みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

えっ、いくらなんでも!

2021-04-16 16:00:00 | なぜ等閑視?
《金色の猩々袴》(平成30年4月8日撮影、花巻)

 「えっ、いくらなんでも!」、と私は思わず声を発してしまった。それは、『新校本 宮沢賢治全集〈第16巻 下〉補遺・資料 年譜篇』の大正15年12月2日の次の記述を見て、だ。

 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。
 *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
             〈『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』325p~〉

 なんと、あの筑摩書房が、「「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、定言的な言い回しを用いて、その典拠も明示せずに「関『随聞』二一五頁の記述内容」を書き変えたということになるからである。

 ちなみに、その〝関『随聞』二一五頁〟を実際に見てみると、
 沢里武治氏聞書
 ○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(投稿者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
             〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
というようなことが書かれている。

 畢竟するに、
 『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』は、澤里武治の証言を、「「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、いわば超法規的な一言で、年次を「大正15年」に書き変えていた。
ということになる。はてさて、他人の証言をその典拠も明示せずに書き変えるということがはたして許されるものなのだろうか、と私は思い悩んでしまう。

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