《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)
第3章 千葉恭の下根子桜寄寓期間
さて、千葉恭のあの「日」及び「期間」は今だもって確定出来ないでいる。いくつかのアプローチを試み、その結果いくつかの点が明らかになったとはいっても肝心のこのことには殆ど近付けないでいる。
千葉恭は松田甚次郎を直に見たことに
残念ながらこの時点でこの「日」及び「期間」に関してほぼ確かなことは、大正15年7月25日前後千葉恭は下根子桜の宮澤家別宅に寄寓していた、ということだけである。
そこでもう一度千葉恭に関連して、その時点までに入手出来た資料(以前列挙した【千葉恭関連文献】のリストの全て)を読み直してみた。すると次のような事柄が書かれている2つの資料が目に留まった。その一つは 「宮澤先生を追つて(三)」であり、その中には次のようなことが書かれていた。
詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>そして二つ目は 「羅須地人協会時代の賢治」であり、こちらには次のようなことが述べられている。
一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。
<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。
これらはいずれも松田甚次郎に関わるものであり、この最後の賢治から〝松田甚次郎も大きな声でどやされた〟とくれば昭和2年3月8日の訪問(後述する)のあのシーンが想起される。これでちょっとだけだが再び明かりがほのかに見えてきた。というのはこれらの資料から、
千葉恭は、下根子桜の宮澤家別宅寄寓中に、賢治の許を訪れた松田甚次郎本人を直に見ている。
ということが言えそうだからだ。こうなれば、松田甚次郎が大正15年4月~昭和2年3月の間(盛岡高等農林在学期間)のいつ頃何回ほど下根子桜に賢治を訪ねたかが判れば、あの「日」及び「期間」をある程度推測出来そうな気がしてきた。
続きへ。
前へ 。
”「殆ど無視されてきた千葉恭」の目次”へ。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます