みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「一本足」論争(経過報告11)

2024-07-17 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

*****************<(29)↓投稿者H氏/2013年10月12日 20:10>**********************
鈴木さん、こんばんは。
京都でも、なかなか「安定した秋らしい日」は訪れません。当地では、10月9日に最高気温が31.5℃になったのに続き、10日には30.7℃、11日には30.1℃と、いわゆる「真夏日」が続いています。とても10月とは思えません。
花巻の気候は、また異なった不安定さでしょうが、どうかお体に気をつけてお過ごし下さい。

私からの懸案の質問については、今回は鈴木さんに「必ず述べます」とおっしゃっていただきましたので、ご都合が整うのをお待ちいたします。

さて、上に引用していただいた『宮澤賢治物語(49)』の一部に関して、鈴木さんとしては「大正15年」という解釈は、「どう転んでも出来ません」ということですね。

しかし、これまでのいろんな予備知識をいったん棚に上げて、虚心坦懐にこの文章を読むと、ここで沢里は「年譜」の大正十五年十二月十二日の部分を引用した直後に、「確かにこの方が本当でしょう」と言っているわけです。
これをまず「文字通り」ごく素直に読めば、彼が「この方」と言っているのは「大正十五年十二月十二日」の方なのですから、ここで沢里は、上京時期を大正15年と考え直したと解釈することも、理屈の上では可能なはずです。「本当」という言葉は、普通はそれが「正しい」、ということを意味します。

これに対して鈴木さんは、ここに出てくる「確かにこの方が本当でしょう」という言葉は、沢里が年譜を「揶揄」して言っているのであり、沢里の真意は逆である、すなわち実際には昭和2年と考えているという解釈を、以前に提示されました(10月7日22:40コメント)。
確かに、この部分だけを取れば、鈴木さんの言われるように逆の意味に解釈することも、あながち不可能ではないかと、私も理解できます。

つまり、上に引用していただいた部分の解釈としては、文字通り素直に読んで「大正15年」と考えるのと、鈴木さんのように逆の意味として「昭和2年」と考えるのと、二通りの考え方がありうる、ということが言えると私は思うのですが、どんなものでしょうか。
沢里がそれより以前に『續 宮澤賢治素描』にどう書いていたとか、年譜を見て揶揄したくもなったのではないかとか、現在の私たちが持っている知識はいったん括弧に入れて、たとえばこれを国語の問題として考えるならば、論理的には二通りの解釈が可能であることは、やはり認めざるをえないのではないでしょうか。

最初に「どう転んでも出来ません」とまで言われてしまうと、議論を進めていくにもとっかかりが何もなくなってしまいますので、ひょっとしたら以上の点までは鈴木さんにも同意していただけるのではないと思い、議論の出発点として、まずはお尋ねさせていただく次第です。

*****************<(30)↓投稿者鈴木守/2013年10月13日 07:21>**********************
H 様
 お早うございます。
 この度は私の願い事をご了解いただいて有り難うございます。
 さて、今回は少し長くなりますので、2回にわけて投稿いたします。

〔「どう転んでも出来ません」について〕
 まず、私がなぜ「どう転んでも出来ません」と申し述べたのか、その説明をします。今回の「宮澤賢治物語(49)」の私の解釈については自信があったのですが、独りよがりではいけないと思い、友人の現役高校国語教師にそのコピーを渡して『この「十一月」は何年のそれだと思うか』と尋ねたところ、一読して彼は、

   『昭和2年の「十一月」でしょう。その前の部分は挿入文ですね。他にはないでしょう』

とその文書の構造を見抜いて、私と同じようにその「十一月」とは「昭和2年の「十一月」」であると言ってくれたので、更に確信を深めていたからです。

〔わかりにくい文章〕 
 一方、この「(49)」は一瞥しただけでは極めてわかりにくい文章です。そこで、なぜ文筆家の関登久也がこんなわかりにくい文章を書くのだろうか(そう疑問に思ったことが、今回の拙著を書く切っ掛けの一つでした)、とかつての私は不審に思いました。そこからは、関は澤里武治の証言をその通りに書き記していたからであるという判断ができます。
 すると、その武治の証言からは彼の苦渋と無念さがひしひしと伝わってきます。なぜなら、例えば、彼がその時に基にしなければならなかった「賢治年譜」は、それまで公になっていたそれとは異なるものだったからです(昭和31年頃以前の「賢治年譜」には、月は「九月」ですが、少なくとも昭和2年には上京していると皆書かれています)。
 だからこそ、武治は『宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません』と訝ったのでしょう。

 やっと最近になって私は、その背景がよくわかったので、この「(49)」の文章内容は武治の思いも含めてよ~くわかるようになりましたし、そしてさぞかしかように彼は言いたかったであろうと同情もしております。
              (続く)

 続きへ。
前へ 
 〝「菲才だからこそ出来た私の賢治研究」の目次〟へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 黒谷地(7/12、残り) | トップ | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

菲才でも賢治研究は出来る」カテゴリの最新記事