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《チーゼル》(平成21年7月2日撮影、トアリー)
さて前回までは、賢治が花巻農学校を辞めた際の証言等を、かつての投稿〝賢治の農学校退任式について〟等を通じて見直して来た。そこで、それらを基にして概観してみると以下のようなことになろう。
まず同僚であった堀籠文之進の証言についてだが、
森荘已池の『(賢治の)こんなにたのしい時代が、どういうことで終わりになったのでしょうか』という問いに対して、堀籠は次のように答えていたという。
いろいろな説もあるのでしょうが、俸給生活にあこがれる生徒たちに、村に帰れ、百姓になれとすすめながら、自分は学校に出ていることに対して、矛盾を感じたことからでしょう。大正十五年三月の春休みに入ってから、
――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
<『野の教師 宮沢賢治』(森荘已池著、普通社)、231p~>いろいろな説もあるのでしょうが、俸給生活にあこがれる生徒たちに、村に帰れ、百姓になれとすすめながら、自分は学校に出ていることに対して、矛盾を感じたことからでしょう。大正十五年三月の春休みに入ってから、
――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
ということである。
同じくこれまた同僚の白藤慈秀は、次のように述べている。
宮沢さんはいろいろの事情があって、大正十五年三月三十一日、県立花巻農学校を依願退職することになった。あまり急なできごとなので、学校も生徒も寝耳に水のたとえのように驚いた。本意をひるがえすようにすすめたけれども聞きいれられなかった。科学、文学、芸術総てに亘ってすぐれた宮沢さんに去られることは学校としても痛撃であり、また生徒にとっても良師を失うさびしさは抑え難いものがあった。常に信頼の深かった先生に別れる生徒達は、幼児の慈母に別れる思いであった。退職の理由は何であるかとといただす生徒も沢山居たが、いまの段階では、その理由を明らかに話されない事情があるからといって断った。
<『こぼれ話 宮沢賢治』(白藤慈秀著、トリョウコム)、67p>一方教え子たちについては、以下のような証言が見つかる。
まず柳原昌悦は、『花巻農業高校80周年記念誌』所収の座談会「宮沢賢治先生を語る」において、
(大正15年の)3月だったろうと思いますが、職員室の廊下で掃除をしていたら、
「いや、おれ今度辞めるよ」
とこう言って鹿の皮のジャンパーを着て、こう膝の上にこうやった、あの写真の大きいやつを先生からもらいました。それっきりで学校では先生の告別式のようなものも無ければ、お別れの会も無く、そういう先生の退職でした。
<『花巻農業高校80周年記念誌』、501p>「いや、おれ今度辞めるよ」
とこう言って鹿の皮のジャンパーを着て、こう膝の上にこうやった、あの写真の大きいやつを先生からもらいました。それっきりで学校では先生の告別式のようなものも無ければ、お別れの会も無く、そういう先生の退職でした。
と語っていたという。また柳原は、
卒業式が終わって私たちが二年生になるとき、何人かが中心になったと思いますが、鼬幣の稲荷さんの後ろの小高い所ある小さな神社の境内に集まって、宮沢先生退職反対のストライキ集会を開いたのでしたが、宮沢先生の知るところとなり「おれはお前たちにそんなことされたって残るわけでもないから、やめなさい」との一言で、それはまったく春の淡雪のように、何もなかったかのようにさらりと消えてしまいました。
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著)342p~より>とも語っているという。
菊池信一に関しては、
この時の賢治の退職に関しては、菊地信一も次のように不思議がっていたという。それは、信一が友人の板垣亮一から『(賢治は)農学校をどうして退職したんだ』と訊かれた際のその答であり、次のようなものだ。
岩手国民高等学校の舎監、高野主事と農業経営なのか学校経営なのか分からないが、議論したことが原因のようだ。国民高等学校の卒業式が三月二十七日であったが、同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた。
<『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)、25p>岩手国民高等学校の舎監、高野主事と農業経営なのか学校経営なのか分からないが、議論したことが原因のようだ。国民高等学校の卒業式が三月二十七日であったが、同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた。
という。
そしてまた、小田島留吉は、
その年の入学式の日に、
「私は、今後この学校には来ません」
廊下と講堂の入口に、賢治自筆の紙が貼ってあった。
<『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)、26p>「私は、今後この学校には来ません」
廊下と講堂の入口に、賢治自筆の紙が貼ってあった。
と証言していたという。
一方で、佐藤成の著書『証言宮澤賢治先生』、同じく佐藤の『宮沢賢治の五十二箇月』にはそれぞれ、
賢治はこうして、花巻農学校を去った。…(投稿者略)…なぜか離任式はなかった。
<『証言宮澤賢治先生』(佐藤成著、農文協、255p)> こうして賢治は、花巻農学校を去った。なぜか離任式はおこなわれなかった。
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著)、343p>とある。
よって、これらの証言等から、
賢治は大正15年3月末、年度末になって花巻農学校を突如辞めた。その際に退任式等は行われなかった。…………💢
という仮説が立てられるし、もちろんこれに対する反例もほぼ見つかっていないから、これはほぼ事実であると判断出来る。ところで、ご承知のように、大正10年の年度途中で賢治は花巻農学校の教諭となったわけだが、『新校本年譜』によれば、その際の赴任式が大正10年12月3日(土)に行われていて、
養蚕室で赴任式があり、校長に紹介され「只今ご紹介いただいた宮沢です」といって礼をし、段を下りた。丸坊主に洋服である。
<『新校本宮澤賢治全集16巻(下)年譜篇』(筑摩書房)228pより>と、簡潔にではあるがその際の挨拶の内容、服装などの記述がある。
この記述内容は、花巻農学校の『校務日誌』(あるいは『教務日誌』)は〝永年保存〟の性格を持っているから、同日誌の記録からその事実は確認できたと考えられる。まして、定例の赴任式ではなくて年度途中のそれなのに、日時まではっきりとわかっているといるのだからなおさらにそう言えるだろう。逆の言い方をすれば、定例の年度末の「退任式」の記述が同年譜にないということは、それが行われなかった蓋然性が極めて高いということを教えてくれる。
しかも、賢治の「赴任式」については例えば鈴木操六の、
南側の開け放された養蚕室で、畠山校長が、先生を紹介された。その後に先生は壇の上に立って、至極簡単に、ただ今ご紹介いただいた宮沢ですといって礼をして壇を下りられた。
<『宮沢賢治 その文学と宗教』(山田野理夫著、潮文社新書)61p~より>という証言があるくらいだから、もし退任式が行われていたとすればこの鈴木のような内容の教え子たちの証言があってしかるべきだが、そのような証言や資料も見つからない。
そこで最後に、私は念を押したかったので、その「事実」を確認しようと思って、平成25年11月5日に花巻農業高等学校を訪れた。同校の前身は花巻農学校だからだ。そして、『大正15年の1月から3月までの行事を教えていただけないでしょうか』とお願いしたところ、翌日同窓会の担当の方から、『当時の学校行事については60周年記念誌等で調べたが、国民高等学校の開校式及び終了式しか記述がなく、その間の記述や農学校自体の終業式の記述もない』という旨の回答の電話をいただいた(本来ならば『校務日誌』や『教務日誌』等は永年保存のはずなので学校では保管していると思われるが、そこまでの開示請求は諦めた)。
よってこうなれば、現時点ではこの〝💢〟を否定するような証言も資料もないこともあり、この仮説にはいまのところ反例がみつからないので、
賢治は大正15年3月末、年度末になって花巻農学校を突如辞めた。その際に退任式等は行われなかった。…………💢
は検証できたから、もはやこれは事実であったとしていいだろう。以上ここまでは、かつての投稿段階で既に実質的に辿り着いていたことであった。ただし、理屈ではそうであっても、釈然としないのは勿論である。あの、聖人・君子とも巷間言われているほどの賢治がこんなとんでもないことをするはずがないからだ。
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