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澤里武治自筆の新資料

2019-04-13 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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第十章 澤里武治の新資料を知る
1 澤里武治自筆の新資料
 ただし、問題点が一つあった。それは仮説「♧」、すなわち、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♧
に対する反例となり得るかもしれないものがある時に見つかったからだ。具体的には、
 花巻駅までチェロをかついで見送った沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(筆者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。 …………★
〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
という、澤里武治が自説<*1>の修正をしたともとられかねない〝★〟が見つかったからだ。それ故、この仮説「♧」には反例が全くないと言えるのかという指摘がなされ得る、という多少の不安が私にはないわけでもなかった。
 ところが幸いにも、その不安はその後解消できた。それは、平成28年10月17日、「父はこれを書く際に相当悩んでいた」と付言しながら子息の澤里裕氏が私に見せてくれた、澤里武治が74歳頃に書いたという自筆の三枚の資料を知ったからだ。しかも、この資料はこれまで公になっていないから「澤里武治自筆の新資料」と言える。
 そこでもう少し具体的に述べる。その中の一枚〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟
【(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」(一部抜粋)】
                 〈澤里裕氏より提供〉
の中には、
    大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
という記述があり、年は「大正十五年」と書いてあったものの、その月が現定説の「12月」ではなくて「11月」のままだった。だから結論を先に言ってしまえば、「晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている」とは言い切れないということが、これではっきりと私には判ったのだった。
 あくまでも武治は晩年でも「大正十五年十一月末日」としているのであって、単なる「大正十五年」ではない。「十一月」となっている「十一月末日」がくっついた「大正十五年十一月末日」だったからである。もし、現定説どおりに武治が修正したというのであれば、それは「大正十五年十月」となっていなければならないのだが、そうはなっていないのである。

 くどくなるが、澤里武治自筆の資料では、「大正十五年十月」ではなくて、「大正十五年十」となっているのである。

 なおついでに言っておくと、もう一枚の武治自筆の資料である〝(その三)「附記」〟の中には、
 関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載されその中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
と書かれていて、実は「大正15年12月12日付澤里武治宛賢治書簡」があったのだがこれが行方不明になっているという。しかも、この書簡内容も、その存在自体すらも公には知られていないものである。もしこの書簡が再発見されたならば、この一連の真相が更にはっきりする可能性が頗る高そうだ。

<*1:投稿者註> 澤里武治の自説とは、下掲引用文中の「ライム色」の証言に当たる。
⑴ 
 そこで次に、〝関『随聞』二一五頁〟を実際に確認してみると、
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
となっていて、私は今度は愕然とした。
 それはまず、本来の武治の証言は「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」だったのだが、故意か過失かは判らぬが、同年譜の引用文では「少なくとも三か月は滞在する」の部分が綺麗さっぱりと抜け落ちていたからである。その上、この武治の証言の中で、「賢治が武治一人に見送られながらチェロを持って上京した日」が「大正15年12月2日」であったということも、「大正15年12月」であったということも、「大正15年」であったということも、「12月」であったことさえも、何一つ語られていなかったからである。
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版社)27p~〉
⑵ 
 それから、この証言に関してとても重要なものが見つかった。それは論考等において最も尊重されねばならないはずの一次情報とも言える『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』であり、このノートの冒頭に書かれていた件の武治の証言は次のようになっていた。
(3)『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』
        三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村(ママ)に於て、農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険(ママ)だ少くとも三ヶ月は滞京する 俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
 其の時花巻駅…(この部分は基本的に前項〝(2)〟と同じだったから割愛)…そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
〈関登久也の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)〉
 そして、この『原稿ノート』の表紙には〝1.續 宮澤賢治素描/昭和十九年三月八日〟と書かれていた。よって前々頁の「澤里武治氏聞書」、つまり件の武治の証言は、同ノートの場合のタイトルが「三月八日」となっていることからして、昭和19年3月8日に聴き取ったものと判断できる。
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版社)34p~〉

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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