みちのくの山野草

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当時の「賢治年譜」にはどう記載されていたか

2021-04-23 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて今回は、主立った「宮澤賢治年譜」において、次の4点に当たる記載があるか否かを色分けして時系列に従って並べてみた。
(a) 大正15年の上京に関して
(b) 昭和2年の9月の上京に関して
(c) 昭和3年1月の賢治の身体状況
(d) いわば定説と言える、大正15年12月2日のみぞれの降る寒い日、セロを持ち花巻駅へ、教え子の沢里武治がひとり見送る

【表1  「宮澤賢治年譜」リスト】
(1) 昭和17年発行『宮澤賢治』(佐藤隆房著)
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す
             <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日 発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(2) 昭和22年発行『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)
大正十五年 三十一歳(一九二六)
 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
△  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
△ 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
             <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(3) 昭和26年発行『宮澤賢治』(佐藤隆房著)
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
一月、肥料設計、作詩を継続、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身体衰弱す
            <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和27年発行 『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店)
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京、タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
             <『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日 第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(5) 昭和28年発行『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店)
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
  十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す
             <『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>

  -------昭和31年1月1日~6月30日 関登久也著「宮澤賢治物語」が『岩手日報』紙上に連載---------
           <関登久也没           昭和32年2月15日 >

(6) 昭和32年発行『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房)
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を發表した。又上京してエスペラント、オルガン、セロ、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席してフィンランド公使と農村問題について話し合った。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
九月、『銅鑼』第十二號に詩「イーハトヴの氷霧」を發表した。
上京して詩「自動車群夜となる」を創作した
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱して來た
            <『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年7月5日再版発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(7) 昭和41年発行『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著)
大正十五年(一九二六) 三十歳
十二月四日 上京して神田錦町三丁目十九番地上州屋に間借りした。
上京の目的は、エスペラントの学習、セロ、オルガン、タイプライターの習得であった。
十二月十二日 神田上州屋より父あて書簡。

 ――今日午後からタイピスト学校で友達となつたシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。
             <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、 昭和41年3月15日発行)より>
(8) 昭和44年発行『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房)
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、月初めに上京、二十五日間ほどの間に、エスペラント、オルガン、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席、フィンランド公使と農村問題、言語の問題について話し合ったり、セロの個人授業を受けたりした。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。
             <『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和44年3月 第二刷発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(9) 昭和52年発行『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
              <『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月30日発行)「年譜」より>
(10) 平成13年発行『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
             <『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房、平成13年12月10日発行)より>

 そして、この【表1  「宮澤賢治年譜」リスト】を俯瞰して、際立っていると私がまず思ったことは、次のことだ。

 現在の定説と言える、「大正15年12月2日のみぞれの降る寒い日、セロを持ち花巻駅へ、教え子の沢里武治がひとり見送る」が「賢治年譜」に記載されるようになったのは、昭和52年発行の『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』以降である。

 なるほど、これで少し見えてきたぞ。あの〝関『随聞』二一五頁の記述〟を典拠としているはずの「現定説」は、倒産直前の昭和52年に突然現れたということがこれで解ったからだ。

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