みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

横車を押されてかえって明らかになったこと

2021-05-06 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 さて、先の投稿〝「大正15年12月2日」の定説の修訂が必要〟において、
 当然、現定説
(大正15年12月2日)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。……①
は修訂されねばならない。
と私は主張した。言い換えれば、『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』が、
 *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。……②
と、その根拠を読者に明示せずに年次を変更したこの「現定説」は棄却せねばならないことを、端無くもこの「関『随聞』二一五頁の記述」自身が教えているということを、私は明らかにした。
 いわば、
 『同 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』は、〝②〟という横車を押して〝①〟としたのだが、そんなことはもともと無茶なことだった。
ということになる。延いては、〝②〟というような安易な一言で他人の証言を書き変えることは、結局は自らの破綻を招くことになるということを私は教えてもらった。

 しかし、この横車が押された結果、かえって「関『随聞』二一五頁の記述」の、正確にはその初出「澤里武治氏聞書」、
  澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしてもしのびなかつたし、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しいことでありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過されたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
             〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)、60p~〉
の信憑性が極めて高いということを、逆に教えてもらった。

 そこで、この「澤里武治氏聞書」の信憑性が高いということから、たとえば、
 昭和二年十一月頃の賢治の上京の際、賢治を見送ったのは澤里武治一人であった。
 それに伴って、柳原が『一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども』と証言しているあのときとは、大正15年12月2日の上京のときのことだった。
ということはほぼ間違いなかろうといことも知ることができる。
 そして、「澤里武治氏聞書」の信憑性が高いということを、あれらのことは傍証しているのだということにも気付く。

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