みちのくの山野草

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賢治の退職の真相がほぼ解明できたかな?

2023-02-01 16:00:00 | 賢治渉猟
《ナベナ<*4>》(平成30年8月28日撮影、岩手)

 さて私は前回、最後にこう述べた
 よってこうなれば、現時点ではこの〝💢〟を否定するような証言も資料もないこともあり、この仮説にはいまのところ反例がみつからないので、
 賢治は大正15年3月末、年度末になって花巻農学校を突如辞めた。その際に退任式等は行われなかった。…………💢
は検証できたから、もはやこれは事実であったとしていいだろう。
 以上ここまでは、かつての投稿段階で既に実質的に辿り着いていたことであった。ただし、理屈ではそうであっても、釈然としないのは勿論である。あの、聖人・君子とも巷間言われているほどの賢治がこんなとんでもないことをするはずがないからだ。 

 それはどういうことかというと、
 賢治の花巻農学校の辞め方は、退任式等さえも行われなかったほどの年度末の唐突なものであった。
となれば、それは生徒に対してだけではなく学校当局に対してもそうだったということになるから、もちろん、このような辞め方は客観的に見れば極めて身勝手な行為である。実際私の高校の現場経験から言えば、この賢治のような辞め方は教員として許されないことの最たるものの一つであるからだ。換言すれば、この時の賢治の退職の仕方は社会通念上からは許されない唐突な辞め方であったということを、賢治自身の言動が教えているとも言える。
 おのずから、
 賢治は花巻農学校の退職に当たって、周到な準備も綿密な計画もあったわけではなく、まして将来的な展望があって辞めたということではなかった。…………▼
と判断せざるを得ない。そしてこのことは、大正15年4月4日付森佐一あて書簡(218)中の、
   もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。
           <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)>
という一言がはしなくも〝▼〟であったということを裏付けてくれていそうだ。
 同時にこの「一言」は、賢治は堀籠に対して「新しく、自営の百姓をやってみたいから」と答えたということだが、これをそのまま素直に信じるわけにはいかないということも教えてくれる。一見、この「答え」は「賢治は百姓になるつもりだ」ということを意味しているようもとれるが、「賢治の退職は年度末の唐突なものであった」ことがはっきりした今はそうではなくて、この「一言」によって、この「答え」は賢治が熟慮をしていた上で発したものであったとは到底言えないことをいみじくも示唆しているのではなかろうか。実際、その後の、賢治の「自営の百姓をやってみたい」を窺わせる実践を私は見つけられずにいる。だから、この「答え」はその場を取り繕ったものであると判断する方がより妥当であろうとしか私には思えない(だからもしかすると、この「自営の百姓」の「百姓」とは、当時日常的に使われていた「百姓」<*1>という意味ではなくて、まさに例の「本統の百姓」を指しているのかも知れない)。
 しかも賢治の教え子小田島留吉は、 
 花巻農学校の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」という賢治自筆の紙が廊下と講堂の入口に貼ってあった。
            <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)26pより>
と証言しているが、当然、この賢治の行為は大正15年4月の事になるわけだから、賢治は当時30歳でありそのような大人が普通やるべきことではない。言い換えればこの行為は当てつけみたいなもの<*2>だからである。

 というわけで、あの証言、
を知るまでは、賢治の花巻農学校退職に関する言動は賢治らしからぬものであり、私にモヤモヤ感が纏わり付きすぎてずっと釈然としなかった。ところがこの度、この証言〝☆〟を知ってしまったならば、そのモヤモヤ感はほぼ消えつつある。この新たに見つかった証言〝☆〟は、賢治がなぜ花巻農学校を突如辞めたのかをものの見事に説明してくれるからだ。つまり、賢治のみならず誰でもが、

 「窓ぎわにおかれ仕事は与えられなかった」ならば、誰でもくさる。やる気をなくす。それを上司は見てますます辛く当たる。後は悪循環だ。ついに、「もう辞めてやる」とタンカを切ってしまう。そして「いわゆるクビ」になる。

という図式になることは見え見えだ。だから、もしこの〝☆〟が事実であったとするならば、この図式に賢治といえども当て嵌まってしまうだろうし、当て嵌まったに違いない。少なくともその事を否定できないということになったということだ。言い換えれば、少なくとも今後、この証言〝☆〟の一次情報を索ね、賢治の花巻農学校退職について検証してみることが不可欠だろう。そして、もしそれが検証できたとすれば、賢治像は根底から建て直さねばならないことになる。
 そしてまた、私は以前に
 実は、賢治のこの時の退職について地元のある方(この方は賢治についていろいろな事を知っている)から、
    あれは賢治が辞めさせれられたのさ。
とかつて教えてもらった。
ことを今思い出し、そうか、あの人も賢治がクビになったことを実は知っていたに違いないと、今になってしみじみと振り返っている。

 というわけで、
 今回新たに知っこのた証言
 賢治さんは今でいう窓ぎわにおかれ仕事は与えられなかった。
 いわゆるクビですね。ですから離任式にも出席しなかったのです。
…………☆
は、賢治がなぜ花巻農学校を突如辞めたのかをものの見事に説明してくれるので、これでほぼ退任の真相が解明出来たかな、というような思いがしてくる。

<*1:投稿者註> ここでいう「百姓」とは、賢治が下根子桜に住んでいた当時の人たちが日常的に使っていた意味での「百姓」のことであり、端的に言えば、当時農家の6割前後を占めていた「自小作+小作」農家の農民のことである。
<*2:投稿者註> 賢治に対してはまことに申し訳ないが、あまりにも不自然なことであるということは事実だから、私は以下に少し推測させてもらう。それは、この「当てつけ」と似たようなことが行われた可能性が否定できない、下掲の大正15年4月1日付『岩手日報』の記事、

  新しい農村の建設に努力する
         花巻農學校を辞した宮澤先生
 花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である
             <『岩手日報』(大正15年4月1日付)の三面>
に関わる次のことだ。
 賢治が花巻農学校を突然辞めるという私的な行為が、なぜ『岩手日報』という公器に間髪を入れずに載ったのだろうか。菊池信一の証言等からすれば、賢治が花巻農学校を辞めることが公的に知られ出したのは、早くとも国民高等学校の終了式の行われた日(大正15年3月27日)であろう。一方、この新聞報道は大正15年4月1日だし、記者は「きのふ宮澤氏を訪ねると」と書いているから、賢治が取材を受けたのは3月31日だと推測できる。とすれば、その期間は
  3月28日、29日、30日
のたった3日間しかないこととなる。
 ましてこの時期は年度末だからあちこちで人事異動が数多ある中、この短期間の間に当時のマスコミが単なる個人的な退職を知り、なおかつそれをわざわざ新聞報道をするほどのニュースバリューがこの賢治の退職にあったとは常識的には考えられない。すると考えられる可能性の一つとして次のようなことがある。
 それは、賢治の方から『岩手日報』に取材を働き掛けたという可能性である。というのは、年度が改まっての花巻農学校の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」という賢治自筆の紙が廊下と講堂の入口に貼ってあったということだからこれはいわば「当てこすり」であり、これと同様な意図で花巻農学校に「当てつける」ために取材を依頼したという可能性がある。言い換えれば、賢治が花巻農学校を辞めた真の理由は、巷間云われているものとは全く違った別な理由であったという可能性が大であったということである。

<*4:投稿者注> チーゼルはセイヨウナベナとも言われるようだが、これがそのナベナである。

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