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「一本足」論争(経過報告10)

2024-07-16 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

*****************<(27)↓投稿者H氏/2013年10月12日 00:41>**********************
鈴木さん、こんばんは。お返事ありがとうございます。

私は、『續 宮澤賢治素描』に出てくる「十一月」は「昭和2年11月」であり、『宮澤賢治物語(49)』に出てくる「十一月」は、「大正15年11月」と考えています。
この点についての私の考えは、議論の最初からずっと変わりはなく、これまで何度もご説明しておりますので、きっと鈴木さんも耳にタコができていることでしょう。
また今さら、ここで繰り返す必要もないとは思いますが、ただ今回わざわざ尋ねられたということは、ひょっとしてまだ十分にご理解いただいてないのでは?と一抹の不安がよぎりましたので、ここにあらためて整理しておきます。

1.昭和23年『續 宮澤賢治素描』の段階では沢里は、賢治の上京を見送ったのは「昭和2年11月」のことであるという自分の記憶を、そのまま語っていた。
2.その後沢里は、昭和31年連載『宮澤賢治物語』の証言をするまでのある時期に、賢治年譜および賢治書簡221を見て、この上京は実は大正15年のことであったと認識を改め、『宮澤賢治物語』を執筆する関にもそのように証言した。(=「この上京中の手紙は、大正十五年十二月十二日の日付になつておるものです」)
この段階でも、上京を見送った「月」に関しては、賢治の父あて書簡群からは「11月または12月」ということしか言えないので、沢里としては自分の当初の記憶を訂正する必要はなく、「その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日」と言った。したがって、これは「大正15年11月」のことである。
以上です。

それでは、三顧の礼でお願い申し上げた私の「質問」に対する鈴木さんのお答えを、待たせていただきます。

*****************<(28)↓投稿者鈴木守/2013年10月12日 08:14>**********************
H 様
 お早うございます。
 安定した秋らしい日々が続かない花巻ですが、御地は如何ですか。
 まずはお断りとお願いがございます。
 今回のこの議論の発端は、公的媒体上に発表されましたH様の、

『鈴木さんの『羅須地人協会の真実』という本は、この沢里武治の(訂正前の)証言をほぼ唯一の根拠として、全体が「一本足で」立っている形なので、こうなるとその存立はやや危うい感じもしてきます。』

というご批判に応えるというものであるということをお断りさせていただきます。
 つきましては、今回の私からの反論におきましては私の進め方に沿っていただけないでしょうか。懸案のご質問につきましては、この反論が一段落したところで必要とあれば、私の考え方を必ず述べますので。
 
 さて、ご回答どうもありがとうございます。
 ただし私が質問しましたのは、昭和31年の『岩手日報』に載った「宮澤賢治物語(49)」の、

『どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…その十一月のびしょびしょ霙の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりましたが…』

となっている中で使われている最後に出て来た「十一月」のことを、まさかHさんは、大正15年のそれの可能性もあるとは思っておりませんよね、という質問でした。
 はたしてここまでの文章内容から、この「十一月」がH様の仰るような『宮澤賢治物語(49)』に出てくる「十一月」は、「大正15年11月」と考えています。』というような解釈が出来ますでしょうか。私にはどう転んでも出来ません。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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