《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)
◇検証することの大切さ
ところで、千葉恭は〝気仙郡盛町(現大船渡市盛町)〟出身だという賢治研究家E氏の記述は何かの間違いであるということもこれで判明した。考えてみれば、もし千葉恭が大船渡の盛町出身ならば何もわざわざ遠い水沢農学校に来るまでもなかったろうし、水沢出身ならばまさしく地元でもあり水沢農学校に通うのはごく自然であり、納得。また、彼は帰農後もしばしば下根子桜に通ったということであったが、大船渡の盛町から通うとすれば大変だなと思っていたが、水沢であればそれほどのことはないからその点でも合点した。
なお第2章の〝千葉恭の生家探し〟において、私は大船渡の盛町を探し回ったけれど結局千葉恭の生家の住所に関しては何一つ有力な情報を掴めなかったということを述べたが、それは当然だったわけである。千葉恭と大船渡の関係で言えば、千葉恭は食糧管理事務所大船渡支所長として盛町で勤めたことがある、ということであろう。
とまれ、直接三男F氏にお会い出来ていろいろなことが判明したり確定したりしたので私は大いに満足した。F氏にお礼を述べ、感謝しながらF氏宅を辞して自宅のある花巻に車を走らせた。真実を知ることただそれだけで如何に充実感を得、単純に嬉しくなるものだということをあらためて実感しながら。
◇『月夜のでんしんばしら』
さて花巻の自宅に戻って早速行ったことは次のことである。
それは、千葉恭の三男F氏から教わった次のエピソード
・父が賢治の小間使いで質屋に行った際、途中で出会った奇妙な電信柱が妖怪に見えたということを賢治に喋ったところ、それがモチーフになって童話の一つが創作された、と父から聞いたことがある。
について少し調べてみることだった。もちろん「奇妙な電信柱」といえば直ぐに思い浮かぶのが童話「月夜のでんしんばしら」である。その書き出しを確認してみると以下のようになっている。
月夜のでんしんばしら
ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路の横の平らなところをあるいておりました。
たしかにこれは罰金です。おまけにもし汽車がきて、窓から長い棒などが出ていたら、一ぺんになぐり殺されてしまったでしょう。
ところがその晩は、線路見まわりの工夫もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変てこなものを見たのです。
九日の月がそらにかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。
恭一はすたすたあるいて、もう向うに停車場のあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄のほのおのようにぼうとした紫いろのあかりやらで、眼をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。…(略)…
<『注文の多い料理店』(宮澤賢治、角川文庫)>ある晩、恭一はぞうりをはいて、すたすた鉄道線路の横の平らなところをあるいておりました。
たしかにこれは罰金です。おまけにもし汽車がきて、窓から長い棒などが出ていたら、一ぺんになぐり殺されてしまったでしょう。
ところがその晩は、線路見まわりの工夫もこず、窓から棒の出た汽車にもあいませんでした。そのかわり、どうもじつに変てこなものを見たのです。
九日の月がそらにかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおってよろよろするというふうでした。その雲のすきまからときどき冷たい星がぴっかりぴっかり顔をだしました。
恭一はすたすたあるいて、もう向うに停車場のあかりがきれいに見えるとこまできました。ぽつんとしたまっ赤なあかりや、硫黄のほのおのようにぼうとした紫いろのあかりやらで、眼をほそくしてみると、まるで大きなお城があるようにおもわれるのでした。…(略)…
というわけで、主人公の名前は千葉恭の名〝恭〟を用いた〝恭一〟になっているし、もちろんこの童話の中には「奇妙な電信柱」も登場して来る。したがって、この童話の主人公は千葉恭をモデルにしたものであり、童話のモチーフはこのエピソードから得たものであるということはかなり信憑性が高そうだ。
ところが一方で、『宮沢賢治必携』(佐藤泰正編、學謄写)によれば「月夜のでんしんばしら」については
〝初出『注文の多い料理店』。初稿の執筆は大10・9・14。〟
となっている。とするとこの童話の執筆時期は、千葉恭が下根子桜で賢治と一緒に暮らしていたと思われる時期(大正15年以降の約半年)より遥か以前のことになる。
あるいはまた、童話集『注文の多い料理店』の発行は大正13年12月1日であり、その中に「月夜のでんしんばしら」は所収されていることが分かる。したがって、千葉恭が賢治と下根子桜で寝食を共にする以前にこの作品はもう書き上がっていたことになり、彼が息子に語ったこのエピソードが「月夜のでんしんばしら」のモチーフになって創作されたということはあり得ないことになってしまう。時間は遡れないからである。
またこの他に賢治の童話の中に「奇妙な電信柱」が出てくるものはないはずだ。よって、このエピソードは千葉恭の何かの思い違いか、彼が自分の息子に戯れに語った作り話だったのではなかろうか。
◇同僚の語る千葉恭
なんとその後幸運にも、千葉恭と同じ職場に勤務したことがあるという方に会うことが出来た。その方は何と、私の金ヶ崎の実家の直ぐ西隣の方で、奇しくも同じ姓の千葉K氏という、大正7年生まれの方であった。千葉恭は明治39年生まれだから、大凡12歳年下の人である。
そしてその千葉K氏は、千葉恭とは、
・1回目は、昭和11~14年頃に穀物検査所黒沢尻出張所(この時千葉恭は副出張所長)で、
・2回目は、昭和29~31年頃に食糧管理事務所和賀支所(この時千葉恭は和賀支所長)で
の2度にわたって一緒の職場だったという。そして、同僚千葉K氏は千葉恭の人となりについて、・2回目は、昭和29~31年頃に食糧管理事務所和賀支所(この時千葉恭は和賀支所長)で
・いい人だった。
・偉ぶらなかった。
・酒なども深酒などしなかった(あまり飲まなかった)。
・研究などが好きな人であった。
ということなどを教えてくれた。また千葉恭の写っている集合写真も見せくれた。このK氏が語る千葉恭の人となりにつては、この前会った千葉恭の三男F氏が、・偉ぶらなかった。
・酒なども深酒などしなかった(あまり飲まなかった)。
・研究などが好きな人であった。
「優しい親父だった。殴られたこともない」
と語っていたことと符合すると思う。同じくその際にF氏が
「父は息子の私から見ても若い頃は今で言うイケメンだった」
と語っていたが、F氏のこの話と千葉K氏の話そして今まで見た何葉かの千葉恭の写真から、千葉恭という人物は外見だけでなくその中身も素敵だったに違いない、と私は思った。
また、千葉K氏は恭の職場での様子として、
・宮澤賢治と一緒に居たというようなことを聞いたことがある。
・宮澤賢治に関してはよく喋っていた。
という証言も得た。・宮澤賢治に関してはよく喋っていた。
この当時、つまり千葉恭の食糧管理事務所和賀支所長時代(昭和29~31年頃)といえば『イーハトーヴォ復刊2号』、『同5号』にそれぞれ「羅須地人協会時代の賢治」、「羅須地人協会時代の賢治(二)」を載せている頃である。もっと正確に言うと、千葉恭と同じ役所に勤めていた飯森という人物から請われて、昭和29年12月21日に『宮澤賢治の會』が主催した例会で千葉恭は「羅須地人協会時代の賢治」という演題で講演をした頃である。
一方で、三男F氏にお会いした際にF氏は「父は賢治に関して語ることは少なかった」と語っていたが、千葉恭が和賀支所長の時代(千葉K氏が2回目に同じ職場に勤めていた頃)であれば、この講演の関係もあったのであろうか、彼は職場ではある程度賢治に関することを喋っていたということになろう。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
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