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賢治の退任式等はなかったという事実によれば(検証4)

2018-10-17 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
 では今回は、賢治が花巻農学校を辞めた際に退任式等がなかったことを確認し、その上で、先の仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」を検証をしてみたい。

 前回の最後の方で、私は
 なお、賢治の花巻農学校の辞め方が不自然であったことを私は既に知ってしまっていたからなおさらに、この記事における賢治の回答には「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」ということを読み取ってしまう。ただしこのことについては、次回もう少し詳しく論じてみたい。
と述べた次第だが、そのことについて以下に少しく論じてみたい。

 まず第一点目である。
 さて、佐藤成の著書『証言宮澤賢治先生』、同じく佐藤の『宮沢賢治の五十二箇月』にはそれぞれ、
 賢治はこうして、花巻農学校を去った。…(投稿者略)…なぜか離任式はなかった。
             <『証言宮澤賢治先生』(佐藤成著、農文協、255p)>
 こうして賢治は、花巻農学校を去った。なぜか離任式はおこなわれなかった。
             <『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、343p)>
とある。
 そしてまた、それこそ賢治の愛弟子の一人柳原昌悦が、『花巻農業高校80周年記念誌』所収の座談会「宮沢賢治先生を語る」において、
 (大正15年の)3月だったろうと思いますが、職員室の廊下で掃除をしていたら、
 「いや、おれ今度辞めるよ」
とこう言って鹿の皮のジャンパーを着て、こう膝の上にこうやった、あの写真の大きいやつを先生からもらいました。それっきりで学校では先生の告別式のようなものも無ければ、お別れの会も無く、そういう先生の退職でした。
            <『花巻農業高校80周年記念誌』、501p>
と語っていたという。
 ということであれば、もはや、賢治の退任式等が行われていたとは言い切れない。そこで私はその事実を確認をしたかったので、花巻農業高等学校の前身は花巻農学校だから、平成25年11月5日に同校を訪ねた。そして、『大正15年の1月から3月までの行事を教えていただけないでしょうか』とお願いしたところ、翌日同窓会の担当の方から、『当時の学校行事については60周年記念誌等で調べたが、国民高等学校の開校式及び終了式しか記述がなく、その間の記述や農学校自体の終業式の記述もない』という旨の回答の電話をいただいた。
 したがって、やはり、
    賢治の花巻農学校の退任式等は行われていたとは言えない。……①
ということだ(本来ならば『校務日誌』や『教務日誌』等は永年保存のはずなので学校では保管していると思われるが、そこまでの開示請求は諦めた)。

 次が第二点目である。
 一方、この件に関しての教え子や同僚の証言等としては次のようなものが見つかる。
(1) 菊池信一
 この時の賢治の退職に関しては、菊地信一も次のように不思議がっていたという。それは、信一が友人の板垣亮一から『(賢治は)農学校をどうして退職したんだ』と訊かれた際のその答であり、次のようなものだ。 
 岩手国民高等学校の舎監、高野主事と農業経営なのか学校経営なのか分からないが、議論したことが原因のようだ。国民高等学校の卒業式が三月二十七日であったが、同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた。
           <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)、25p>
(2) 堀籠文之進
 森荘已池の『(賢治の)こんなにたのしい時代が、どういうことで終わりになったのでしょうか』という問いに対して、堀籠は次のように答えていたという。
 いろいろな説もあるのでしょうが、俸給生活にあこがれる生徒たちに、村に帰れ、百姓になれとすすめながら、自分は学校に出ていることに対して、矛盾を感じたことからでしょう。大正十五年三月の春休みに入ってから、
 ――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
          <『野の教師 宮沢賢治』(森荘已池著、普通社)、231p~>
(3) 白藤慈秀
 白藤は『こぼれ話 宮沢賢治』において、次のように述べている。
 宮沢さんはいろいろの事情があって、大正十五年三月三十一日、県立花巻農学校を依願退職することになった。あまり急なできごとなので、学校も生徒も寝耳に水のたとえのように驚いた。本意をひるがえすようにすすめたけれども聞きいれられなかった。科学、文学、芸術総てに亘ってすぐれた宮沢さんに去られることは学校としても痛撃であり、また生徒にとっても良師を失うさびしさは抑え難いものがあった。常に信頼の深かった先生に別れる生徒達は、幼児の慈母に別れる思いであった。退職の理由は何であるかとといただす生徒も沢山居たが、いまの段階では、その理由を明らかに話されない事情があるからといって断った。
           <『こぼれ話 宮沢賢治』(白藤慈秀著、トリョウコム)、67p>
 よって、これらの⑴~⑶からは、
    賢治の退職は年度末の唐突なものであったことが明らかになった。……②
と結論せざるを得ない。

 そしてもう一つ、第三点目である。
 承知のように、大正10年の年度途中で賢治は花巻農学校の教諭となったわけだが、『新校本年譜』によれば、その際の赴任式が大正10年12月3日(土)に行われていて、
 養蚕室で赴任式があり、校長に紹介され「只今ご紹介いただいた宮沢です」といって礼をし、段を下りた。丸坊主に洋服である。
             <『新校本宮澤賢治全集16巻(下)年譜篇』(筑摩書房)228pより>
と、簡潔にではあるがその際の挨拶の内容、服装などの記述がある。
 この記述内容は、花巻農学校の『校務日誌』(あるいは『教務日誌』)は〝永年保存〟の性格を持っているから、同日誌の記録からその事実は確認できたと考えられる。まして、定例の赴任式ではなくて年度途中のそれなのに、日時まではっきりとわかっているといるのだからなおさらにそう言えるだろう。逆の言い方をすれば、定例の年度末の「退任式」の記述が同年譜にないということは、それが行われなかった蓋然性が極めて高いということを教えてくれる。
 しかも、賢治の「赴任式」については例えば鈴木操六の、
 南側の開け放された養蚕室で、畠山校長が、先生を紹介された。その後に先生は壇の上に立って、至極簡単に、ただ今ご紹介いただいた宮沢ですといって礼をして壇を下りられた。
         <『宮沢賢治 その文学と宗教』(山田野理夫著、潮文社新書)61p~より>
という証言があるくらいだから、もし退任式が行われていたとすればこの鈴木のような内容の教え子たちの証言があってしかるべきだが、そのような証言や資料も見つからない。

 よって、これら〝①、②〟と第三点目により、
    賢治の花巻農学校の辞め方は、退任式等さえも行われなかったほどの唐突なものであった。……③
と結論せざるを得ない。
 つまり、賢治は年度末ぎりぎりになって突如農学校を辞めたということであり、それは生徒に対してだけではなく学校当局に対してもそうだったということになるだろう。そしてもちろん、このような辞め方は客観的に見れば極めて身勝手な行為である。実際私の高校の現場経験から言えば、この賢治のような辞め方は教員として許されないことの最たるものの一つであるからだ。換言すれば、この時の賢治の退職の仕方は社会通念上からは許されない唐突な辞め方であったということを、賢治自身の言動が教えているとも言える。
 おのずから、
 賢治は花巻農学校の教諭辞職に当たって、周到な準備も綿密な計画もあったわけではなく、まして将来的な展望があって辞めたということではなかった。……◎
と判断せざるを得ない。そしてこのことは、大正15年4月4日付森佐一あて書簡(218)中の、
    もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。
           <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)>
という一言も〝◎〟を雄弁に裏付けてくれていそうだ。

 同時にこの一言は、賢治は堀籠に対して「新しく、自営の百姓をやってみたいから」と答えたということだが、これをそのまま素直に信じるわけにはいかないということも教えてくれる。一見、この「答え」は「賢治は百姓になるつもりだ」ということを意味しているようもとれるが、〝②〟であったことがはっきりした今はそうではなくて、この一言によって、この「答え」は賢治が熟慮をしていた上で発したものであったとは到底言えないことを知る。実際にその後も、賢治の「自営の百姓をやってみたい」を窺わせるものを私は見つけられない。だから、この「答え」はその場を取り繕ったものであると判断する方がより妥当であろうとしか私には思えない(だからもしかすると、この「自営の百姓」の「百姓」とは、当時日常的に使われていた「百姓」<*1>という意味ではなくて、例の「本統の百姓」を指しているのかもしれない)。
 そして実は、賢治のこの時の退職について地元のある方(この方は賢治についていろいろな事を知っている)から、
    あれは賢治が辞めさせられたのさ。……④
と教えてもらったことがある。
 しかも賢治の教え子小田島留吉は、 
 花巻農学校の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」という賢治自筆の紙が廊下と講堂の入口に貼ってあった。
            <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)26pより>
と証言している。当然、この賢治の行為は大正15年4月の事になるわけだから、賢治は当時30歳でありそのような大人が普通やるべきことではない。言い換えればこの行為は当てつけみたいなもの<*2>であり、もしこの行為が事実であれば先の〝④〟がいよいよ現実味を帯びてくる。
 それは取りも直さず、賢治が花巻農学校を辞した理由は、
 賢治は生徒に対しては「農民になれ」と教えながら、自らは俸給生活を送っていることの葛藤から、自分も百姓になるから生徒諸君もなってくれという強い態度を示すために花巻農学校を辞めた。
と巷間云われているようだが、真相はそうではなく、そこには私達にはまだ知らされていない真の理由があったのではなかろうかというこということであったり、あるいはそれこそ不羈奔放な賢治の性向が遺憾なく発揮されたものだったりということなのかもしれない、などということを私はついつい考えたりしてしまう。

 とまれ、賢治の花巻農学校の辞め方が不自然であったこと、そして現象的には
    賢治の花巻農学校の辞め方は、退任式等さえも行われなかったほどの唐突なものであった。……③
であったことはもはや疑いようがない。
 したがって、賢治が農学校を辞める直前も、少なくともその後もしばらくは、
    「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」
ということを、賢治の退任式等がなかったという事実が裏付けてくれている、と私には判断できた。

 つまり、賢治の退任式等がなかったという事実も、先の仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」を傍証してくれている。

<*1:投稿者註> ここでいう「百姓」とは、賢治が下根子桜に住んでいた当時の人たちが日常的に使っていた意味での「百姓」のことであり、端的に言えば、当時農家の6割前後を占めていた「自小作+小作」農家の農民のことである。
<*2:投稿者註> 賢治に対してはまことに申し訳ないが、あまりにも不自然なことであるということは事実だから、私は追究してみる。それは、この「当てつけ」と似たようなことが行われた可能性が否定できない、例の大正15年4月1日付『岩手日報』に関わる次のことだ。
 賢治が花巻農学校を突然辞めるという私的な行為が、なぜ『岩手日報』という公器に間髪を入れずに載ったのだろうか。菊池信一の証言等からすれば、賢治が花巻農学校を辞めることが公的に知られ出したのは、早くとも国民高等学校の終了式の行われた日(大正15年3月27日)であろう。一方、この新聞報道は大正15年4月1日だし、記者は「きのふ宮澤氏を訪ねると」と書いているから、賢治が取材を受けたのは3月31日だと推測できる。とすれば、その期間は
  3月28日、29日、30日
のたった3日間しかないこととなる。
 ましてこの時期は年度末だからあちこちで人事異動が数多ある中、この短期間の間に当時のマスコミが単なる個人的な退職を知り、なおかつそれをわざわざ新聞報道をするほどのニュースバリューがこの賢治の退職にあったとは常識的には考えられない。すると考えられる可能性の一つとして次のようなことがある。
 それは、賢治の方から『岩手日報』に取材を働き掛けたという可能性である。というのは、年度が改まっての花巻農学校の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」という賢治自筆の紙が廊下と講堂の入口に貼ってあったということだからこれはいわば「当てこすり」であり、これと同様な意図で花巻農学校に「当てつける」ために取材を依頼したという可能性がある。それは〝④〟からも示唆される。言い換えれば、賢治が花巻農学校を辞めた真の理由は、巷間云われているものとは全く違った別な理由であったという可能性もあるということである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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