不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『春と修羅 第三集』大正15年分より

2018-06-21 10:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
 さて、先に〝下根子桜(6/16、残り前編)〟において私は、賢治の詩〔ぢしばりの蔓〕に関わって、
    〈仮説5〉賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
が実質的に検証されたことに、そして、どうやらこれが本当のところだったのだということに気付く。賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)83p〉
と断定的に述べたが、それは何も私だけではなく、伊藤忠一も、吉本隆明も、そして賢治自身も似たようなことをとをそれぞれ語ったりしていた。

 ちなみに、下根子桜の宮澤家別宅の隣人で、羅須地人協会員でもあった伊藤忠一は、
 協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う。
           〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
と述懐しているし、吉本隆明はある座談会で、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。
           〈『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)18p〉
と語っている。
 そして当の賢治自身は、昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡(258)において、
 根子ではいろいろお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
           〈『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)〉
と記述しているから、
 いみじくも「羅須地人協会時代」における賢治の農民に対しての献身の実態が容易に窺えるし、「根子」における賢治の営為がほぼ失敗だったことを賢治は正直に吐露して恥じ、それを悔いて謝っていたのであろうことも窺える。
 するとそこから逆に、「羅須地人協会時代」の賢治は当時農家の大半を占めていた貧しい農家・農民のために徹宵東奔西走していたとは言えそうにないということが示唆される。もしそうしていたならば、これ程までの自嘲的な表現はしなかったであろうからだ。まさに、「宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなもの」だったという吉本の先の言説とこの自嘲は見事に符合している。
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)76p~〉
のである。

 そこでこれらのことを素直に受け容れれば、私は以前から、
 「羅須地人協会時代」の賢治が、農繁期の稲作指導のために徹宵東奔西走したということの客観的な裏付け等があまり見つからない。何故なのだろうか、どうも不思議だ。
とずっと疑問に思っていたのだが、この検証された〈仮説5〉によってほぼすんなりと疑問が解消した。
            〈上掲書83p〉
のであった。

 言い換えれば、これは至極当たり前のことだが、「羅須地人協会時代」に詠まれたのであろう『春と修羅 第三集』の詩を裏付けも検証もなしにそれらを安易には還元できないということでもあろう。賢治の詩と雖もあくまでも「詩」、なのだ。もちろん、賢治はそうは思ったかもしれないが、その通りに賢治が事を為したということの保証はこのままでは得られない。しかも、私のこの10年間ほどの実証的な研究結果からはその保証は殆ど望み薄である。

 まして、『春と修羅 第三集』の詩の中には賢治が貧しい農民たちのために献身したことを伺わせるものは実は案外少ない。ちなみに、以下が日付が大正15年分のものだが、
〈七〇六 村娘〉
〈七〇九 春 〉
〈七一一 水汲み〉
〈七一四 疲労〉
〈七一五 〔道べの粗朶に〕〉
〈七一八 蛇踊〉
〈七一八 井戸〉
〈七二六  風景〉
〈七二七 〔アカシヤの木の洋燈から〕〉
〈七二八  〔驟雨はそそぎ〕〉
〈七三〇 〔おしまひは〕〉
〈七三〇ノ二 増水〉
〈七三一 〔黄いろな花もさき〕〉
〈七三三 休息〉
〈七三四 〔青いけむりで唐黍を焼き〕〉
〈七三五 饗宴〉
〈七三六 〔濃い雲が二きれ〕〉
〈七三八 はるかな作業〉
〈七三九 〔霧がひどくて手が凍えるな〕〉
〈七四〇 秋〉
〈七四一 煙〉
〈七四一 白菜畑 〉
〈七四二 圃道〉
〈七四三 〔盗まれた白菜の根へ〕〉

これらの中で、貧しい農民たちのために賢治が為した稲作指導に関連しそうなものはせいぜい次の二篇
七一五      〔道べの粗朶に〕     一九二六、六、二〇、
   道べの粗朶に
   何かなし立ちよってさわり
   け白い風にふり向けば
   あちこち暗い家ぐねの杜と
   花咲いたまゝいちめん倒れ
   黒雲に映える雨の稲
   そっちはさっきするどく斜視し
   あるひは嘲けりことばを避けた
   陰気な幾十のなのに
   何がこんなにおろかしく
   私の胸を鳴らすのだらう
   今朝このみちをひとすじいだいたのぞみも消え
   いまはわづかに白くひらける東のそらも
   たゞそれだけのことであるのに
   なほもはげしく
   いかにも立派な根拠か何かありさうに
   胸の鳴るのはどうしてだらう
   野原のはてで荷馬車は小く
   ひとはほそぼそ尖ってけむる

七四〇      秋                 一九二六、九、二三、
   江釣子森の脚から半里
   荒さんで甘い乱積雲の風の底
   稔った稲や赤い萓穂の波のなか
   そこに鍋倉上組合の
   けらを装った年よりたちが
   けさあつまって待ってゐる

   恐れた歳のとりいれ近く
   わたりの鳥はつぎつぎ渡り
   野ばらの藪のガラスの実から
   風が刻んだりんだうの花
     ……里道は白く一すじわたる……
   やがて幾重の林のはてに
   赤い鳥居や昴の塚や
   おのおのの田の熟した稲に
   異る百の因子を数へ
   われわれは今日一日をめぐる

   青じろいそばの花から
   蜂が終りの蜜を運べば
   まるめろの香とめぐるい風に
   江釣子森の脚から半里
   雨つぶ落ちる萓野の岸で
   上鍋倉の年よりたちが
   けさ集って待ってゐる
              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
しか私には見つけられない。しかも、これでは還元どころか還元以前で、この詩から賢治が貧しい農民たちのために献身したということをずばり意味する文言すらない(なお、この「秋」については〝詩<秋>に「上鍋倉」が出てくる意味(追加改訂)〟も参照されたい)。
 そしてこの二篇以外の詩についてはその多くが、賢治の教え子小原忠が、
 櫻での生活は赤裸々に書き残されているのでそれを見れば一目瞭然で、過労と無収入のためかムキ出しの人間賢治が浮き出されている。
             <『賢治研究13号』(宮沢賢治研究会)5p>
と評している通りのものである。

 また、大正15年と言えば、稗貫も旱害がひどかったのだが、それ以上に、隣の郡の紫波郡では赤石村や志和村そして不動村などが未曾有の旱害に遭遇し、地元からはもちろんのこと、陸続と救援の手が遠く東京の小学生からのものも含め、他県等からも届いていた。
 よって、巷間伝えられているような賢治であったならばこんな時には上京などせずに故郷花巻に居て、地元稗貫郡内のみならず、未曾有の旱害罹災で多くの農家が苦悶している隣の紫波郡内の農民救援のためなどに、それこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたであろうことが充分に考えられる。しかしながら少し調べてみただけでも実際はそうではなかったことが直ぐ判る。なぜならば、12月中はほぼまるまる賢治は滞京していたからだ。しかも、上京以前も賢治はこの時の「ヒデリ」にあまり関心は示していなかったようだが、上京中もそのことをあまり気に掛けていなかったということが、当時の書簡等から導けるからだ。するとここで、次のような
  〈仮説3〉大正15年の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
が定立できることに気付くし、ここまで述べてきたことの中にはこれに対する明らかな反例はない。
             〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版)47p〉
ことを私は明らかにできたので、前掲の小原忠の表も宜なるかなと思わざるを得ない。そしてまた、『春と修羅 第三集』所収の大正15年分の日付の付いた詩篇の中に、賢治が貧しい農民たちのために献身したということを窺わせる詩をがないということも、またである。

 となれば、昭和2年や昭和3年の日付の詩の中からそのような詩、貧しい農民たちのために賢治が東奔西走したということを窺わせるような詩が見つかるのだろうか。 

 続きへ
前へ 
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、宮沢賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

〈鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉
をこの度出版した。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付された。
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題の本である。

 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大森山(6/19、この森でも悲... | トップ | 緒ヶ瀬滝(6/19、滝とトンボ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

「賢治研究」の更なる発展のために」カテゴリの最新記事