる。

    
                     薬師瑠璃光如来・日光・月光菩薩・十二神将 

「薬師堂は自由にお詣りください」 と云う事なので清々声を出して般若心経と延命十句観音経を唱えた。
この二つの経は般若心経は四国遍路のとき、延命十句観音経は駿河一国観音霊場のときに暗唱できるようになった。
ただ私の場合は「門前の小僧、習わぬ経を読む」と違い、耳からではなく目(文字)から覚えたので、息継ぎの場所や
調子(アクセント)のつけ方が自己流のため実際のお経とは大分違っている。言うなれば隠れキリシタンのオラショの
ようになっている。たまに般若心境のCDでも買って正当般若心経を聞いてみようか、など思うときもあるが------

 玖延寺薬師堂の須弥壇の上は薬師瑠璃光如来・日光菩薩・月光菩薩・十二神将が揃って祀られていた。
この薬師如来は檜材割矧造りで鎌倉中期の阿闍梨暹咸作。長年秘仏とされていたが昭和60年に修理をしたのち
薬師堂に安置され、誰でも拝見できるようになったのだそうです。

                  

遠江四十九薬師霊場3-1

2014-09-15 11:49:52 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


***** 体調が回復しない日が続いていて、厄払いでもしなければと考えて思いだした事がある。
    今年3月に歩いた「遠江四十九薬師」の遍路日誌が中断したままになっていた。
    「さわらぬ神に祟り無し」と云うが、医薬の仏様である薬師様に一度は触れてしまったのに
    途中で投げぱっなしにしたため神罰が当たっているのかもしれない。
    てなわけで遠江四十九薬師の遍路日誌を再開します。 *****


                         28番岩水寺(続・竜神)
 想定外で終わってしまった2回目の霊場巡りのつけが、3回目に早速出てしまった。駅から駅への遍路を
目標にしているので、今日のゴールも鉄道の駅にしたい。そうなるとJRの袋井駅か天浜線の敷地駅の
どちらかしかなかった。しかし袋井駅だと推定距離は40kmを越えてしまい、実質距離が45km以上になって
しまう恐れがある。かと言って敷地駅だと15km程度で、歩きが午前中には終わってしまいそうだ。
更に都合の悪いのは岩水寺は8時半からの受付なので、その前に行くとご朱印がもらえない事も分かった。
ウーン困った。しかしここは考えても仕方ない。ともかく岩水寺でご朱印を受けて、袋井駅を目指すしかない。

 岩水寺駅に8時13分に到着。前回歩いた道を岩水寺に向かう。今日は風は強いが暖かなので出発時から
トレーナーは脱いでいた。前回のように冷たい風が強すぎるのも困るが、余り暑くなると歩く速度落ちてしまう
のでこれも困る。でもまだ3月14日なので、そこまで暑くはならないだろう。

 前方に何とも味気ない入口が見えてきた。この様な施設を造る寺は金持の真言宗かと思ったら、まさに
その通りで真言宗高野山派の所属だった。しかしそんな思いを感じたのはその時だけだった。
山門手前の鐘楼に 「合掌して一礼し、一回心静かにおつき下さい」 との表示を見て鐘を突いてみた。
「グォ~ン」と重く余韻のある音が響き渡る。鐘の音は良いものだが、これも四六時中鳴っていれば煩く感じる。
四国でバス遍路の団体が、鐘の余韻も終わらないうち次々と鳴らしていたが、あれは頂けなかった。
ところで鐘は参拝のどこで突くか知っていますか? 四国遍路の心得として 「戻り鐘はつかない」 とあり
参拝の帰りに鐘は突かない事となっています。理由は神社の鰐口や鈴と同じで「これからお詣りします」
神様、仏様に合図をするためだそうです。いわば一般家庭の呼鈴のような物なのでしょう。

 赤い幟を見て遠江49薬師の幟かと思ったが違った。幟には 「天竜川竜神化身 厄除子安地蔵尊」 
なっている。オット!早速竜神様の登場だ。
 
 
            岩水寺入口                              岩水寺
               岩水寺の地図
 岩水寺の入口に額に入った幽霊のような写真が飾ってあるが、一体何なのだろう? 一見すると能か歌舞伎の
衣装のように見えるし、服装は男と云うより女性のようで幽霊のようにも見える。
岩水寺のHPを見ると
「高野山真言宗別格本山である龍宮山岩水寺は、神亀2年(725)行基菩薩が薬師如来の尊像を刻み開創され
ました。その後延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂公東征時、天竜川の龍神様(蛇神様)が薬師如来の功徳に
より、玉袖姫という美しい女性に変身され、将軍様と恋に落ちました。
 その後お子様である坂上田村麻呂俊光将軍は、人々の救済を願い、お母様(龍神様)の魂が刻まれた、
厄除子安地蔵様(国重文:伝弘法大師作)を岩水寺に安置されました。
 昔から”家をまもるは岩水寺”と言われております。これは厄除子安地蔵様(龍神様)が母であり、実際に
子供を産んでいる女性が神仏になったという、非常に珍しい仏様であるからです。」


 ヘエー!、あの幽霊が弘法大師が彫った厄除子安地蔵だったとは、とてもお地蔵さんには見えないな。
そうなると弘法大師は坂上田村麻呂か子供の俊光から赤蛇(竜神)の話を聞いて、地蔵を彫った事になるが、
時代は合っているのだろうか。調べてみると坂上田村麻呂は758-811年で、弘法大師は774年生まれだった。
これなら年代的には誤謬は生じていない。

 何となく地蔵尊の由来は理解できた。ではHPでは竜神の話はどのように書いてあるのだろう。
「坂上田村麻呂将軍は勅命で東征の折、船岡山に到着した。当時はそれより先の天竜川は岩田の海と呼ばれる
程広く、荒れる事も多くて地元の人々を困らせていました。
 そこで田村将軍は船岡山から鬼門(北東)にある岩水寺に参拝し、御祈願されました。すると寺のすぐ東側にある
天竜川の袖ヶ浦の荒れ狂う波の中から、美しい玉袖と名乗る姫が現れました。
 将軍の愛人いなった玉袖は、やがて身重となり、いよいよ出産のとき「決してこの中を覗かれないで下さい。」と、
将軍に堅く言いおいて産屋へ入りました。それから七日経ちましたが一向に出る気配がありません。外は大嵐となり、
心配になった将軍が産屋の節穴より覗いてみると、中には大蛇が赤子を舐めていました。
 驚いた将軍が産屋の中に入ると、大蛇は玉袖姫の変身して
「自分はこの海に住む蛇です。本来の姿を見られたからにはお別れしなくてはなりません。ただこの子はどうか
立派な武将にお育て下さいませ。」
と2つの宝珠を渡して岩水寺の赤池(閼伽池)へ消えて行きました。
 それから八年の年月が経ち、将軍は一子赤蛇丸(俊光)を同行してこの地に来ました。そして荒れ狂う岩田の海に
水干の玉を投げ入れました。すると海はたちまち汐が引き広々とした陸地になりました。水が干上がった時赤蛇は
岩水寺の赤池に隠れ、そこから奥の洞穴(鍾乳洞)に入り、その後鹿島の椎ケ渕へ入られました。
現在の浜松市天竜区の椎ケ脇神社は将軍がこの赤蛇を祀ったものです。またその玉が奉じられているのが浜松市
東区の有玉神社です。また鍾乳洞は信州(長野県)の諏訪湖に繋がっていると云われております。」


ウン!中々面白い話だ。船岡山も岩田の海、袖ヶ浦、椎ケ脇渕等の地名も全て出てきているので説得力もある。
ただ最後の岩水寺の鍾乳洞が信州の諏訪湖に通じている話は、御前崎市佐倉の桜ヶ池の竜神伝説と同じだ。
マーどちらにしろ遠州は天竜川を介して諏訪湖とは繋がっていたので、そんな話が出来ても不思議ではない。

 話はまだ続いていて次に幽霊の正体が分かる。
「成長した俊光は母の姿を知らない事を悲しく思い、母を地蔵菩薩として崇めたい旨を天子に奏上しました。
父が寵愛の頃の姿を現し給えと一七日間参籠し、満願の夜、雷鳴轟く豪雨の中に母が現れ
「玉袖のかわく間もなし ここに来て われ母ならば 子安をぞいのる」といいつつ姿を消しました。
 かくて俊光は衆生済度法悦楽土を築く為に母玉袖の姿をお比丘尼如来像とし、弘法大師一刀三礼の地蔵尊を
銘「子安地蔵大菩薩」(国指定重要文化財)として岩水寺に安置されました。そして父田村将軍の守り本尊の
十一面観世音菩薩を岩水寺鬼門の守り神としました 。また田村将軍は岩水寺に寺領を寄付され、寺の名前を
龍宮山龍池院と名付けられました。」


ここまできてやっと幽霊の正体が分かった。初めは弘法大師の地蔵菩薩が幽霊かと思ったが、どうやらそうでは
なく、母玉袖の姿を写した比丘尼如来像が幽霊の正体のようだ。
尤もこれも私が勝手に解釈しただけで間違っているのかもしれないが。
山号の竜宮山にも面白い言い伝えがあったが、先を急ぐのでそれは次回の話としよう。

      
             本堂の玄関                  竜神化身厄除地蔵(HPより)

 岩水寺の本堂は朝の掃除の最中だった。近くで掃除をしている僧にご朱印を頼むと気持ち良く受けてくれて、
「よかったら上がってお詣りしてください」「見学者立入禁止」と書かれた本堂に誘ってくれた。
 本堂のお詣りを済ませ薬師堂に向かう途中、弁天さんをお祀りしている所に池があった。その名前が「赤池」
この小さくチャチな池が赤蛇が隠れた赤池なのか、これなら赤池など無い方が伝説が尤もらしく聞こえる。
これで分かった。御前崎市の桜ヶ池の竜神伝説が有名なのは、桜ヶ池が如何にも竜神が住んでいそうな池に
対して、この赤池は良いところ青大将がいる程度の池だからだ。
 薬師堂の前にも赤い幟があり、こちらの幟も竜神化身の厄除地蔵の幟だった。ただ山門には遠江49薬師の
白い大きな看板はあった。

 
             本堂の沙弥壇                      薬師堂の山門
  
                    
 

遠江四十九薬師霊場2-4

2014-03-26 17:07:35 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         4番宗安寺(三重塔)
 25番まで打ったのに次の札所は4番に逆戻りだ。これは元の4番札所は札所順の磐田にあったが、その寺が
廃寺になってしまったので、浜松にある宗安寺に変更されていた。札所を変えるなら元の場所の近くにすれば
良いと思うが、こちらも順番通りに回っているのではないのでブツブツは言えない。

 白華寺から東名高速を越した所に「有玉神社」の表示があったが無視して通り過ぎてしまった。実はこの
「有玉」と云うのは、例の赤蛇伝説の子供が母親の龍から貰った玉の事だと、後で知り残念な思いをした。

 前方に三重塔が見えてきて実にいい眺めだ。浜松の郊外を歩いているのではなく、まるで奈良斑鳩の里を
歩いている風情がする(斑鳩を歩いた事などないのに)
この宗安寺の三重塔は古い建物ではなく平成11年建立された新しい三重塔だった。
 
 
               4番宗安寺の三重塔                        宗安寺境内
          宗安寺の地図
 まず薬師堂をお詣りしてと中を覗きこむと、薬師如来ではなく延命地蔵菩薩が祀られていた。そこで気に
なったのは、地蔵の横の棚に置いてある白い達磨さん。少林寺にも白達磨が有ったが、この寺にも有るという
事は何か意味があるのだろう。とご朱印を貰うときに聞いてみた。
「達磨は赤いのばかりではなく、緑や白いのもありますよ。好き好きじゃありませんか」と大黒さんの返事だった。
そうか檀家から寄進を受けた達磨を飾っただけなのだ。つまらない。

 宗安寺のご本尊は十一面観音菩薩で、三重塔には聖観音菩薩、地蔵堂は延命地蔵で有名なのは薬師如来と
中々賑やかな寺だった。

 
               地蔵堂内部                         薬師三尊

                         26番真光寺(お葉つきイチョウ)
 25番から4番と、4番から26番は、それぞれ一時間ほど掛かってしまった。真光寺に着いたのは既に3時に
なっていたが次の岩水寺まではまだ9km余もある。ノロノロしていると5時までに岩水寺に着かなくなってしまう。
先を急がなければ。
 真光寺に着く頃に、又もや雪なのか風花なのか分からないが猛烈な勢いでぶつかってくる。
ご朱印を受けるとき住職に「雪ですかねー 風花でえすかねー」と聞くと住職は怪訝な子をして外を見た。
「ワー凄い! これは雪ですよ」とビックリしたようだった。

 真光寺の薬師三尊の周りには、十二神将の替りに色々な仏像が祀られていた。余りに雑然としていて、寺の
須弥壇と云うより民家の大きな仏壇といった風情だった。

 
            26番真光寺                           薬師三尊
               真光寺の地図
 ご朱印を貰いお詣りを済ませ境内に出ると雪は止んでいたが、まだ黒い雲が覆っていた。
境内にあった大きな木は、浜松市の保存樹木に指定されているイチョウの木だが、このイチョウは葉っぱに
実がなる「お葉つきイチョウ」という珍しい銀杏だった。
 お葉つきイチョウと云えば、山梨県身延町の国道52号線を走っていると、この看板を幾つか見かけるが、
まだ一度も見た事はない。なんでも全国で何十本しかないイチョウらしいが本当だろうか? それ程貴重
ならこの真光寺のイチョウも、保存樹木ではなく天然記念物に指定されそうなものだ。案内板には
「イチョウの木は三億五千万年前にはすでにあり、イチョウ以外の動植物は数例を除いて全て進化しましたが、
イチョウだけはその当時から少しも進化せず、そのままのものが今日存在しているといわれています。」

イチョウは生きた化石とも云われるが、そう聞いてもあまりピンとこない。余りに見慣れている木で、化石と
云われても「へーそうか」で終わってしまう。

「烏瑟沙摩明王(ウスサマミョウオウ) 全ての不浄の物(悪)を食い尽くすといわれ、修法は産褥の不浄、悪鬼の
祟り、枯木の精、毒蛇の害などまで除くためのものといわれる」
 
右足を上げ片足立ちしている明王の顔は、まるで赤鬼の風情だ。その頭上には何だろう? 狐の頭を乗せている。
これが悪を食い尽くすのか。それにしては可愛い顔をしている。
だがこれは仏像ではなく板に書かれた絵だ。それも色落ちして薄くなってはっきりしていない。
祠に張られている案内は少し難しく書いてあるが、簡単に言えば「シモの神様」という事だ。

 明王の隣の祠には地蔵菩薩と聖観音菩薩の石像が並んでいた・

  
       お葉つきイチョウ           烏瑟沙摩明王            菩薩石像

                         27番光正寺()
 雪雲は何処かに飛んでしまい、また青空が戻り明るくなったのはよいが、27番光正寺に着いたのは3時50分。
気分は段々焦ってきてお詣りも簡単に済ませてしまう。ご朱印を押す住職に「岩水寺までどの位かかりますかね」
と聞いてみた。「歩きですよね。歩きでも1時間は掛からないでしょう。でも岩水寺さんは5時になれば閉めてしまう
から。その前に行かないと。」

そうなんだ、岩水寺は大寺で修行僧たちがやっているので時間厳守なのだ。会社組織で従業員が働く大店と、
家族経営の小売屋との違いがあるのだ。それでは増々急がないといけない。

 早々に寺から出ると気分的に足取りも早くなる。しかしこれから岩水寺にお詣りできたとしても、ゴールの駅は
二俣本町になってしまう最悪のケースだ。イヤ下手をすればそれすらできずに、岩水寺の手前の駅で打ち止めに
なってしまう可能性もある。それこそ想定外で何としてでも避けたい。もう急ぐしかない。

 交差点の名前が「麁玉小南」になっている。難しい字で読めなかったがローマ字で「aratamasyouminami」
なっている。フーンでは麁玉は「あらたま」と読むのだ。
オッ! 待てよ、だとすると麁玉は赤蛇の玉に関係しているのか、と期待をしてしまった。
だが家に戻り「麁玉」を調べたが、赤蛇との関係は見つからず、麁玉とはこの辺りの古い地名で、意味は
「まだ磨かれていない玉」という事だそうだ。ではこの辺りで何か鉱石が発掘されたのかと思うが、そんな記述は
無かった。ただ「宮口まちおこしの会」のHPに
「あらたま」が地名として歴史上に登場するのは、694年に造営された藤原宮跡から出土した木簡に「荒玉評」
(あらたまごおり)と記されていたことが最初だそうです。
713年に、郡名を縁起の良い字に改める命令が出され、「荒」「麁」の字に改められたと考えられています。」
 
とあった。そこにも赤蛇の玉については触れていない。さらに調べていくとこんな解説をしているものが複数あった。
「天竜川の古名は麁玉河で、それが荒玉河、広瀬川、天中川、天龍川と変遷した。」
 この辺で結論を付けよう。この辺りはかって麁玉河(天竜川)の流域で、その川の名前が地名として残ったのであり
赤蛇の玉とは何ら関係ない。と

        
                 光正寺                          大日如来か
                光正寺の地図
 アーア! 遂に5時になってしまった。何が「1時間は掛からず岩水寺に着く」だ。まだここは麁玉の隣の宮口で
岩水寺までは30分以上も掛かりそうだ。もう先程から諦めモードに入りペースはダウンしてしまった。
しかしゴールの駅はどこにしよう。せめて岩水寺に一番近い駅はと手持ちの地図を見ると岩水寺駅だった。
もう仕方ない、全くもって想定外だが、そこをゴールにするしかない。
 岩水寺駅に5時30分に到着。ウーン寒い!冷たい強風が吹き抜けていて震え上がってしまった。早く電車が
来なければ凍ってしまうと時刻表を見ると、何と何と次の電車は18時24分で50分以上あった。
マイッタナー 次の駅まで歩くのはいいが道が分からない。だが幸いな事に駅前に案内板が建っていて、それを
見ると次の駅は西鹿島駅になっている。道は・・・・・ 細かい事は分からないが近くで聞けば何とかなるだろう。
駅員に聞けばって? トンデモナイこの駅の周辺は店は1軒も無く、民家だってチラホラだ。駅の建物も無いから
当然改札も無い。ただホームにバス停のような待合所があるでの駅です。天浜線はこのような駅が多いんです。

 歩いている分には寒さは左程感じないですむ。「根堅」という大きな交差点に出た。さてどちらに行けば良いのだと
聞く人を探すが、こんな寒い夕方に歩いている人はいない。やっと自転車に乗った高校生に道を聞く事が出来た。
「この交差点を直進して踏切に出たら左折して行けば西鹿島の駅です。」アー良かった。

 何だよ線路が下を通っているが踏切は無いし道も無い。アッそうか、ここは第3セクターの天浜線と私鉄の
遠州鉄道が乗り入れているのだった。でも私が乗るのは天浜線で遠鉄線ではない。とは云っても道が無い事には
曲がるわけにも行かないので、そのまま直進をする。
 やっと踏切に着いた。でも今度は踏切の前後に左に行く道がある。ウワー困った。ここまでは聞かなかった。
確かさっきの高校生は踏切を渡るとは云わなかった。ヨシ手前の道を曲がろうう。
 なんだよ、道は線路から離れてしまう。しかも線路の左は高台になっていく。間違ったかな?
それにあちら側の道は時折通る自動車の灯りが見えるが、こっちの道は全然車が通らない。駅前に行くのだから
車が通らないのは不自然だ。きっとあっちの道が駅への道なんだ。急がないと電車に間にあわなくなってしまう。
時間を見たくても暗くて時計の針が見えない。早く決断しないと。エイ!引返そう。

 踏切まで戻り踏切を渡って左へ延びる道を行く。今度は徐々に民家も出てきて賑やかになってきた。
アー!良かった。半分走るよううにしてやっと遠鉄の西鹿島駅に到着。でもこの駅は天浜線の駅ではない。
ジャー天浜線の駅は何処にあるのだ。
「済みません。天浜線の駅にはどうやって行くのでしょうか」
「同じホームだからそこを行けばいいよ」
と言われても、同じホーム? 訳も分からぬまま駅に入ると、そこは
遠鉄の改札だった。エ-なんだよー だから天浜線と言ったのに。段々焦ってきた。隣にいた高校生に
「天浜線にはどう行けばいいの」と聞くと「切符を買って改札を入ればいい」と言って天浜線の自動販売機の場所を
教えてくれた。すると近くにいた高年の女性が「切符は買わなくてもいいから一緒においで」と声を掛けてくれた。
地下道を潜りながら「電車賃は降りる時に払えばいい」と教えてくれた。。
そして階段を登った所が天浜線の西鹿島駅のホームだった。
フーやっと電車に間にあった。ゴールの駅も想定外だったが、最後にこんなにアタフタするのも予想外だった。
お蔭で寒さを飛んでしまったが、乾杯の氷結も今日は望むべきもなかった。アー疲れた。

遠江四十九薬師霊場2-3

2014-03-25 12:06:19 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         24番小林寺(白達磨)
 天林寺から24番少林寺には国道152号線の通称秋葉街道を北に向かった。この秋葉街道と言う名称もあちこちに
あるが、ようは秋葉神社方面に行く道と思えばよい。その太い味気ない道を20分も歩くと少林寺の入口に着いた。
ウワーあの先に薬師堂があるのか、と恐れをなしてしまったのは正面に見える「百段坂」の階段だった。いつもなら
得意になって登るのだが今日は何となく嫌だった。ここまでの距離はまだ17kmだが、ここで体力を使ってゴールが
最悪のケースになってしまっては困る。ここは自重しないとと思っていた。幸いあの階段の上には神社だけだと聞き
ホッとした。
 少林寺の山門の前には大きなヤシの木のようなビロウ(?)の木があった。この木は九州宮崎の青島海岸や近く
では御前崎海岸にある木だと思うが確かではない。
 葉の枝を切り落とした所には寄生樹だか宿り木だか、これまた確かではないが別の葉がビッシリ生えていた。
しかしこれだけ高くなると葉を切り落とすにはどうするのだろう。ヤシの実取のように木に登るのでは、途中にある
別の葉が邪魔になるし、クレーンを使うのでは金が掛かる。それとも葉の枝は衰えて来ると自然に落下してくるのか、
またくだらない疑問が湧く。

 境内に白い達磨が祠に入って祀られていた。祠には「南無達磨大師」とあるが謂れは分からない。達磨大師なら
中国嵩山少林寺で、壁に向かって9年も坐禅を続けたと云うがそれが縁? でも白達磨の意味が分からない。
ここは矢張り案内板が欲しいところだ。

   
           百段坂              少林寺山門              白達磨
               少林寺の地図
 本堂に祀られた薬師如来は金色の立像だが、横に立つ両菩薩と十二神将は木彫りの、どちらかと云えば
民芸風な素朴な仏像だった。中でも十二神将たちは武器も持たず武将にはととても見ない。中には驚いたのか、
真ん丸い目をしている仏像や、頬被りをしているように見える神将もある。
更にその下の段には極彩色の衣装をまとい、手には武器を持った小さな十二神将も並んでいた。

 
          位牌堂の中の薬師三尊                         薬師三尊と二十四神将

                         20番福厳寺(小粥家)
 八坂神社の裏にある福厳寺の参道には、サッパリと剪定されたサルスベリの木が並んでいた。これだけあれば
夏には多くの花が楽しめるだろう。しかし毎年これだけ選定されても夏になれば枝が伸び、百日間も長い間花を
咲かすのだから、凄く生命力のある木だ。
 本堂の入口に掲げられている「祇園林」の扁額は山岡鉄舟の書で、明治の神仏分離令で、八坂神社と福厳寺が
分離されるときに書いたと云われる。何故祇園林か、それは本家本元の八坂神社が祇園さんと呼ばれているからか。

 
            20番福厳寺参道                        「祇園林」
             福厳寺の地図
 薬師堂に入るとまず目に付くのは、薬師三尊の両側の棚に並べられている無数の地蔵たちだ。
これは徳川家康と武田信玄が戦った三方原合戦の戦死者を供養する千体地蔵とか。それにしても凄い数だ。
三方原の戦いと云えば、家康が三方原の戦場から浜松城に逃げ帰るときの逸話が残されている。
「徳川軍は三方原の戦いで武田軍に大敗。家康は命からがら逃げる途中、すっかり腹が空いてしまった。
空腹に耐えきれず家康は、近くの農家に飛び込み食べ物を求めたが、農家の老夫婦は
「今煮ているのは、粗末な粥で、とてもお侍にあげるようなものではありません」と断った。
しかし家康はそれでもいいと粥をもらい食べ終わった家康は「いずれ恩返しをする」と言い残し走り去って行った。
その後天下を取った家康は、その老夫婦を召し出し、お礼にと「小粥」(おがい)の姓を与えた。
後に小粥家は庄屋を務め家は大いに栄えた。小粥の家紋は丸に二引。これは粥を食べたとき、茶碗の上に
箸を置いた形だという。」
浜松の伝説より
 福厳寺にはその小粥家の子孫の墓があると聞いたので墓地に行ってみると、有りました。
確かに家紋は丸に二引で、名字は小粥家。話が本当か嘘かは分からないが上手くできている話だ。

 福厳寺の薬師如来は少し剥離しているが風格を感じる仏像だった。また、仏像の下の岩のような台や、三尊の
後ろには踊るような形の十二神将たちも趣がある。古い時代の仏像なのだろう。

 ご朱印を貰うとき昼飯を境内で取る許可を貰った。すると住職がポットに入ったお茶と茶碗、それにミカンを
持ってきてくれて 「寒いのでお堂でどうぞ」 と招いてくれた。
さすがそれは断ったが、お茶とミカンは有りがたく戴いた。ありがとうございました。

  
           千体地蔵                  薬師三尊                小粥家の墓

                         25番白華寺(坂上田村麻呂)
 相変わらず冷たい風が吹き荒れている。幾ら歩いていても体は温まらず、今日もトレーナーもジャンパーも
脱げないでいた。時折太陽が隠れる事もあったが雨の恐れは無さそうだ。ところがどうした事か急に辺りが暗く
なってきたか思ったら雪が落ちてきた。いや違う舞ってきた。いやこれも違う。ぶつかってきたが相応しい。
ともかく小さな雪が風に飛ばされ猛烈な勢いでぶつかってくる。風花?かもしれないが遠くから舞ってくる感じ
ではなく、上空の黒い雲から降ってくるのだから雪なのか。
 今日の降水確率は20%なので当然合羽は持ってきていない。折り畳みの傘は持っているが、こんな風の中では
さすことは出来そうもない。雪の降るのは今年初めて見るので嬉しいが、何と云っても場所が悪い。早く止む事を
願うしかない。
 それから5分後に白華寺に着く頃には雪は止んで陽が射してきた。黒い雲は無くなっていたので、あれが雪雲
だったのか。雪が降り続けば困るくせに何か惜しい気がした。

 25番白華寺(はっかじ)は朱色のお堂だった。境内の案内板を見ると
「平安初期征夷大将軍坂上田村麻呂東征のみぎり、遠江国岩田の海に赤蛇が住み、渡海の旅人に危害を加えていた。
田村麻呂将軍は住民の難渋を救うべく、遠江国小笠郡の潮海寺より薬師如来を歓請し、当地に薬師堂を建立し祈願。
佛力に依り赤蛇は将軍の子を産み、形見として将軍に預け、以後岩田の海の航行往来の安全を約し、二俣鹿島の
椎ヶ脇の渕に沈むと伝えられる。 境内には田村麻呂の子・二代将軍俊光公誕生の産湯の池があります。」

 坂上田村麻呂は日本武尊より馴染みが無いが、富士宮浅間大社を山宮から現在の場所に遷宮した人物として記憶
にある。その将軍がここでは蛇退治をして二代目の子供を産んでいたとは。
早速二代将軍俊光公を調べてみると アレーヒットするのは白華寺と浜松周辺の場所ばかりだ。
しかも将軍の子孫を調べても俊光公なる人物はいなかった。
マー当然といえば当然の話か、赤蛇は将軍とは契りも交わさず子を産んだりと、神話の域を出ないのだから。

 それでもこの辺りの昔話に何かないかと探していると「中遠昔ばなし 袖ヶ浦由来記」にこんな話が載っていた。
「遠江国岩田梅袖ヶ浦で、村人を苦しめている赤蛇の話を聞いた坂上田村麻呂は、船岡山(現浜松市)の館で赤蛇
退治の作戦を練っていた。そんなある夜、美しい女が館をたずねてきた。
 将軍はその女を館におくが、日を送るうちに女に魅せられ、いつしか情けを重ね女は身重になった。女は将軍に
「お産の最中は絶対に部屋の中を見ないでください」と言ったが、将軍は七日目になると好奇心から中を覗いて
みると、そこには大きな赤蛇が赤ん坊を真紅の舌で嘗めていた。
 驚いた将軍が中に入ると赤蛇は女の姿にもどり、自分は袖ヶ浦に住む大蛇であると打明け、赤ん坊に千珠の玉を
握らせると自分は岩田の海に姿を消した。
 それから後、赤蛇丸と名付けられた子は俊光と改名され、再びこの地を田村麻呂と訪れると、岩田の海が大荒れ
しているところに出くわした。俊光が母の形見の千珠の玉を海に投げ入れると海は静かになり、水が引くと渕に
あの赤蛇がいた。将軍父子は、いたわるように上流にある椎河脇の渕に赤蛇を移した。」

へー「部屋の中を見ないでください」なんてまるで夕鶴の一場面のようで中々面白い。白華寺の話と若干違いも
見られるがマーいいだろう。面白ついでに、両方の話に出てくる「椎ヶ脇の渕」も探してみると、天竜川の上流の
鹿島に「椎ヶ脇神社」があり、その由来書にこんな事も書いてあった。

「椎ヶ脇神社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷反賊の征伐のため下向の折、天竜川が洪水氾濫し、磐田の海と
重なって大海となった。東岸に渡ることも出来ず困っていた。その時、住民が筏を作ると将軍は大変喜ばれ、
この地で減水を祈った。これが現在の椎ヶ脇神社祭神である。」

 こちらには坂上田村麻呂が登場するが、赤蛇は出てこない。そのためか昔話というより史実と云った感じがする。

 探しついでに袖ヶ浦由来記にあった浜松の「船岡山」も探してみると、船岡山の案内板にはこんな説明が。
「坂上田村麻呂が蝦夷地で起きた反乱を平定しての帰りに、天竜川袖ヶ浦の西岸の舟岡山にしばらく滞在した。
その間に里の美女との間に子供をもうけた。だがその美女は実は袖ヶ浦に住む大蛇の化身であり、ある日その
正体を田村麻呂に見られたので、子供を残して渕に姿を消した伝説がある。」

矢張りここにも蛇の話が伝えられていた。

 赤蛇伝説はまだまだ続きがあるが今回はこれにて終了。天竜に行けばまた続きの伝説が有るかもしれないから。

         
           雪が降っているのだが                    25番白華寺
               白華寺の地図
 アラアラ赤蛇が龍に変身したのか、頭上に龍を掲げた木彫りの観音さんがいた。
昭和63年に奉納されたものだが、それならせめて龍だけでも赤くした方が面白かったのに。

 赤いと云えばおびんづるさんは何故赤いのだろう? ここのおびんづるさんは破顔一笑の好々爺の趣で中々良い。
でも何処を撫でようか、撫でなければならない所が多すぎるので全体になってしまう。マー止めておこう。

 浜松市の保存樹になっている大杉。樹齢600年とあるがそれほど古木とも大木とも思えなかった

  
       龍女菩薩               おびんづるさん              大杉

遠江四十九薬師霊場2-2

2014-03-22 15:33:43 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         22番心造寺(西郷局)
 大厳寺を過ぎても西側は全てJR関連の土地のようで、この中に新幹線の浜松工場があるのだろうか。
太い雄踏街道を越すと道は賀茂真淵記念館に向かう急な坂になった。短いけどかなり急な坂を登りきると、
記念館の入口と別れるのだが、今日は当然寄る気は無い。だいたい賀茂真淵と云う人も、江戸時代の国学者で
万葉集の研究者、程度の知識しかないし、浜松出身の事も何となく知っている程度だ。

 時折東の方向にアクトタワーが見えるのだが、木や屋根が邪魔をして写真を写す事が出来ない。前回の遍路では
北に見えたタワーだが今回は東に見える。それが今日の終わりには南に見えるだろう。この様な目標物が有ると
自分の位置関係が分かるので歩き甲斐も増す。

 オヤ真っ赤な神社風な建物が見えてきたが、あれは一体何だ、と手持ちの地図を見るが載っていない。ただその
奥の方に鴨江寺と書いてある。若しかして?と思い近づいてみると鴨江観音だった。地図上では歩く道と鴨江寺の
卍マークは離れているが、これは鴨江寺が広い境内を有しているからで、実際は歩く道とは隣接していた。
鴨江寺は前回紹介した比叡山の僧兵と騒動を起こした事もあり、一度寄ってみたいと思っていたが、想像していた
真言宗鴨江寺と、今見ている鴨江寺とは大きな隔たりを感じた。それでも赤い山門を潜り境内に入ると、またもや
赤い大きな建物がある。これでこの寺への興味は半減してしまい早々に境内から出てしまった。

 私の親は家の近くの寺の墓地を購入したため、宗派を変えるくらいの無信心者だった。その子供の私も推して
知るべき程度だが、それでもスタンプラリー感覚の四国遍路をしたせいか、真言宗には親しみを持っている。
今も静岡県内の霊場巡りをしていて、山奥で真言宗の寺に出合うと好感を感じる。
 だが四国のお礼回りで訪ねた高野山で、大旅館のような立派なお寺の宿坊を見てガッカリしてしまった。最近も
高野山真言宗で投資による損失が問題になったり、朝鮮総連の建物を真言宗寺院の住職が落札したが不調に
なった問題も発生している。どうも真言宗は金持の観光寺と、貧乏な山寺がハッキリ分かれているのではないか。
そしてこの鴨江寺は金持の観光寺だ。と勝手な想像をしてしまった。

        
             鴨江寺成田山不動堂                アクトタワーが東に見えた

 22番心造寺は大きな五社神社の隣にあった。両側の建物が接近した狭い入口の奥に赤い山門が見えていた。
薬師霊場の看板は、1番で見た金属製の横書きの物は時々しか見なかったが、白地に縦書きの大きな看板は
大概の札所にあった。どちらの看板にしろ、それと赤い幟を見ると札所に着いたとホッとする。

 心造寺の開基は徳川秀忠の生母の西郷局で、寺の正式名称は「先照山西郷院心造寺」だという。
そして西郷局の戒名は「心造寺殿松誉貞寿大姉」となっていた。
しかし西郷局の墓は駿河百地蔵で寄った静岡市の宝台院にあり、宝台院のHPには戒名は「宝台院殿一品大夫人」
となっている。また「徳川将軍家墓碑総覧」には、当初「龍泉院殿松誉貞樹大姉」と贈諡され、その後息子秀忠が
二代将軍になったので、従一位の「宝台院殿松誉貞樹大姉」と改諡号されたとあった。

 さてさてどれが正しいやら門外漢の私には判断がつかないが、素人目には墓碑総覧の説が正しそうに思える。
しかし菩提寺の宝台院のHPが間違っているとは思えないし-------
たしか宝台院に寄ったとき見た西郷の局の墓には、戒名などは彫られてなかったと思う。

 本堂に祀られている薬師三尊をお詣りする。ここの薬師如来は小振りな立像だったが、それより気になったのは
三尊を祀る台に彫られていた丸に十の字の紋だった。この寺は薩摩に縁があるのか ---------

 
             22番心造寺                            心造寺の薬師三尊
               心造寺の地図
 心造寺の境内の横は切通しになった道を挟んで五社神社の社が見えていた。中々大きな神社で寺に寄る前に
見てきた神社の由緒書には「天正7年4月7日徳川秀忠公浜松城内にて誕生、産土神として崇敬し、社殿建立す。
大正3年国宝建造物に指定されるも、昭和20年戦災に依り焼失せり。」

静岡市もそうだが浜松市も戦災により街中は焼失してしまったようだ。

 心造寺の裏には名園があると案内されていたので、回ってみたが高い塀の扉は閉められていて中を覗く事は
出来なかった。代りに目に付いたのが宝珠を捧げ持つ地蔵さん。では穴地蔵かと思ったが、地蔵の他にも狐が
何匹かいる。お稲荷さん? かもしれないな。

 
              隣の五社神社                          穴地蔵?穴稲荷?

                         21番宗源寺(迷い道)

 心造寺の前の道を北に行くと太い道に合流した。その右側をみると大きな道路標識に天竜と方面とある。今日の
最終予定は天竜なので深く考えずに右の道を下る。更に少し下ると連雀交差点に出て天竜方面の左に曲がる。
この連雀の交差点は旧東海道の時に通っていて、その時はこの交差点を東から来て南に曲がったが、今日は
西から来て北に曲がった。賑やかな通りをキョロキョロしながら歩くと「浜松城大手門跡」の案内板もあった。
次の市役所前交差点に付近の案内図が建っていたので次の行先を探してみた。だがおかしい。心造寺を出る時
次の目印は開誠館高校と思ったのに、この付近や前方に開誠館高校は載っていなかった。そして手持ちの地図には
連雀も市役所前の交差点は無かった。ウーンまたもややってしまった。仕方ない最初に出合った太い道まで戻ろう。
 最初の交差点の紺屋町に戻り手持ちの地図を方角を合わせて置いてみる。アーアさっきは天竜の案内に誘われて
右に曲がったが開成高校は反対の左側方面だった。今日は朝一番い間違ったので注意をしようと思ったのに、又もや
やってしまった。今回の間違いは往復で1km程度で済んだのが救いだったが以後注意しよう。

 姫街道と表示があるこの道は、東海道の脇街道で浜名湖を迂回して三河の御油宿に通じる街道だ。
以前姫街道は磐田の見附宿から御油宿まで歩いたが、この浜松からの道は三方原の追分で見付からの姫街道に
合流している道で、云わば姫街道に通じる街道と言った感じの道だ。この道の行先は標識には引佐方面とあるが、
引佐も天竜も浜松の北にあり、まさか道が正反対に別れるとは思わなかった。

 姫街道を歩き出すと右側に変わったデザインのキリスト教教会が見えてきた。後には時計台も見えている。一応
写真を写して先に進むと、何と教会の隣は結婚式場の出雲殿だった。するとあの十字架の建物は結婚式場なのか。
産まれた時は神社に宮参りをし、結婚式は教会で、そして死んだときは寺でやる。私の宗教観もそうだが、日本人
全体の宗教観も少々狂っているようだ。

 姫街道と別れ、台地を下った所にある21番宗源寺は、木に覆われた参道の奥にあった。

        
           教会?式場?                      21番宗源寺参道
               宗源寺の地図
 宗源寺の境内の中には動物の顔を模した幼稚園のバスが2台も停まっていて、その横に赤い幟の並ぶ薬師堂が
ある。まず観音堂をお詣りして中を覗きこむと、赤い提灯が幾つもぶら下がっていて、中央にある5個の提灯には
「開運不動明王」
と書かれていた。その横は「南無弘法大師」とあり、一番外側の2個が「南無薬師如来」となっていた。
どうやらこの寺での薬師如来の地位は低いようだ。

 
              薬師堂?                       薬師堂内部

                         23番天林寺(十三哲)

 宗源寺の横にあった幼稚園は蜆塚幼稚園で、この辺りの地名は蜆塚。蜆塚遺跡の標識もあると云うことは、
あの悪名高かった佐鳴湖が近くにあると云うことか。佐鳴湖は何年か前までは汚染度全国ワースト1で有名に
なったが、最近では聞かなくなったので汚染は改善されたのだろうか。
マー何れにしろ遺跡も佐鳴湖も今日は行く気は湧かない。

 宗源寺から23番天林寺へは住宅地の中の細い道を辿って行った。途中西来寺や普門寺などの横を通るが、
藪だけで寺の建物は見えない。けれど随分広い境内のように思える。
住宅地の中の道が急に車が通れない道になった。本当にこの道だろうか心配しながら進むと、下には舗装路が
見えている。マーいいか、と狭い道を下って舗装路に降りると、そこはインターロッキングが敷かれた道だった。
遊歩道?かもしれないが少し行った先はトンネルになっている。その横には階段もあり上にも建物が見えていた。
地図は近くに浜松文芸館があるとだけ分かるが、階段やトンネルの表示は無い。ここでもマーいいか、でトンネル
を潜ってみた。トンネルの出口に「懐かしの奥山線」とあり軽便の写真が飾られていた。どうやらこの道は浜松
から引佐奥山を走っていた軽便鉄道の跡地なのだろう。
トンネルを抜けた先に浜松文芸館の標識があり、ここからホテルコンコルド、浜松消防本部など目標になる建物が
あり天林寺には容易に着いた。

 
             この道で大丈夫だろうか?                    奥山軽便鉄道跡

 イヤー!これは大きなお寺だ。天林寺のある高台に登りビックリした。山門は入母屋造りの楼門で、この様に
大きな山門は静岡県内では初めて見た。HPを見ると山門と本堂は市内随一とあるが、文化財の事は書いてない。
これは古い建物の一切が昭和20年の戦災により全焼してしまったからだった。
 天林寺のHPを見ると天林寺も宗源寺も曹洞宗で、途中にあった普門寺の門弟十三哲が開創の寺だった。
そう云えば中部地方には榛原に曹洞宗の石雲院があり、その寺の高弟七哲が全国に800の末寺を開いたと云う。
静岡県に曹洞宗が多いのは、この様に優秀な僧が多かったからなのだろう。

 
             天林寺山門                     23番天林寺
               天林寺の地図

 広い本堂の左側に薬師如来は安置されていて、その左には花山観音と弘法大師、右には手引観音なる仏像が
お祀りされている。厨子に入った座像の薬師如来と、厨子の扉に半分隠れれるように日光・月光菩薩がある。
何回も書いて申し訳ないが、曹洞宗のお寺になぜ他宗の教祖の像があるのか。このようにお祀りすということは
その人の教えを信じる、ということにならないのだろうか。どうも理解できない。
因みに弘法大師は「浜名湖岸 新四国八十八ヶ所 第五十番」、手引観音には「第二十七番 浜松手引観音」とあり
薬師如来には勿論「遠江四十九薬師霊場 第二十三番 真徳山天林寺」とあった。

   
        花山観音                 薬師如来                弘法大師

遠江四十九薬師霊場2-1

2014-03-20 11:54:42 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:8時間45分   休憩時間:3時間00分   延時間:11時間45分
出発時間:6時30分   到着時間:18時15分
歩  数:  53、832歩   GPS距離42.4km

行程表
 高塚駅 1:00> 17番 0:15> 18番 0:15> 19番 0:30> 22番 0:35> 21番 0:30> 23番
 0:20> 24番 0:15> 20番 0:30> 25番 0:55> 4番 1:05> 26番 0:30> 27番 1:30>
 岩水寺駅 0:35> 西鹿島駅

                         17番広隣寺(行き過ぎた)
 1回目の遍路で予定より3寺少なく終えてしまったので今日は始発電車で出発した。
高塚駅に降りると前回にも増して冷たい風が吹き抜けていて、震え上がってしまう。建物の陰に隠れて準備を
したが、こんな日は歩き出す意欲は盛り上がらざず気分は低調。
 今日の予定は終点となる駅の候補が幾つもあり決めかねていた。理想は今回の霊場の中で一番北にある
天竜阿蔵の30番まで打って、天浜鉄道の豊岡駅をゴールにしたいのだが、推定距離が42kになってしまう。
これでは実際の歩行距離は45kmを越えてしまう、と始発電車で来たのだが-------
 次の候補は同じく天竜の29番を打ち、天竜二俣駅がゴールだが、多分このケースになると思える。
最悪は28番岩水寺を打って二俣本町駅ゴールだが、マーこんな事にはならないだろう。
いずれにしろ家康の長男信康が切腹した二俣城は見学する余裕は無さそうだ。

 強い風は幸いな事に西風で、東に向かう私の背中を押してくれる風だった。昨夜の天気予報で
「最高風速は30mから35mで人が立っていられないくらいの風」と言っていたのに、何故か強風警報でなく
強風注意報だった。
 静岡県の遠州灘沿岸地方では強風注意報は左程珍しい事ではなく、冬の風物詩といったところだ。ただ
今日の風は強いだけではなく、3月半ばなのに冷たすぎる。お蔭で歩き出しても体は温まらず、ポケットに
手を入れ肩をすぼめ俯いて歩いてしまった。
 出発時に手持ちの地図で17番広隣寺の場所を確認すると、線路と平行に続いている道を東に進み、太い
道に出たらその道を横断し、少し南側の道を暫く行った所にあった。太い道の手前には可美小学校がある。
寒いので自然と歩きは早くなる。だが一向に可美小学校が出てこない。何故だと疑問に思いだした頃ようやく
太い道に出合った。きっと俯いて歩いていたので小学校を見落としたのだろう、と太い道を横断する。
南寄りの小道に入って少し進んだが、手持ちの地図と実際の道とではカーブの曲がり具合が一致しない。
更にもう1枚のメモを見ると、高塚駅から広隣寺までは1.9kmとなっている。だとすれば20分も歩けば着く
はずなのに、既に駅から40分も歩いている。これはおかしい。絶対間違えたのだ。とスピードを緩め、誰か
いないかキョロキョロしながら歩く。幸い玄関先を掃除している女性が目に付いたので、挨拶をして広隣寺の
場所を聞くが知らないと言う。では可美小学校はと聞くと「ズート西」だと言う。困った顔をした私の手元の地図を
見た女性が「アラこの二ツ御堂は、ここから西に行った所に有りますよ」と言いだした。ナニー 二ツ御堂は
広隣寺の次の札所で広隣寺より東にある。それが今いる場所は、その二つ御堂より東側だという。
寒いからといって俯いて歩いていた罰が当たってしまった。情けない。

 二ツ御堂の場所を聞き、そこから逆に広隣寺に行く事にした。
横目で次の次の札所を見ながら西に向かう馬鹿らしさ。戻り始めて20分ほどでようやく広隣寺着いた。
多分距離にして往復3k位はロスをしただろう。これで今日予定の豊岡駅ゴールは消えた。

    
  何故かマンホールの蓋の絵柄がツバメだった                 広隣寺
               広隣寺の地図
 時刻はまだ7時半で早かったが、ご朱印をお願いして本堂でお詣りをさせてもらった。本堂に祀られているのは、
薬師三尊と十二神将で、他の寺と同じだったが、違うのは薬師如来が座っている事だ。しかもその姿は男性的で
いかにも仏様、如来様といった感じがする。予備知識では薬師如来は座位で菩薩は立位とあったが、今まで
お詣りした薬師如来は全て立位だった。そのため菩薩と同じような感じで、如来と云うより観音さんの雰囲気が
強かった。何故如来の立位が多いのか考えてみたが、多分お祀りしてある場所の関係ではないか。
如来を座位にして隣の菩薩より大きくするには横幅を広くしなければならない。その点、立位なら上に延びても
横は左程広がらないので場所を取らない。狭い沙弥壇のでは立位の方が都合が良いのだろう。

 

                         18番二ツ御堂(言い伝え)
 先程歩いたばかりの国道1号を逆戻りをして18番二ツ御堂に行く。この道は旧東海道なのだが国道1号線と
なったため過日の面影はないが、それでも所々に名残の松が残っていた。
 18番札所二ツ御堂には奥州の覇者藤原秀衛と愛妾の話が伝えられていた。
「平安時代末期藤原秀衛が京に参内したが大病を患ってしまった。それを聞いた愛妾が京に向かって、この地を
歩いているとき秀衡の悲報を聞いた。嘆き悲しんだ愛妾はここにお堂(北堂)を建て秀衡の菩提を弔っていたが、
自身もここで死んでしまった。だが秀衡の死は誤報で、秀衡は病気が回復し奥州に戻る事にした。そしてここを
通った秀衛は愛妾の話を聞くと感激して街道を挟んでお堂(南堂)を建て薬師如来を祀って愛妾を弔った」
という。
フーンでも死んだ人に病気回復の薬師如来では少々遅すぎるのではないか、と茶々を入れたくなる。
 15番地蔵寺から18番の二ツ御堂まで札所の宗派が連続して臨済宗方広寺派だった。さすが地元だけの事はある。

 
              二ツ御堂(南堂)                        二ツ御堂(北堂)
              二ツ御堂の地図

                         19番大厳寺
 19番大厳寺(だいごんじ)へは二ツ御堂から旧東海道を歩く。途中に江戸から66里目の一里塚や天台宗と
真言宗の僧兵が争った場所に「鎧橋」の案内板も建っていた。それによると
「平安時代末期に戒壇設置の件で、比叡山の僧兵が地元の鴨江寺を攻めて来た折に、鴨江寺の軍兵がここで
鎧を着用して迎え撃ったという。その時の双方の戦死者千人を鎧橋の近くに葬ったと言い伝えられている。」

この中にある戒壇設置とは「戒律を授ける(授戒)ための場所」だそうだが、簡単に言えば「僧の資格を認める
機関」
ではないか。日本では最初は国分寺が僧を管理していたが、822年勅許で延暦寺に戒壇が建立された。
そのため延暦寺では既得権を守るため他派とたびたび騒動を起こしている。
鴨江寺も「平安時代には三百余の寺々があり勅許を得ずに戒壇を作り殷盛でした。このため比叡の僧と戒壇の
ことで争い戦をした」
と伝えられています。

 旧東海道と別れ新幹線のガードを潜ると広大な敷地に「西浜松駅」の看板が立っていた。西浜松駅は初めて
聞く名前だが、きっとJRの貨物駅なのだろう。浜松は静岡県一製造業が盛んで、車やバイク、楽器など日本を
代表する工場があるのだから大きくて当然なのだろう。
次にあった在来線のガードを潜りぬけた所に大厳寺はあった。だがその山門は閉じられていた。ウンどうしよう?
一瞬困ったがよく見れば通用門が開いていた。アー助かった。
通用門から境内に入ると正面に宝形造りのスッキリとした水色の屋根の本堂が見える。庭園もその本堂にマッチ
した植込みだった。この寺も蘇鉄が植えられていた。

 
              大厳寺山門                           大厳寺本堂
              大厳寺の地図
 本堂に上がりお詣りをしたが薬師如来は見当たらず、代わりにあったのが写真の仏像。
残念ながら名前は分からないが、左側の仏像は装飾の無い衣や螺髪、白毫があるから如来と思のだが。
一方右の仏像は宝冠を被り、右手に水瓶、左に宝珠を持っているが何観音か分からない。
幾度となく霊場巡りをしているが、実際に仏像をお詣りする機会は多くないし、靴を脱ぐのが面倒で自らその
機会を放棄する時もある。こんな事では一生仏様の名前は覚えられないだろう。

          


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 昨日(19日)4回目の遠江49薬師霊場巡りに行き結願しました。

遠江四十九薬師霊場1-5

2014-03-16 17:14:44 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         14番成金寺(馬頭観音)
 14番成金(じょうきん)寺は馬込川の左岸にある寺で遠州33観音の札所にも指定されている。そう聞けば
何やら古刹を思い浮かべるが、実際は寺名の別読みの「なりきん」寺の方がイメージに合う感じがした。
何しろ冠木門を潜り境内に入ると右側に半跏座の地蔵が鎮座している。その地蔵の名前は「財宝地蔵」とある。
成金寺の財宝地蔵とくれば一攫千金を夢見る金の亡者の信仰を集めそうだ。地蔵さんを良く見れば前回来た
時には無かった金色の鐘が増えている。これは大儲けして成金になった信者が寄進したのかも。(ご免なさい)

 沙弥壇の上には薬師三尊と十二神将、他にも多聞天や広目天、増長天、持国天などの四天王も並んでいる。
後で知ったのだが、この寺には他にも馬込川から出土した一木造の観音像も安置してあるという。残念ながら
見過ごしてしまった。

 
               成金時山門                         薬師三尊                  
               成金寺の地図
 この寺は昭和29年に火災にあった以後、昭和50年代に本堂が建てられるまでは荒れ放題の寺だったという。
それが今では本堂もさることながら、境内に置かれた数々の石像。それにも増して立派なのは境内左手にある
「七観世音堂」だった。その中には千手観音を初め、馬頭、十一面、聖、如意輪観音など七観音が安置してある。
それも自然石をくり抜き、浮かし彫をしてある石像で見応えがある。中でも馬頭観音は、ここの馬頭観音と道端で
良く見かける馬頭観音とは、まるで違う観音様のように見える。
馬頭観音を調べると「像容は忿怒相で体色は赤、頭上に白馬頭を戴き、三面三目八臂」(ウィキペディア)とあるが
ここの馬頭観音は彩色こそ施されていないが後はその表現通りだった。普通道端の馬頭観音は頭上に馬の顔が
あるので馬頭観音と分かるが、観音さんの顔立はおとなしい感じのものが殆どだ。しかもその設置する目的は、
当時、馬は移動や運搬に使われる貴重で高価な財産だった。その馬が死ぬと馬頭観音を祀り供養をしていた。
故に顔立ちは他の観音と同じように、穏やかな表情の方が似合っていたのだろう。
 しかし本来の馬頭観音は「衆生の無智や煩悩、諸悪をまさに大食の馬の如く食らい尽くす菩薩である」らしい。
それなら忿怒相なのも納得できる。だがあの小さな石仏に怒った顔の観音さんを彫るのは難しかったのだろう。

 
               七観世音堂                         馬頭観音

                         16番富春院(竜宮城)
 16番富春院の山門は竜宮城の門を思わせる感じがする。こんな山門を四国霊場でも見た事がある。そうだ
土佐の津照寺(しんしょう)だ。何故記憶にあるかというと、あの寺の住職が特徴がある人で、納経帳に記入
しながら常に1番札所霊山寺の悪口を言っていた。曰く「遍路は1番からやらなくてもいい」とか「お礼回りは
1番ではなく高野山に行けばよい」
などと。聞いていると面白が時々話を振ってくるので油断はできなかったが
ここ富春院はどうだろう。
 この門のような形は楼門と呼ぶのだろうか、それとも鐘楼か。いや2階には鐘が見えないので楼門ではないか
など自問自答しながら境内に入ると、この寺の境内も石仏にオンパレードだった。
その中の「高祖弘法大師像開眼供養塔」と書かれた像は、弘法大師お馴染みの網代笠をかぶった像だった。
こんな像があるならこの寺の宗派は真言宗だろうと思っていたら、何と臨済宗だった。本当によく分からない
何故臨済宗が真言宗の教祖の像をお祀りするのだろう。

 
               富春院山門                         富春院本堂
               富春院の地図
 境内には石仏が多かったが本堂の中にも仏像が所狭しと並べられていた。余りに多すぎて雑然と感じがして
結局薬師如来の印象は無くなってしまった。果たして拝観したのかどうか-----

 
                              富春院の仏像達


                         15番地蔵院
 15番地蔵院はこの霊場の一番西に在りJR高塚駅の近くにあった。今日の予定は地蔵院も入れて後4寺
残っている。時間は4時25分でここをお詣りすれば4時半を回ってしまう。さてどうしよう。
ご朱印を貰うには5時までには札所に着かなければならないが、とても3寺は廻りきれないだろう。と言って
1寺行くにしても高塚駅から離れて浜松駅に近づいてしまう。そうなると次回は今日帰る道をまた浜松駅から
歩かなければならなくなる。エイ!止めた。今日はここで打ち止めにしよう。

 山門前には旧可美村で建てた案内板があった。それによると地蔵院は臨済宗方広寺派で、徳川家康の正妻で
家康の嫡男の信康を産んだ築山殿の守り本尊「築山御前腹篭地蔵尊」があるとなっている。
この霊場巡りでは信康が切腹をさせられた二俣城の横を歩くので、時間があれば寄ってみたい気はしている。
そしてその信康の母親の持っていた地蔵尊なら、お詣りして行こうと思った。
 山門も本堂も庫裏も完成間際のように新しく、その所為か境内までは手が回っていず芝生を張ってあるだけだ。
それが却ってスッキリした感じがした。でも続けて石仏が一杯ある寺を見てきた目には、少将淋しい感もしたが。

 
               地蔵院山門                          地蔵院本堂
               地蔵院の地図

 本堂に入り薬師三尊の閉められている厨子の前でお詣りをしていると住職が厨子の扉を開けてくれた。
姿を見せた三尊は金色の仏像でこれも新しい仏像のように見える。私の購入した「薬師のあるふるさと遠江」
には、「むかし浜の猟師の網に掛かった薬師如来」となっているが、とてもそのような代物には見えない。
マーそれはそれとしてこの薬師三尊にお詣りしよう。
 住職に日光と月光の像の違いを聞くと「私どももよく分からないので持ち物で判断しています」との事だ。
要は菩薩が持つ蓮の葉の上の部分が、如来の側に行くように並べるらしい。蓮の葉の上にある光輪の中に
三足烏や兎が描かれていると言う説もあったが、ここからでは光輪の中は小さくて見えなかった。

  
         月光菩薩              薬師如来               日光菩薩

 天狗のお面が置いてあり、その立札には「半僧坊大権現」とある。これは地蔵院が方広寺派の臨済宗なので、
本山の奥山方広寺の守り神、半僧坊もお詣りしているのだろう。
 僧侶を描いた絵があるが、これは方広寺の開祖で後醍醐天皇の皇子の姿だろうと思っていたが、後で調べて
みると、この髭の僧侶は先代の住職だった。寺を改築した功労者だったのだろう。
 これはこれは、ここまで来ると仏様とは思えないが、立札も「薬師瑠」までしか読めない。下の部分は「璃光如来」
となっていると思うが、前の額が邪魔をして見る事が出来ない。これが網に掛かった薬師如来なのだろうか?
説明がないので分からないが、これがそうなら確かに新しい仏像も欲しくなるだろう。

  
         半僧坊大権現           先代住職               薬師如来木像

 地蔵院を出て高塚駅に向かい4時45分到着。
今日は一日中寒い日で、しかも冷たい風が吹き荒れていてトレーナーもジャンパーも脱ぐ事が出来なかった。
今までも一日中こんな格好で歩く事はなかったのだから、いかに寒かったと云うことだ。
それでも高塚駅では冷たい氷結で無事終了の乾杯をあげる。途中で地図を風で飛ばされてしまい、苦労を
したが代替の地図で何とかなった。
これを薬師如来のお蔭とは言わないが、色々な偶然が助けてくれている。感謝!感謝!だ。

遠江四十九薬師霊場1-4

2014-03-15 16:56:20 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         11番龍谷寺(鉦)
 次の龍谷寺への道は大きな案内図と寺の所在地のメモに頼るしかなくなった。そうして出した結論は10番から
先ずJR天竜川駅を、次に新幹線の線路を目指し南下する。新幹線を越した所で飯田小学校を聞いてから、その
近くにある龍谷寺を目指す事にした。注意するのは決して国道1号線バイパスを越さないようにすることだった。
天竜川駅西側の歩行者用跨線橋を渡る前までは不安だったが、跨線橋を渡り太い道に出てからは快調になった。
新幹線のガードを潜り最初の交差点の所で飯田小学校の場所を聞くと「次の信号をを右折した所」だった。
ついでに龍谷寺も聞くと「小学校の前」にあると言う。言われた通り行くとあっけなく11番龍谷寺に着いた。
これならわざわざ手持ちの地図を作る必要も無さそうだと不遜な考えも湧いてきた。

 
                龍谷寺本堂                          龍谷寺薬師堂
               龍谷寺の地図
 遠江49薬師の赤い幟が林立する薬師堂をお詣りして、庫裏に向かうとその横に接待所があった。
中に入ると涅槃物が祀ってあり、その枕元に7段の鉦が立てかけられていた。鉦をそばにあった鉄の棒で叩くと
それぞれ違う音階で鳴る。だがドレミの音階とは違っていて、声明の時にでも使う鉦なのだろうか? 
声明といえば念仏でさえ複数の僧侶が併せて唱えると荘厳な感じになるのだから、節がある声明なら更に
敬虔な雰囲気になるに違いない。
以前読んだ小説に、京都大原では声明が盛んに行われていて、声明が行われる時は女性信者が大挙押し寄せ
騒ぎになっという。そして必然的に風紀が乱れ、結果声明は制約されたとあった。
昔も今も変わらないのは、女どもの芸能人好きだ。いや芸能人と云うより有名人好きなのだろう。
政治家やスポーツ選手何でも、時の有名人が好きなのだから始末に負えない。

 境内に白砂を敷いた一画があり、そこには小さな鬼が相撲をしているジオラマがあった。土俵の上には褌姿の
鬼が相撲を取っていて行司もいる。土俵の四隅には声を張り上げ声援している鬼たち。岩の上には雷なのか、
肩に太鼓を担いだ鬼もいる。一体これは何を表現したいのだろう。

 
                涅槃仏                           小鬼の相撲?

                         12番頭陀寺(胡瓜封じ)
 12番頭陀寺も同じ方法で歩く事にした。龍谷寺前の道を川を越すまで西に行き、川を越したら大きな交差点を
左折して南下する。今度は国道150線を越した所で相生小学校を聞いて、その近くの頭陀寺を探す予定だった。
それがどういう訳か川を渡る前に南下をしてしまい完全に現在位置を見失ってしまった。訪ね訪ねようやく頭陀町
に辿り着くと細い道の入口に「敕定額頭陀寺薬師如来 南西1丁」の碑が建っていた。意味は分からないがここから
西へ1丁(100m)も行った所に頭陀寺があるのだろう。フ-助かった。

 頭陀寺の門前には「頭陀寺薬師道」の石碑もあり、この辺りの地名は頭陀寺町なのをみると、かっては大きな
寺だったのだろう。調べてみると平安時代には真言宗の大寺で頭陀寺城と称されていたとある。海から引上げら
れた薬師如来は、時の天皇から勅額「青林山」を賜り「勅願寺」になる。その後「定額寺」にも指定されたとあった。
聞き慣れない言葉が色々出てきたが「勅願寺」とは「時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを
祈願して創建された寺」
これはなんとなく分かる。
「定額(じょうがく)寺」には色々説があるようだが、頭陀寺に相応しいのは「国家が寺号を“定”め、その寺名が
書かれた“額”が授与された“寺”院のこと」
(ウィキペディアより)とあった。
ただ「敕定額」は分からなかったが「敕(ちょく)」と云う字は「みことのり」の意味があるので、それなら
「国家が定めた事を天皇が認めた寺」と云う事なのか。何か重複する気もするが左程の違いは無いだろう。

         
        敕定額頭陀寺薬師如来                     頭陀寺山門
               頭陀寺の地図
 参道横には如何にも真言宗らしく弘法大師の立像が建っていて、横にはお地蔵とお不動さんが並んでいる。
本堂の横に廻ると「きゅうり封じ」の案内板と小さな浅い井戸のような物があった。
「古来より胡瓜には不思議な力があります。胡瓜封じとは、その胡瓜を自分の身代わりに見立て、邪気や病根を
護符と共に封じ込め持ち去ってもらう事です。胡瓜を切ると粘液ですぐ切口を塞ごうとしますので、邪鬼などを
封じた胡瓜は土に埋めるか川に流すなどして、速やかに病根などの消滅を願うものです。
 胡瓜に封じるのは、胡瓜が人間の立ち姿に似ている事と、胡瓜を輪切りにすると切口が転法輪に似ていること
からです。本尊は不動明王です。転法輪とは仏具の一種です。」
 
回りくどく行っているが要は胡瓜を身代わりにして、邪鬼を転生してしまうというのだろう。初めて聞いた話だが
この風習が広まらなかったのは説得力が少ないせいだろう。
小さな井戸は、この中に身代わりの胡瓜を埋めるようだ。なお、胡瓜の一願一本の祈祷料は千円だって。

 
                 頭陀寺本堂                          きゅり封じ

                         13番神宮寺(アクトタワー)
 14番神宮寺からは2枚目の地図に載っているので、もう目的地が分からなくなる事はないが、手持ちの地図を
見ながらだと逆に間違ってはいけないと細かい事が気になってしまう。
距離は若干伸びるがさっきの方法も悪くは無かった。

 途中に揚子公園と云う大きな公園があり、そこからアクトタワーが良く見えていた。今はアクトタワーは北の方角に
見えているが、今日の終わりには東に見えるだろう。そして次回は南の方角に見え、最終回の頃は西の方角に
見えるだろう。この霊場はアクトタワーを中心とは言えないが、天流川を中心にして分布しているようだ。
これは霊場が出来た江戸時代の浜松藩エリアで、東の掛川藩や南の横須賀藩には入っていない。

 神宮寺の前には大きな神社があるので、神宮寺はてっきり別当寺かと思ったが違った。
神宮寺の起源は三島出身の神官がこの地に移住した時に、前任地三島と同じように神社の後ろに寺を建てたのが
始まりという。そのため山号は三島山で前に立つ浜松神社とは何の関係も無いようだ。
私はてっきり前の神社は三島神社と思っていた。

 神宮寺の板塀と山門の後ろには鬱蒼とした木が生い茂り、山門の中心には祠に収まった石仏が見えていた。
なにやら落着いた風情のある寺で期待を持てそうだ。

 
               揚子公園からアクトタワー                    神宮寺本堂と薬師堂

 六地蔵の前に備えてある花は造花では生花だった。それぞれの地蔵の前には湯呑や線香立もある。中々面倒見の
良い寺だと思いながら次のお堂に行ってみると、中は雑多なダンボウールが積み重ねてあった。中にあった仏さんは
どうしたのだろう? ご朱印を貰いに庫裏に入ると、これはこれは物凄い。立錐の余地が無いとは、この事かと思わせる
ような状態に色々な物が積重なっていた。視線のやり場に困るような状態だったが女性は平然とご朱印を押していた。
山門や六地蔵で受けた印象とは正反対の風景に首を傾げてしまった。

 
               神宮寺の六地蔵                         お堂中は-----
               神宮寺の地図



    ----------------------------------------------------------------------------
 昨日(14日)3回目の遠江49薬師観音を廻ってきました。

遠江四十九薬師霊場1-3

2014-03-13 13:52:28 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         8番松林寺(青面金剛像)
 8番松林寺は天竜川を渡った浜松市中野町にある。冷たい強風に逆らいながら新天竜川橋を渡っていると
川の上流に雪を薄く被った山が見えていた。写真を写そうとジャンパーのポケットからカメラを取り出すと
紙が一緒に出たと思ったら風に飛ばされ遥か彼方に飛んでいってしまった。
ウー!ヤバイ! 地図が飛んでしまった。あの地図が無ければ札所に辿り着く事が出来ない。困った!
私は知らない街道を歩く時はヤフーの地図を切り貼りした地図を印刷して持ち歩いている。今日も1番から
12番頭陀寺までと13番から浜松駅までの2枚の地図を持ってきていたが、その1枚目の地図が飛ばされ
しまったのだ。
その中にはあと5寺分の地図が含まれている。ウーン!どうしよう。とりあえず次の寺は前の寺を出るとき
確認して、中野町の旧東海道の小学校の前にある事は分かっている。ともかくそこまでは行く事にしよう。

 橋を渡った所にあった「東海道 江戸と京の どまんなか 中野町マップ」を見ると8番と9番の札所の
場所も書いてあり、9番松雲寺は8番の近くで分かり易い所にあった。アー!助かった。
その案内板に中野町の事を紹介してあった。
「江戸の日本橋と、京の三条大橋を結ぶ東海道五十三次は全長500kmの道のりですが、中野町は丁度
その中間にある事から、江戸と京の真中の道「なかのまち」と名付けられました。」

東海道を歩いた時の中野町の記事はこちらです。

   
              新天竜川橋                          飛ばされた地図

 少し気が軽くなり旧東海道を歩いていると白壁を持つ松林寺はすぐ分かった。この寺は中々由緒のある寺で
引佐奥山方広寺の開祖後醍醐天皇の皇子 満良親王が南朝方の志士を募りにこの地に留まったとき、南朝方の
忠臣が道場を建ててお迎えしたのがこの松林寺の前身だという。
その後も江戸時代には代々将軍よりご朱印を受けていて、本尊の釈迦如来は徳川家康の寅年にちなんで寅薬師
とも言われ、寅年に御開帳しているという。

 ご朱印をお願いすると「寺の御紋が入ったお菓子をどうぞ」と言って打ち菓子をくれた。有りがたい今回の
遍路で初めてのご接待だった。食べると少し甘みのある懐かしい味がした。ありがとうございました。

 
              8番松林寺                     接待の打ち菓子
          松林寺の地図
 境内には百度石の建った延命地蔵、薬師堂、庚申・十王堂、弁財天を祀る心字池などがあった。その中で気を
引いたのが庚申・十王堂だった。案内には
「庚申様 271年前に建立された 病魔悪鬼を除き五穀豊穣を願う守護神」
少々引っ掛かる説明だがマー良しとしよう。それより堂内にあった庚申塔が素晴らしかった。
中央に立つ一面十臂の青面金剛の腕は、合掌する二手に宝珠を持つ二手。右手には三叉鉾、矢、金剛鈴の三手。
左は宝輪、弓、宝棒の三手で合わせて十手。
脚の下には踏みつけられている一邪鬼。その下の土台には三猿がいる。さらに雄鶏、雌鶏もいるし上には日輪、
月輪もある。オッと青面金剛の髪は炎髪のようだ。
これだけ庚申塔の条件を満たした石仏は初めて見た。これまでは塩の道を歩いて遠州水窪で見た庚申塔が一番
だと思っていたが、それ以上にこの庚申塔の方が素晴らしい。お堂の中にあるので保存状態も良好だ。
静岡県ではあまり見かけない庚申塔なので一見の価値はあると思う。

 一方十王堂の案内板にはこんな事が書いてあった。
「十王像 閻魔王を中心に冥界にある亡者の罪業を裁断する十人の主であって143年前に発願建立。
十王像は一般には木像が多いが当山は石像であり稀に見るあらたかな十王様である」

堂の中を覗くと王冠を被った何体かの石像が見える。あれが閻魔さんや十王なのだろう。
それにしても3番金台寺では閻魔や奪衣婆が地獄の裁判官だったが、ここでは閻魔と十王が裁判官だとある。
どちらも間違っていないと云う事は融通無碍な宗教感を持つ日本人らしいと云う事か。

 朱の塗料が残っている座像は弘法大師像か。右手に金剛杵、左手に数珠を持っている。
アッ! この松林寺は満良親王の関係で奥山方広寺派の臨済宗だ。ならば弘法大師ではないだろう。

  
        青面金剛                弘法大師像?             十王像等

                         9番松雲寺
 9番松雲寺は東海道を西に進み金原明善の生家の手前を左に曲がった所にあった。途中には案内板もあり
今日寄った中では一番分かりやすかった。アー良かった。

 境内の参道には苔むした地蔵像が祀られていて、今はやりの艶やかな色の造花が供えられていた。
工事中なのか大工が出入りしていて寺の女性がお茶の準備をしていた。ご朱印をお願いして本堂でお詣りしたが
なんの記憶も残っていない。きっと次の道順が気になり気もそぞろだったのだろう。

 
                   9番松雲寺                    薬師如来祭壇
                松雲寺の地図
                         10番安正寺
 サー次の10番安正寺への道が皆目わからない。休憩を兼ねてザックの中から無料でもらった霊場の参拝案内を
取り出す。尺図は分からないが縦30cm 横60cm位の地図で、西は浜名湖から東は袋井市までと北は天竜までが
表示されている。遍路をしていると今自分がどの辺りを歩いているのか見当がつかなくなったり、次の札所がどの
方向にあるのかも分からなくなってしまう。そのため今回はこの地図を持ってきていた。
 地図で見ると次の寺は国道1号バイパスの先で旧国道1号沿いにあるようだ。近くに「文」のマークがあるので
学校があるのだろう。ともかくバイパスと学校を目指して進むしかない。

 旧東海道に戻り西に進み金原明善の生家と記念館の前を通る。ここもいつかは寄ろうと思っているのだがいつも
素通りになってしまう。特に遍路のときは立寄りヶ所が多くて時間が気になり寄る事はない。
姫街道の入口に案内板が建っている。ここ中野町は街道の保存に熱心で色々な所に案内板があって東海道を
歩いたときは興味をもって見て歩いた。ただ不思議な事はこの町内にある「安間の一里塚」には表示杭が1本立って
いるだけで案内板も無い。折角「江戸と京のどまんなかの中野町」と紹介しているのだから、その一里塚に案内板が
無いのは淋しすぎる。東海道を歩いた時ここの一里塚に期待を持って来たのだがガッカリしてしまった。

 
             金原明善生家                       安間の一里塚跡

 バイパスを越したら予定通り和田小学校が出てきた。ここから脇道に入るのだろうと適当に入って行くと左の
方に寺の屋根らしき物が見えた。案外簡単に10番安正寺に到着。
ご朱印を貰うべく庫裏に行くと貼紙がしてあった。「ご用に方は電話してください」だって。仕方ない諦めよう。
ここも他には記憶は無い。

    
                       10番 安正寺
               安正寺の地図   

遠江四十九薬師霊場1-2

2014-03-12 17:10:18 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:6時間30分   休憩時間:3時間15分   延時間:9時間45分
出発時間:7時00分   到着時間:16時45分
歩  数:  41、403歩   GPS距離29.8km

行程表
 磐田駅 0:15> 1番 0:20> 2番 0:10> 3番 0:20> 5番 0:30> 6番 0:25> 7番 0:40> 8番
 0:05> 9番 0:25> 10番 0:35> 11番 0:35> 12番 0:30> 13番 0:10> 14番 1:05> 16番
 0:20> 15番 0:05> 高塚駅

                         5番正醫寺(萬能)
 4番札所は廃寺となり今は札所が変更してとんでもなく別の場所になってしまっている。今回の遍路も出発
だけは1番からとして、後の順番は拘らない事にした。よって4番のお詣りは今日は省略。
3番から5番正醫(しょうい)寺に行く跨線橋を見て思い出した。この道は遠州33観音の札所でもある正醫寺に
行く時に歩いた道だ。今回も同じ道を歩くのでは面白くないと道を変えて失敗してしまった。
跨線橋を渡り太い道を直進すると「日本アルコール産業KK]なる工場があった。そう云えば磐田には専売公社の
煙草工場があった。このアルコール工場もその専売公社の別れなのか? ウーン専売公社の専売品は煙草と
塩でアルコールも入っていたのか、など考えながら歩いていて左折する道を通り過ぎてしまった。
それに気づいたのは次の交差点のライススタンドなる片仮名の米屋を見て、ここは旧東海道だと思いだした。
今更戻るのも馬鹿らしいので暫く東海道を歩いてから右折して正醫寺に向かう事にした。
これで1km弱は遠回りをしただろう。時間にして10分か。マーこの位は仕方ない。

 正醫寺の境内には可愛らしい六地蔵が小さな舟型の石碑に彫られていた。もっと大きく六地蔵が三段なのは
何度か見ているが、このように横一列なのは珍しい。
本堂で般若心経を唱え終えると住職が「この寺の山号は東光山と云いますが、これは釈迦如来様の東方瑠璃光
からきています。寺の正醫はお薬師さまが医の仏様ですので名付けられました」
と説明してくれた。
こんな風に住職が説明してくれるのは珍しい事で私にとっては嬉しい事だ。

 
               正醫寺                           六地蔵
               正醫寺の地図

 ここでのご朱印は49薬師と前回ご朱印を押さなかった33観音を合わせて押してもらうと、
「朱印帳が別々なので申し訳ありませんが薬師さんが200円で観音さんが100円の300円になります。」
これでようやく今回の薬師巡りの朱印料明確になり、1回200円で計1万円朱印料が掛かる事になる。
この正醫寺の御朱印帳を家で見て疑問が湧いてしまった。49薬師には「萬能薬師」。33観音は「萬能観音」
なっている。写してきた写真をみると萬能観音の提灯が下がり仏像の手には薬壺は無かった。
それどころか事前に勉強した如来と菩薩の違いに照らし合わせれば、ここの仏像は全て如来を示していた。
頭部は頂上に盛り上がりがあるボツボツの渦巻状。衣は飾りのない質素な姿。しかも菩薩は基本的に立ち姿と
いうが、この仏像は座禅を組んでいる。印相は親指と人差し指を付けた説法印のようだ。
だとするとこの仏像は阿弥陀如来か。アーア もっと早く気が付いて住職に聞けばよかった。
イヤイヤ「萬能」と云うから観音菩薩になったり薬師如来や阿弥陀如来に変身をするのかもな。
 
 
               萬能観音                       達磨の屏風

                         6番林昌寺(完歩?)
 6番林昌寺は正醫寺から旧東海道に戻り西に向かい国道1号線と合流する北側にあった。1号線と合流地点
までは難なく行けたが、県道と国道の先に見える寺に入るに難渋した。何も交差点まで戻れば何でもない事だが
そこまで戻るのが面倒だ。そこで交通量の多い二つの道を強引に横断したが、きっと運転手は「だから年寄りは
困る」
と思っただろう。反省! イヤイヤ実行できない反省などはしても意味は無い。

 参道の入口に方形の屋根を持つ薬師堂があったが開かなかったので外からお詣りをして本堂に向かった。
タイミング良く洗濯物を干していた女性にご朱印を依頼すると本堂の中に招じられた。そうなっると再度お詣りを
しなければならない。こんな事をしていると結構時間が掛かってしまう。札所の滞在時間は1番で12分、2番が
17分、3番7分、5番15分、6番14分掛かっている。ご朱印をするとほぼ15分は掛かる計算だ。今日は
予定している札所は18寺ある。もうそれだけで270分で4時間から4時間30分は掛かってしまう。
そして今日の予想距離は約33km。これを時速4kmで歩くと約8時間。合わせて12時間になってしまう。
昨夜計画した時は歩行距離だけを考えてお詣りする時間を考慮に入れなかった。しかも札所巡りでご朱印を
受けるときは遅くとも5時前までには最後の札所には行かなければならない。
ウーン! 困った。今日は観歩どころではなく完歩出来るかどうか怪しくなってきた。

        
                    林昌寺                        古仏
               林昌寺の地図
                         7番妙法寺(禁葷酒)
 7番松林寺は6番より北に向かい、有名な熊野の長藤の手前にあった。
その山門の入口に「禁葷酒」の石碑が建っていたが土台は古いが石碑は新しそうに見えた。この「葷(くん)」とは
ニンニク・ネギ・ニラ・ラッキョウ・ノビルなど臭いがくさい野菜のことで、「酒」は誰でも知っている酒で私の大好物。
ついでに言えば葷の中のノビルは春に採れる野草なので、毎年採っては酒のつまみにしている。
だが山門の前にそんな事をわざわざ建てると云う事は、坊さんも反省はするが禁葷酒は中々守れなったのだろう。
そこで「有言実行」で檀家一同に宣言したのかな。
これが古い石碑ならそれで終わりだが、新しい石碑だと住職の考えを知りたくなる。

 ご朱印をお願いしたがお詣りの事は聞かれなかったので、これ幸いとばかりに本堂の前で礼をしただけで
終りにしてしまった。こんな事ではいけないと反省はするのだけど--------

   
       「禁葷酒」                妙法寺              道元禅師
               妙法寺の地図