みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

澤里武治は終生「11月」と主張

2019-04-14 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
***************************************************************************************************
2 澤里武治は終生「11月」と主張
 さて、一時、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♧
という仮説に対する反例となり得るかもしれない、
沢里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(投稿者略)…「昭和二年十一月頃」だが、晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。 …………★
〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社、平成10)68p〉
という記述、〝★〟が見つかったから、仮説「♧」をもしかすると潔く棄却せねばならぬのかと、私は多少不安になったことがあった。
 ところが幸い、平成28年10月17日、「父はこれを書く際に相当悩んでいた」と付言しながら子息の澤里裕氏が私に見せてくれた、澤里武治が74歳頃に書いたという自筆の資料の一枚〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟の中に
    大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり………☆
という記述があったから、その不安を私は払拭できたのだった。

 では、なぜ払拭できたのかということを次に述べたい。まず確認しておきたことは、澤里武治(79歳歿)は、
    大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり………☆
と晩年(74歳頃)でも自筆の資料の中で書いていたのである。となれば、この資料の〝☆〟と前掲の〝★〟の間には矛盾が生ずる。
 それは、〝★〟では「晩年の沢里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている」、とあるが、〝☆〟では、「大正十五年」ではなくて「大正十五年十一月末日」なっているからだ。つまり、チェロを持って上京する賢治を澤里武治一人が見送ったという月は、定説の「12月」(後掲の〝⑹〟参照)ではなくて晩年でも武治は「11月」であるとしていた。ということは、彼は終始一貫して「11月」であると主張していたことになる。したがって、彼は修正していたとまでは言い切れない。

 ちなみに、賢治がセロを持って上京するのを澤里武治が一人花巻駅で見送った時期についての証言は、以下の資料においてはそれぞれ次のようになっている(基本的にはこの他の資料には孫引きは載っていても、このことに関する澤里武治のオリジナルな証言に類するものは載っていない)。
⑴ 昭和19年3月8日頃作成の『續 宮澤賢治素描』(関登久也著)のための『原稿ノート』では、
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村(ママ)に於て、農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険(ママ)だ少くとも三ヶ月は滞京する 俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。…(投稿者略)…そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。〈関登久也のこの『原稿ノート』は『日本現代詩歌文学館』が所蔵〉
⑵ この証言の初出は『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、)では、
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~〉
⑶ 次が、新聞連載の「宮澤賢治物語」(昭和31年『岩手日報』連載)においてであり、
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには…(投稿者略)…
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
 『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』…(投稿者略)…
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。…(投稿者略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
〈昭和31年2月22日、23日付『岩手日報』掲載〉
(4) そしてこの新聞連載が単行本化された『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年)においては、
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(投稿者略)…その十一月のびしよびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。…(投稿者略)… 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持つていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
〈『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)217p~〉
⑸ また、『新校本年譜』が「関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる」としている、〝関『随聞』二一五頁〟では、
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(投稿者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までお見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
⑹ ついでながら、『新校本年譜』の大正15年12月2日の記述では、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた(*)。 〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)325p〉
となっていて、賢治がこのような上京をした霙の降る寒い日は「大正15年12月2日」であったというのが定説となっている。
 そして、この〝*65〟の註釈について同年譜は、
関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と、その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」と、まるで思考停止したかの如き、あるいは他人事のような註釈をしている。

 というわけで、⑴~⑸及び〝☆〟によって、
    澤里武治は終生、終始一貫してそれは「12月」ではなくて「11月」ころであると主張していた。
ことがこれで明らかになったのであった。

 続きへ
前へ 
 ”「賢治昭和2年11月から約3ヶ月滞京」の目次”に戻る。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 胡四王山(4/11、ウスバサイ... | トップ | 胡四王山(4/11、雪ニモ負ケズ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治昭和二年の上京」カテゴリの最新記事