みちのくの山野草

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昭和2年3月8日甚次郎下根子桜訪問

2019-03-06 08:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)

昭和2年3月8日の下根子桜訪問
 さて松田甚次郎が宮澤賢治を訪ねたといえば、まず直ぐに思い浮かぶのが昭和2年3月8日のことである。
 ベストセラー『土に叫ぶ』には
 その時のことを松田甚次郎は自著の、当時の大ベストセラーであった『土に叫ぶ』の巻頭で次のように述べている。
    一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
              <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
 したがって、松田甚次郎は昭和2年3月に賢治の許を訪れているということが自身の著書から判る。
 「校本年譜」には
 ではそれは3月の何日か。それについては「校本年譜」(筑摩書房)に
三月八日(火) 岩手日報の記事を見た盛岡高農、農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。「松田甚次郎日記」は次の如く記す。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
 9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
   [?]pple
 2.30. for morioka 運送店
…(略)…
             <『校本宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)>
とあることから、昭和2年3月8日であることが分かる。
 よってこれらの資料からは、松田甚次郎は友人須田と二人で昭和2年3月8日(火)の午前には旱魃に見舞われて困窮していた赤石村を慰問し、同日の午後には下根子桜の賢治宅を訪れていたといえそうだ。
 松田甚次郎に対する〝先生の訓へ〟
 そして、この下根子桜訪問の際に賢治から諭された〝先生の訓へ〟がその後の松田甚次郎の生き方を決めた。そのあたりのことを松田甚次郎は自著『土に叫ぶ』で次のように語っている。
 赤石村を慰問した日のお別れの夕食に握り飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和かな気分になつた時、先生は厳かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。…(略)…
 真人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覚の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
             <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
 そしてその後、松田甚次郎は賢治から言われたとおり本当に小作人(松田甚次郎の実家は豪農であったのに)となり、農村劇を幾度も上演し、黙ってそれらを十年間実践したというのである(因みにその実践報告書がベストセラー『土に叫ぶ』である)。このことに鑑みればなおさら、賢治の松田甚次郎に対する教訓の仕方は私にとっては正直意外であった。「そんなことでは私の同志ではない」という先に外堀を埋めてしまう賢治の論法、妥協を許さない強い姿勢は私が抱いていた賢治のイメージからはかけ離れていたからである。
 また、松田甚次郎が知っていたか否かは定かではないが、当時賢治は小作人になっていたわけでもないし、農村劇(農民劇)をやっていたわけでもないはず。なのにそれを他人に半ば強要していたとすれば賢治の教訓は当然アンフェアである。だから、私はあの賢治がまさかここまで言うか、とさえも思ってしまう。一方で、もしかすると賢治の教訓の仕方の真実はこれほどのものではなくて、賢治の言い方に対して松田甚次郎が自分の想いを織り込み過ぎて事実を多少粉飾した文章になっているのではなかろうかとも思ったりはするのではあるが…。
 千葉恭の受け止め方
 ところで、この時の賢治が松田甚次郎に訓示を垂れている様こそが、『イーハトーヴォ復刊2号』において千葉恭が、
    松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。
と語っているシーンを彷彿とさせる。そこでもしかするとこの場面を目の当たりにして千葉恭は〝どやされた〟と言っているのではなかろうか、と私は直感した。
 周知のように、この頃すでに賢治はそれまでのような旺盛な活動からは退却していったと言われているはず。この訪問日より1ヶ月強ほど前の昭和2年2月1日付岩手日報において、
と取材に答えていたという賢治であるが、この日を境にしてそれまでのような活動は下火になっていったと聞く。その後農民劇だけは着々とその準備をしていたということも考えられるが、賢治はその後農民劇を上演したということは少なくともなかったはず。一方、豊沢町の賢治の実家は当時10町歩ほどの小作地を有していた大地主と聞くが、松田甚次郎とは異なり賢治自身は小作人になっていたわけでもない。
 そのような状況下に賢治があったということを、もし千葉恭がこの頃も下根子桜の別宅に寄寓していたとすれば彼は承知していたはずだ。そうだとするならば、賢治の実態と松田甚次郎に垂れた〝先生の訓へ〟との間には乖離があるので違和感があると千葉恭は受け止めていたかも知れない。もともと千葉恭は冷静な考え方をするタイプだし批判的な見方も出来る人物のようだ<*1>から、この受け止め方が千葉恭をして〝どやされた〟という表現をなさしめたのかも知れない。もしそのような違和感を持っていなければ例えば〝強く諭された〟というような表現をすると私は思うからである。
 推論の欠陥と修正
 ここまで推論して来て私はこの推論の仕方にやや欠陥があり、迷路に嵌りつつあることに気が付いた。この様に推論出来るのは、
    〝もし千葉恭がこの頃も下根子桜の別宅に寄寓していたとすれば〟
という条件下で、であると思い込んでいたが、もう一度冷静に振り返って推論の仕方を修正する必要がありそうだ。
 そもそも私がなぜこのような考察をして来たかといえば、
〝千葉恭は昭和2年3月8日に下根子桜に賢治を訪ねて来た松田甚次郎を見ており、その時松田甚次郎が賢治からどやされた場面を目の当たりにしている〟
という仮説を実は持っていたし、その検証をしたかったからであった。そしてこのことが検証出来れば自ずから、
    〝千葉恭は昭和2年3月8日頃も下根子桜の宮澤家の別宅に寄寓していた〟
ということも言えそうだと思っていたからである。
 もちろん松田甚次郎が下根子桜の賢治の許を訪れていたのがこの一回だけであれば話しは簡単でこれで終わる。ところが、松田甚次郎はその他の日にも下根子桜の賢治の許を訪ねていてしかもその時賢治から〝どやされ〟ていたということがあれば、千葉恭が3月8日に下根子桜の宮澤家の別宅に寄寓していたということは保証出来なくなる。その他の日にも訪れていなおかつ〝どやされ〟たことがあれば昭和2年3月8日に千葉恭がその現場にいたという保証にはなり得ないからである。
 実際、松田甚次郎は『土に叫ぶ』ので出しで
    「その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した
と〝暇乞い〟に行ったと語っているのだから、この日(3月8日)よりも前にもそこを何度か訪れているということをこの表現は示唆しているような気もするし…。

<*1:註> 例えば、賢治のある講演会における話ぶりについて、千葉恭が賢治に対して「忠告」した時のことを次にように追想いているからだ。、
 話しぶりはむしろ詳細に過ぎるという具合なのでその点を(賢治に)忠告すると、「僕はそう思わないが」と言つておられた。
             〈『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)〉

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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