みちのくの山野草

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「不都合な真実」

2019-04-12 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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3 私見・「不都合な真実」
 ただしここまで考察してきて、私には自信を持って言えることがある。それは次のような三つの事実が厳然と私達の前にあるということである。
 三つの事実
 それらは
・単行本『宮澤賢治物語』において著者以外の人物によって改竄が行われたという事実
・理に適わない理由を謳って『賢治随聞』が出版されたという事実
・「校本年譜」や「新校本年譜」において澤里武治の証言が恣意的に使われているという事実
である。
 そしてこれらの三つ事実はそれぞれ別個のものではなくて、ものの見事に一本の串に刺されているように私には見える。言い方を換えれば、ある人物X氏が中心となって賢治のイメージにとって「不都合な真実」だと思ったところの幾つかの事実を歴史上から葬り去りたかった、そしてそのために実際これらの行為が行われた可能性がある、ということを私は否定できないということである。
 あるリトマス試験紙
 そして私は自分の頭の固さに今更呆れながら気付いた。それは先に私は、
 そもそも、『宮澤賢治素描』正・続を一冊にして出版したかったということだが、そのことは既に関登久也自身が以前に行っている(その結果出版されたのが、昭和32年に出た『宮澤賢治物語』である)のだから、わざわざ新たに他人がそれらを改稿して『賢治随聞』として出版するということは道理に合わない行為である。
という意味のことを述べたが実はそうではなくて、M氏は『宮澤賢治物語』そのものを再版する訳にはいかなかったんだという可能性があるということにである。
 そしてまた、先に私は
 まるで、『宮澤賢治物語』は無視されたかの如き印象を受けてしまう。
と表現したが、まさしくM氏は『宮澤賢治物語』を無視したかったのだ、それを覆い隠してしまいたかったからこそそれに代わる『賢治随聞』を出版したのだ、という可能性があるのだということにである。 そして、その真偽を調べることができるリトマス試験紙があることにも気付いた。それは、単行本『宮澤賢治物語』の中にある次の文章、
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
 「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが
…………◎
が『賢治随聞』所収の「沢里武治氏聞書」の中にあるかないかを調べる行為である。
 もしこの一連の文章がそこになければ、それはとりもなおさずM氏は単行本『宮澤賢治物語』を無視したかったということを、あるいは逆にその文章がそこにあればそうではなかったということを客観的に示すことができるリトマス試験紙であるということに今頃やっと気付いた。
 さらには、もしその文章がそこになければ、『賢治随聞』の出版理由が『宮澤賢治物語』の改竄と密接に繋がっているということも自ずから浮き彫りにしてくれるリトマス試験紙でもあることにも、である。
 さてこうなると、もしその文章がそこになかったとすれば当然、
 X氏は次のような事実、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♧
すなわち「♧」は「不都合な真実」だからそれを葬り去りたいと企てた。そしてそのために単行本『宮澤賢治』を改竄した。
 さらにはその後、M氏はX氏の意を汲んで『賢治随聞』を出版した。
という可能性もある。まさかこんなことが事の真相であったということは流石にないだろうとは思うが……。しかれども、これだと前に行った思考実験の内容とかなり重なっているし……。
 ならばそんなことは悩まなずに論より証拠だということで、実際に『賢治随聞』所収の「沢里武治氏聞書」の中に〝◎〟のような文章が含まれているかないかを調べてみた。すると、恐れていたとおりであった。〝◎〟そのもののみならず、このことと同じことを意味する文章はどこにも見つからなかったからだ。当然これで、もはや結論は明らかになった。
 不都合な真実などない
 ところで、ここでいうところの「不都合な真実」を賢治自身までもがそう思っていた訳ではなかろう。それはあくまでもX氏やM氏を中心とする一部の人達の認識に過ぎないはずである。
 何となれば、晩年の賢治は己に対して極めて厳しい見方、総括をしているからである。一般には菩薩となって貧しい農民を救おうとしたといわれている「下根子桜時代」の2年4ヶ月余、いわゆる「羅須地人協会時代」の営為に対してさえもである。
 ちなみにそのことを昭和5年3月10日付書簡「258」が先ず教えてくれる。その書簡とは、「羅須地人協会時代」に時間的には一番長く、距離的には一番近くに居たことになるであろう協会員の伊藤忠一宛書簡であり、そこにはあろうことか、
殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
と書かれている。私からすれば全く意外なことだが、当時の賢治は「羅須地人協会時代」の営為を全否定していることになる。
 あるいはまた、最愛の教え子の一人、澤里宛の昭和5年4月4日付書簡「260」における
但し終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまったことを悔いてももう及びません。
からは、花巻農学校の「終りのころ」に対しての痛切な悔恨が伝わってくる。
 そして、もう一人の最愛の教え子柳原に宛てたいわゆる「最後の書簡488」の中の
私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。…(略)…空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。
<いずれも『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
というあまりにも自嘲的な自己批判からもそれは明らかである。それも、「空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見て」という表現からみて、この場合も「羅須地人協会時代」の2年4ヶ月余の営為のこと対してであることもまた明らかであろう。
 したがって、「羅須地人協会時代」の2年4ヶ月余の営為を我々のような周りの者が「菩薩行」と讃えすぎたり、むやみやたらにその時代の賢治を神格化するようなことは、このようなことを教え子達に正直に語っている賢治の想いをないがしろにする行為であるとしか私には思えなくなってきた。教え子達に素直に吐露している賢治のこの心情をありのままに私は受けとめるべきだと覚悟した。
 そしてそもそも、仮に賢治像としては「不都合な真実」があったとしても、そのことが明らかになることによって賢治がさらに評価されこそすれ賢治の評価が損なわれることはないと私は確信しているし、多くの人々もそう思っているではなかろうか。それどころか、これまで以上に賢治のことを私達は理解できて、賢治に近づけるようになると思う。そのような賢治は真実の賢治だからである。
 また一方で、宮澤賢治自身こそが一番、創られた己が像など望んでいないだろうということも私は確信している。ひたすら求道的な生き方を探ったはずの賢治にとって何が一番かけがいのないものかというと、それは「真実を求め続ける姿勢」だと私は思うからである。
 だから、私は次のように言いたい。
 宮澤賢治にとって「不都合な真実」など何一つない。真実を葬り去ることの方がむしろ不都合なことだ。賢治についての全てが、真実に立脚していてこそ始めることができるからだ。
と。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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