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《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)
さて、宮澤賢治の下根子桜時代はずっと「独居自炊」だったわけではなさそうだ。その時代に一緒に暮らしていた千葉恭なる人物がいたということを知るに至って、私は戸惑いと共にこの真相が解りたいという想いが強くなっていった。
そこで先ずは『宮沢賢治 語彙辞典』(原子朗著、東京書籍)で千葉恭を引いてみたのだが、千葉恭なる人物の項目は……?いくら頁を捲っても、頁を捲り直しても…やはりない。ということは千葉恭なる人物は賢治との関係で言えばそれほど重要な人物ではないのか。
しかし待てよ、賢治と下根子桜で一緒に生活していたという人物がいたのならばそもそも賢治の下根子桜時代は「独居自炊」でなくなる。また寝食を共にすればお互いのことを裏も表も知り合えるわけだから、賢治研究という立場から言えばかなりの重要人物でかつ貴重な存在であるはずなのにと訝りつつ、次の手をどうしようかと思案した。
ならばと、インターネットで千葉恭関連の文献等を検索してみたところそのリストは以下のとおりだった
【千葉恭関連文献】のリスト
(1) 「宮澤先生を追ひて」<千葉恭著、『四次元4号』(昭和25年1・2月、宮澤賢治友の会)>
(2) 「宮澤先生を追つて(二)」<千葉恭著、『四次元5号』(昭和25年3月、宮澤賢治友の会)>
(3) 「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」<千葉恭著、『四次元7号』(昭和25年5月、宮澤賢治友の会)>
(4) 「宮澤先生を追つて(四)」 <千葉恭著、『四次元9号』(昭和25年7月、宮澤賢治友の会)>
(5) 「宮澤先生を追つて(五)羅須地人協会と肥料設計」<千葉恭著、『四次元14号』(昭和25年12月、宮澤賢治友の会)>
(6) 「宮澤先生を追つて(六)羅須地人協会と肥料設計」<千葉恭著、『四次元16号』(昭和26年2月、宮澤賢治友の会)>
(7) 「羅須地人協会時代の賢治」<千葉恭著、『イーハトーヴォ復刊2号』(昭和30年1月、宮澤賢治の会)>
(8) 「羅須地人協会時代の賢治(二)」<千葉恭著、『イーハトーヴォ復刊5号』(昭和30年5月、宮澤賢治の会)>
(9) 「賢治抄録」<千葉恭著、『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房発行(昭和33年)>
(10) 「賢治と千葉恭のこと」<佐藤成著、『ふるさとケセン67号』(ふるさとケセン社、平成14年3月)>
以上がその時点で検索出来た千葉恭関連の文献等の全てであった。それほどの苦労もせずにこれらのリストを調べられる便利な時代になったものだと感心しつつ、これだけのものがあるのならばそれらのうちのいずれかにその「日」及び「期間」が書かれているであろうと楽観していたし、期待していた。(1) 「宮澤先生を追ひて」<千葉恭著、『四次元4号』(昭和25年1・2月、宮澤賢治友の会)>
(2) 「宮澤先生を追つて(二)」<千葉恭著、『四次元5号』(昭和25年3月、宮澤賢治友の会)>
(3) 「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」<千葉恭著、『四次元7号』(昭和25年5月、宮澤賢治友の会)>
(4) 「宮澤先生を追つて(四)」 <千葉恭著、『四次元9号』(昭和25年7月、宮澤賢治友の会)>
(5) 「宮澤先生を追つて(五)羅須地人協会と肥料設計」<千葉恭著、『四次元14号』(昭和25年12月、宮澤賢治友の会)>
(6) 「宮澤先生を追つて(六)羅須地人協会と肥料設計」<千葉恭著、『四次元16号』(昭和26年2月、宮澤賢治友の会)>
(7) 「羅須地人協会時代の賢治」<千葉恭著、『イーハトーヴォ復刊2号』(昭和30年1月、宮澤賢治の会)>
(8) 「羅須地人協会時代の賢治(二)」<千葉恭著、『イーハトーヴォ復刊5号』(昭和30年5月、宮澤賢治の会)>
(9) 「賢治抄録」<千葉恭著、『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房発行(昭和33年)>
(10) 「賢治と千葉恭のこと」<佐藤成著、『ふるさとケセン67号』(ふるさとケセン社、平成14年3月)>
そこでこのリストを持って早速『宮沢賢治イーハトーブ館』に出掛けた、これらの文献そのもの等を見せてもらおうと。イーハトーブ館は大変親切だ。一般人に対しても資料は見せてくれるし、「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」の会員になればそのコピーも出来るという。私は即会員になって資料を見せてもらった。
『ふるさとケセン67号』より
まずはタウン誌『ふるさとケセン67号』を見てみた。この冊子の中で佐藤成氏は「賢治とケセン⑫ 賢治と千葉恭のこと」というタイトルで次のようなことなどを述べていた。
賢治が花巻農学校の教師三年目を迎えた大正13年の11月12日、賢治は学校の水田で収穫した米を大八車に積み生徒五、六人で穀物検査所へ運び、「この一俵は早生大野で、これは陸羽一三二号、これは愛国ですが、品種毎に等級検査から見た点を説明してください」と依頼した。
このときに対応したのが千葉恭である。千葉はこの3月に水沢農学校を卒業し、10月岩手県穀物検査所花巻出張所に着任したばかりの18歳であった。彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治より十歳の年下である。…(略)…
そして、羅須地人協会時代の賢治に千葉は「君も来ないか」と誘われ、それから一緒に自炊生活をはじめたが、千葉は「二人の生活は実にみじめなものでした」と語っている。
<『ふるさとケセン67号』)>このときに対応したのが千葉恭である。千葉はこの3月に水沢農学校を卒業し、10月岩手県穀物検査所花巻出張所に着任したばかりの18歳であった。彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治より十歳の年下である。…(略)…
そして、羅須地人協会時代の賢治に千葉は「君も来ないか」と誘われ、それから一緒に自炊生活をはじめたが、千葉は「二人の生活は実にみじめなものでした」と語っている。
そうかたしかに千葉恭なる人物は賢治と下根子桜である期間一緒に暮らしていたのだ、この文章を読んでみてそう確信した。下根子桜時代が最初から最後まで「独居自炊」だったというわけではなかったのだ、と。
ところでこのエピソードは『イーハトーヴォ復刊2号』、『同5号』そして『四次元7号』を基にして書いていると佐藤成氏は注釈しているので、次はこれらの冊子を見てみた。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
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〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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